書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

マルクス主義における疎外論と物象化論

何かためになる? 記事を書こうと思い、最近もっぱら創作作品を載せていたので、何かを解説するかのような体の記事を書きたいと思います。

マルクス主義における疎外論と物象化論

1、疎外論とは

 「疎外」という言葉は「疎外される」という受動態の形でたまに使われたりしますが、マルクスマルクス主義哲学においてはいっていの意味を持ちます。

疎外、疎外されるとはどういうこと? wikipedeiaの説明を見ます。

疎外
哲学、経済学用語としての[1]疎外(そがい、独: Entfremdung、英: alienation)は、人間が作ったもの(商品・貨幣・制度など)が人間自身から離れ、逆に人間を支配するような疎遠な力として現れること。またそれによって、人間があるべき自己の本質を失う状態をいう。

ということなので、人間が作った生産品であるところの貨幣、商品、ひいては資本主義制度じたいが、人間を翻弄するようになることまでをも指すと言われています。

基本的に僕もこのラインで疎外論を理解していました。しかし最近、廣松渉の『今こそマルクスを読み返す』や『物象化論の構図』を読んだので、さらに敷衍することができます。

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

物象化論の構図 (岩波現代文庫)

物象化論の構図 (岩波現代文庫)

 特に、『物象化論の構図』の「物象化論」は、廣松さん自身が中心的に唱えた説であるように見受けられました。そこでは、ルカーチ疎外論をいったん批判し、自身の論理を持ってくるという流れでした。それを紹介します。

2、ルカーチ疎外論

 以下は、廣松渉『物象化論の構図』で説明されている事柄です。ルカーチというマルクス主義陣営の哲学者がいますが、ルカーチはこのマルクス哲学から「疎外論」を摘出して拡大して論じた人と言っていいと思います。ルカーチ疎外論の図式は、簡単に言うと以下のようになります。

A 原初状態(楽園)

B 人間が生産を開始し、人間社会は(疎外によって)悲劇に陥る (失楽園

C A=楽園の状態に復帰するために、革命や社会救済が開始される (楽園の復活)

 と、三段図式で説明が可能なようです。つまり、ルカーチによる疎外論は、人間が単に資本主義制度に呑み込まれて失楽園的な悲劇=資本社会に頽落することを指摘するだけでなく、後のレーニンスターリンといった、社会主義、さらには共産主義による世界回復の物語までをも論じてしまうのです。

 だからこういう点で、マルクスはそこまで言ってないとか、共産主義による革命を唱えたわけではない、とかいう話になってくるのでしょう。そこは大いに批判もできるポイントでしょう。

3、廣松の物象化論

 さて、肝心の廣松渉はこれをどのように理論修正したかというと、僕にはよく分からないのです(爆弾)。 『物象化論の構図』というテクストは、長編の理論書ではなく、講演会のテキストや幾つかの論文をまとめて出版したものなので、その理論の核となるものが集中的に論じられているようにはどうしても思えませんでした。
 それでも、廣松が物象化論という概念で語るときに、「錯視」という言葉を多用していました。

 これはつまり、「物象化」というと、観念的なものが具象的なものへと転化する、みたいな意味合いをもってそうですが、廣松によるとポイントはそこにあるわけではないらしく、人間が商品を生産する=支配する → 商品によって人間は管理=支配されている というこの疎外論のポイントを批判したかったようにも思えるのです。つまり、ここからは僕の考えですが、廣松は、「資本主義制度に商品も人間も同列に置かれるかのようにして呑み込まれてしまう」「ように成り立ってしまう」ことを言いたかったのではないか。 廣松の疎外論批判は、結局、「資本主義制度と人間と商品の関係性」の厳密な批判(Q)と、「~のように成り立ってるようにみえる」ことへの批判(R)を探求したかったのではないかなと、僕は思います。結局それが、(Q)のちの『「資本論」を物象化論を視軸にして読む』や『資本論の哲学』というマルクス研究の継続と、(R)『新哲学入門』や『哲学入門一歩前』などによって論じられる「認識や存在」といった基礎概念の再検討、といった風に彼自身の研究が広がっていったのかなと思います。

4、終わりに

 3の廣松の物象化論の理解は本人自身がぼかしているような感があるために僕も説明しづらかったのですが、大体書いたようなことでラインは外していないとは思います(要注意だけど)。 マルクス廣松渉を読むための何かの参考になれば本当に幸いです。ありがとうございました。

私とショパンの夢(小説)

私とショパンの夢
misty

 私はショパンが好きだ。そのことを彼女に話すと、()は「あだなるパンは天空から降ってきたものではない。それはパン屋が労力をかけて作ったものだ」とひねくれたことを言ってきた。あだなるパン、と聞いた私は、それが諸―パン、つまり音楽家であるところのショパンの文字遊びであるということに漸く気が付いた。「そのパン屋では」おい、話はまだ続くのか? ()もクスクスと笑った。しかし私は()の話を遮った。「ショパンの何が好きかと言ったら勿論曲のことだけど、僕が今ハマっているのはピアノ・ソナタさ。こいつはいいよ! なんせ全てのスケール、全ての時間、全ての包括―世界をたった一つの楽器で聞けるのだからね! だけどね、とりあえずこれは置いておこう……僕はショパン夜想曲ポロネーズが好きさ。夜想曲でも一番有名なのはOp9-2、そしてポロネーズにも有名なのは軍隊ポロネーズ英雄ポロネーズ、この二つだな。それにしても英雄ポロネーズの華々しいこと! ねえ、()、聞いてる?」
 「私はお前のその饒舌が気に食わないんだな」もはや代数学的観念であるところの()は方程式に数値を代入しながら私がショパンショパンと語り終えるのを自ずと待っていた。私はしょげた。その中に、えい、()の奴、許せねぇ! という気持ちもあったので、暖かい冬の部屋の静寂を紅く誘惑するCDコンポより流れるピアノ・ソナタの「第二番 変ロ長調 作品35」の音量を、ぐいと上げた。第三楽章だったので曲の中でも一段と小さく、哀しく、そして優しき場面でもあった、私と()をめぐる空間は奇しくも柔らかく丸くなって落ち着いていった。(私は演出家でもあった!) ()はまた話を再開した……諸々のパンを作るパン製造業者の仕事量。別のライバル店の仕事量。それを仕事算で計算する。小学生でできる計算だ。実にシンプルな式、美しい式。()は言った。あたしは日本的女。つまり閉じているの。内に閉じている、鎖国状態の、閉塞した女。私の式はそれで完結しているの。仕事算のようにね! あぁ、あなたのように開放的になれたら! ねぇ、ショパンって人、あなたの大好きな人は、開放的であったの? 私はそこだけが気になるの! 僕は……ショパンは……ショパンは開放的であったか? もちろん、彼の音楽には開放的なところを感じさせる曲もある。しかし、()の質問はそういう次元の話ではなかった。彼女はいったい何を言っている? 私は閉じた女だと? 私、私、私。そう言えば、()の本名を聞いたことが無かった。その時私は初めて気がついた。()は人間ではなかったかもしれなかった。でも私の大事な存在だ。そう、今や()は確固たるものとして存在していた。()は実在するのだ! 私はそう叫びたかった。私は、()に、今や月を代入しようとしていた。そして私もまた何かを代入し、何かに向けて応答しようと画策していた……。

 (月は沈む、それでも月は存在をやめない)
 (存在の不幸。存在するとは、重力を持たされることなのだ)
 (月も、太陽でさえも、重力は知っている)
 (でも、私たちは、重力を否定することができる)
 (月は昇る、太陽は昇る、何処からだろう)
 (地上の果てから、果てへと、私は、だから、極限なるものを肯定する)
 (極限なるもの、極限なるもの! そして私はそれを、内包する)
 (ああ、お前はやっとそこに至ることができたか)
 (私はお前の月になろう。そしてお前をずっと愛そう)
 (私はずっと月を見ているだろう。そこに存在の幸福があるだろう)

                                  了

夢の中で死んだ鳥は現実(2)

 ところでバードたちはどうして世界の原初を、肉体を持たぬ概念としてのバードとして探索しているのか? 錘の肉体を持つにはまだはやいし、それに神は決めかねていた。そう、もちろんアダムとイヴ——〈愚かなるもの〉たちも神話体としてのそれであるし、彼らも彼らで透き通る輝いた身体を持っていたのである。透明な身体。それが、アダムとイヴが禁断の果実を食す前に有していた充実身体のことであった。しかし、彼らは蛇に危うくも唆されて不実の実を食べてしまったため、昏き紅い血の迸った実に下らぬ「肉体」というものを持たされたのである。つまりアダムとイヴはそれ以降己の肉欲にしたがい、子孫を残さないと世界の主人にはなれない条件が課された。アダムとイヴはそもそも完全体だったのか? 蛇に唆されるという危険性をいとも簡単に犯してしまったのに? 宇宙の神は選抜を決めかねていた。そこで人間には神秘的な透き通った身体を、そしてバードたちには概念化をほどこして、世界の歴史の主人公として何が——だれが相応しいのかを神は悩んでおられた。神は最初から悩める虚しい存在だったのである。あぁ、悩める神よ! 話を戻そう。バードたちは肉体を持たぬ概念化した存在として、人間たちとはまったく異なる〈自由〉の象徴を任されていた。その一つは飛翔する羽である。もちろん人間は羽を持つことができない。いちおう、人間は大地の主人公(農耕)であると言える。鳥は空の主人公だ。人間は天空の存在をその〈愚かさ〉のゆえに知らない。もちろん、バードたちは地球外をも自由に飛翔することができた。そしてバードたちは神から遣わされ、われらの地球に降り立ち、そこで〈美しきしらべ〉は、革命の兆しは、そう革命とはとりもなおさず〈新しき創造性のまったき生活〉のことであるのだから、革命の兆しの讃美歌を掬っていた。バードたちは革命者として遣わされたのである。自由と革命。自由による革命。革命のためには、完璧なる讃美歌と、一つの大胆な意志と、そして宗教理論の体系が必要であった。彼らはそこに、幾つかの布石――やがてそれらは、ヨーロッパの諸宗教の原石、中国の宗教、イスラムの諸宗教、インドの諸宗教、ゾロアスター教、そして様々な民族誕生の神話と理論という風に、〈愚かなるもの〉たちによって決定的に断片化されてしまうのだが、それらすべてはもともと唯一つの〈原宗教〉であった。鳥たちの宗教、鳥の宗教とはまさにこの〈原宗教〉、すなわち文字に具現された教典や言説などは持たぬ、概念の神秘としての原宗教であった。バードたちは森の薔薇に彩られた湖に集って、この原宗教の体系化を話し合っていたのである。そこに、「概念をも打ち壊す破壊の化身」としてのピストルがやってきた!



 

夢の中で死んだ鳥は現実(1)

夢の中で死んだ鳥は現実
misty

 バードが死んだ。彼女の夢の中で死んだバードはいかにも薔薇色に染められた概念としての現実だったのだ。彼女はバードを思い浮かべた。そこには宗教の鳥があった。彼女と私は宗教の鳥に魅せられていた。そこがはじまりの地点だった。
 バードは夢の中でいくつもの鋭利な棘をもつ弾丸に撃ち抜かれて死んだ。そのとき世界中に咲き誇る鳥たちの頭がいくつも飛び散って血の塊となり空へと大地へと降っていった。血の雨。人々は「悪魔だ! 悪魔の火だ!」とたいそう恐れ、各々自分たちの家に逃げ帰っていった。しかしそれは祝福の開始でもあったのである。なぜなら今後地球の主人となるのは人間ではなく、鳥たちであるのだから。彼女は鳥であることを夢想した。「鳥に―なること……生成変化。私が鳥だったら、どんなに素敵なことかしら」
 はじまりは、そんなものだったのだ。

 バードは、正確には一匹ではなく、六匹いた。スズメ、ツバメ、フクロウ、カラス、シジュウカラカササギの組だった。カラスは狡猾だが実に怜悧で頭脳明晰だった。フクロウは知恵に長け、勇敢で、意志の力の強さを持っていた。スズメは臆病で、震えることがあり、他のメンバーにもあまり自分の意見を言えない小ささをもっていた。バードたちは美しい森の中を飛んでいた。そこには様々な色、青、紅、黄色、橙、水色といった薔薇の花で彩られた湖があった。森の木々はきほんてきに広葉樹で、明るく、光の差す力を全力で受け止め、生命たちに純粋なるエネルギーを与える場所となっていた。森は一つの方向で笑っていたのだ。だからバードたちも自由に飛翔しながら微笑することができた。生命のリズム。風、木々のざわめき。薔薇の歓待にバードたちは嬉々とした。湖面ではオオサンショウオであるところの湖の〈主〉ルシフェルが御礼とばかりに魚たちの舞を披露し、魚たちは湖の上を軽やかに跳ねて水中と天空の障害をいとも簡単にキャンセルしてのけた。跳べる魚——飛翔する魚! ここでバードたちの御一行に鮮やかなトビウオが加わった。
 ところで、バードたちは概念から羽化した理想的な存在だったため、実在する魚や木の実を捕食して生存を維持する必要はなかった——では彼らは何かを必要としたか? もちろん概念としてのバードたちにも何か存在の維持のために必要な要素が皆無というわけではなかった……概念は、〈美しき調べ〉を実際には必要としていた。〈美しき調べ〉とは、音楽のことである。それは高らかな歌、大胆不敵で輝いた歌、肯定の歌、何かを賛美し美しきものへと回帰する歌であった。それらは概念上そのたびごとに新しく作り直される必要があった。バードたちは自由に飛翔する中で、世界からそうした〈新しい歌〉が歌われているのを見つけ、その養分をたっぷり吸うことが必要とされていた。新たなる〈美しきしらべ〉を探索することもかねてバードたちは飛んでいたのだった。そして今回の森にたどり着いたわけだ。

 しかし幸福な死の訪れは静かに忍び寄ってきた。エデンの園と呼ばれたその場所で……愚かな行為を常にし続けるものが、さらに不幸な運命を背負ってしまった。その愚かな地球上の存在は、犯してはならぬ禁忌をうちやぶってしまった。その愚かなる地球上の存在は、もちろん人間の出発点である。この物語を語る上では便宜上〈愚かなるもの〉と表記しておこう。愚かなるものたちは森の生き物にそそのかれ、いとも簡単に「捕食」をしてしまったのだ。甘きをしってしまった愚かなるものは、苦しきをこれから味わわねばならなかった。それどころか、彼らはその愚かさの末に世界をやがて破壊してしまうという凶暴な性格をも付与されてしまったのである。凶暴さの棍棒と迎撃としてのピストルを手にしてしまった愚かなる者は、やがて吸い寄せられるようにもう一つの森——すなわち樹海の糸を手繰り寄せて盲目な暗夜行路をはじめたのである。彼らは視力を奪われ、目の前の景色も分からずにひたすら恐怖のなかで彷徨 errance をはじめたのだった。目の前の景色が分からない。それゆえ彼らは棍棒を振り回した。ピストルを空打ちした。そうして森に住む者たちをどんどん威嚇し、同じ恐怖と混乱の渦の中に陥れ、自らもどんどん臆病になっていくなかでその存在の残酷さぶりを発揮していたのである。
 スズメはその空打ちの音を遠くから聞きつけたような気がした……同じく本質から〈臆病〉を患っていたスズメは、そのあまりの不審なるピストルの響きにほとんど驚愕しそうになった。これは世の通常の音ではない——もちろん〈美しきしらべ〉とはかけ離れている! それくらいピストルの音は世界を激震させるものだったのだ。バードたちからまだ遠く離れている〈愚かなるもの〉たちは、もちろん実弾をも手にしていた。かれらは恐怖が狂気に反転するころ、やがてその実弾を装填するであろう。実弾を打ち込むであろう。そのとき最初に世界にひびが入り、「現実の(概念としての)」バードたちはやがて殺されるであろう、最初の人間に。愚かすぎるものたちに。禁断の果実を手にした者たちによって。

外れていくもの

外れていくもの
misty

 外れていくもの、中心から逸れていくもの。それらは端的に、美しい。はっきりこう言いたい。外れていくものは、確かに私自身であり、かつての私、もちろん現在の私である可能性も否めないが、とかく寒々とした過去の私への憧憬がひきずられていく。私は愛にも似た感情を覚える。外れていくもの、外れていく者! 彼らにはしかし、道がある、その道は、確実に彼らに帰属している。円の描く弧とは別の、楕円線のなんと美しいこと! そこには音楽の調べがある。大胆であり、不敵であり、哀しくもある、悲調の行進曲である。外れていく! 中心はもうない。中心とは堕落のことだ。人生において唯一つの中心とは、何と単調なことか。単調と言うには安い、安くて簡単で低俗なもの。外れていくものとは高貴なものである。高貴であるとは、別の意識を持ち、anotherへの感覚を持ち、anotherへの生や世界への飛び込みを覚悟することだ。世界をひらくこと、これが高貴の条件の一つである。
 反対に、正円とは詰まらないものである。それは大衆的であり、迎合的であり、規律的なものであり、規則であり、したがって正社会的なものである。社会は一つの力を持つ。それは人民=個を集中させ、一つの方向にまとめあげてしまう。正しい社会は、個を殺し、一つの奴隷機械へと仕立て、元来は動的な人民をオートマティックなものに変えてしまうものなのである。外れていくものは、ある意味でこの正しい社会に反抗している。反している。外れたものは、正しい社会の否定であり、ルサンチマンであり、格闘である。外れたものは、再び個を獲得する。それは動的な生を獲得するのである! 正しい社会からは外れ、大胆に逸れていき、全く違う線を形成する。その力強いこと。それは芸術的であり、したがって美的であり、さらには反抗的である。反抗とは優れて美的なものだ。
 道とは何だろうか。それは、楕円線のように、「規定されえない、未来への方向性をもった生―線」のことである。正円は、唯一つの姿に固定されており、甚だしく詰まらない。それは唯一つの方向を持ち、内側の閉塞へと拘束されており、中心点から常に監視されている。水槽の中の金魚。毒を水中にたらされた金魚鉢。正円から放たれた、外れていくものはそれに否! をつきつけ、行進曲をかけ、大胆にanotherなる線を形成していくのである。その生―線は未知であり、したがって道であり、潜勢力のほとばしる塊である。
 私は過去を見る。私自身の過去。それは正円に規定された奴隷機械としての私である。たしかに私はその中で輝いていた。私は外れていくものであり、外れていくものと外れていく者を肯定するものである。私に現在は無い=否。私は過去と未来を綜合するものである。過去と未来に懸け橋をつなげるものである。外れていくものは、未来へと投げかける。私には見えなかった未来が、外れたものには獲得されている。その何と貴重なこと! 私ははじめから外れていくものを予感していた。私はこの予感の内に、外れていくものへの讃美歌を聴き取り、それを世の中へと伝えていくであろう。(了)

光の夏(詩)

 公募締め切りを大幅に過ぎてしまった詩の一つを掲載させて頂きます。本当に送る行先が消えてショックです・・・


光の夏
misty

せかいがカクサンしてゆく 我らのせかい
否、ワタシのせかい
道、一本の光
お前の影がお前自身をこうも残酷に作り上げた
車道の端で ねっころがるカブトムシ
そう 夏はいつもデラシネだった
ワタシは狂っていた
ワタシは 
あいつも 彼女も

モッブの中で 戦闘機に叩かれた
夢の洗濯機を 叩け、破壊せよ!
すらんぷに陥ったワタシは
書く、書く、書くことを通じて
せんそうをしる
拡散条約 ぎょくおんほうそう
いったい いつの時代だったか?

ガラスの破片 手から反吐
そんなウユニのワタシの恋は
十一月の雨に降られて 泡沫になった
四月の讃歌が かれらをうつくしくしゅくふくした
ぼくはだれだ、そうぼくはだれだ
僕の前に誰が来て、
僕の後には誰が拡散を止めるんだ

ぼくは世界の発展の信仰をしない
僕はアナーキスト
フィラデルフィアでも 間違い電話ばかり
いつだって著名だった 空の下
破片を集めて 崩しかかった世界を
あぁ
宗教が 世界をこまごまとするのだ

しゅうふうに見舞われたこうふく
奴隷、鎮座、降伏の魂を汝らに植えつけん
国道の果てに 陽炎 向日葵
姿を持たない男が
半分だけの心で 歩いていました

間違いもなく 僕らはチルドレン
セイタカアワダチソウのように支えられた
下らない生き物
猫のように さんざめくつくしの穂のように
どこから流れて 乱さるる 北京へ
砂が塗れる 見舞われた国の長江で
合鴨の 骨を割ってさむざむと喰ってる

廻ってきた、輪廻が廻ってくる
旅だ、カクサンの旅だ
放屁し げに足蹴なるは
お前の匂い、口、骸
疑って、疑って、疑って、
あてどなき 詩人を呼ぶ

そう詩人こそは
何をも止めない 歌うたい
海上の道をひらき
山間の頂をご馳走になる
ぼくよ、満足したか?
世界は平行だ
ただ 耳を澄ませ 聞き咎め
夜の気配が満ちている
闇の香り
そこに夏の光がやってくる
もう何十年も前から
居座り続けた門の前の老婆のようにして

夏だ! 蝉だ! 太鼓を鳴らせ!
もう来ないんだ、詩人も老婆も
お前はお前の世界を放出し
夢から醒めたならばの一ページを
ひらいてめくれ
足のひん曲がった杖が
鳴るべき音をおしえてくれる
恐るべき 飛行機たちよ!
次の夏はやってくる さよならの前に
来るべき世界の前で
緑の革命を 俺に教えてくれ

(了)

マゼッパ、鬼火、悲愴

小説の一つのネタとして書きました。最近文章を発表できていなかったので自分を揺り動かすためにもブログにしました。

■マゼッパ、鬼火、悲愴
 フランツ・リストの超絶技巧練習曲・第四番ニ短調「マゼッパ」は闇への信仰の序曲、すなわち闇への信仰の〈道〉を誘ってくれるリトマス紙である。マゼッパは少し華麗すぎるところもあるかもしれない。だからそれはまだ現世——私たちが言う所の……もっと砕いた説明が後に必要——の軽やかしき美をも有している。マゼッパは序曲、誘いにすぎない。艶やかなるピアノの前に座して圧倒的な振舞いの中リストを弾きたおすピアノストを想像せられたい……美しき黒鍵……白鍵の中でそれは光輝いている。白と黒、モノクロから成す無限の夢幻。しかし、マゼッパの熱は本物だ。あれは熱分子から生まれたものではない。いや、この説明は正しくない。熱―分子なるものの存在を我々は真摯に再考せねばならないが、とりあえず熱の大元があるのだと仮定して、それは闇なのである。熱、暖かきもの、暖かくして激しく畏怖なる唯一人の〈王〉の称号に相応しい熱の主は、闇なのである。熱は闇から生まれる。悲しみ、悲哀、激昂、嘆息……それらすべてをマゼッパの熱は含めている。激しく鳴り散らす高音とトリル。熱の粒子をリストは描いている。それがマゼッパだ。もう一つ、マゼッパの誘導にやさしく誘われたら、第五番変ロ長調「鬼火」の出番だ。鬼火はもうちょっと繊細な炎だ。繊細というか、より深く、味わいを変え、炎の中に悶えるものの身体を恍惚に染め上げる。それはもうほとんど悪魔の仕業である。もちろん、闇と悪魔は密接に結びついている。まだ闇と悪魔との関係について我々——心臓部(ブイレン部)——は十分な理論を得ていない。しかし悪魔は闇を利用し、多大なる効果を発生する。闇はそのかわりに悪魔たちを最大の僕とする。鬼火に悪魔の声を聞きとるべきか? 私たちは結論を急がない。マゼッパから鬼火へのスリリングな移行がここにはあるだけなのだから。最後を締めくくるのはベートーヴェンの三大ピアノソナタの一つを飾る「悲愴」である。私たちの関心の的である闇への信仰を語るときには特にそのなかでも第一楽章が重要である。「悲愴第一楽章」を正確に理解するためには、ある種の狂気が必要である。狂気。世の中には、狂気という言葉がありふれている。しかしそのとき、狂気とは単に正常から外れたことしか意味していない。つまり、正常でないことがあらゆる狂気の範囲に含まれている。しかし、私たちはある確実な状態を「狂気」と名指す。それが闇への信仰の真のはじまりである。悲愴のアップテンポと静への回転運動のうちにそれはある。リストの超絶技巧であるところのマゼッパと鬼火をよく聴いたとき、ベートーヴェンの悲愴は真の姿を纏って私たちの眼前に現れ出る。闇への信仰を手にしたものはみなこのように静かにかつ強烈に狂っている。後に見るように確かに私たちは世界の革命を目指す。革命家は狂った者にしかなれないのだ。私たちが人間たちの間で数少なく尊敬する者の一人はマルクスベートーヴェンである。闇の中にいるマルクス、闇の中にいるベートーヴェン。でないと悲愴の第二楽章のような曲は決してかかれなかったであろう。美しく静かに狂った曲として私たちは第二楽章を理解する。それは、もう起こってしまった後の、悦ばしい事態なのである。第一楽章と第二楽章との間に信仰への入門は導きを終える。私たちはもうベートーヴェンを好きなように解釈していい。マルクスを好きなように理解していい。何故なら私たちはベートーヴェンを知っており、マルクスを十分に知っている。それらは聖典というより、トイレットの中にある蓄えられた良い芳香を漂わせるまっさらのトイレットペーパーのようなものである。私たちはベートーヴェンを、リストを「使用」して闇への信仰を高めるのだ。マゼッパ、鬼火、悲愴ソナタを聴いたなら、私たちは次に必要な交響曲を知ろう。(了)