書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

「死ね」という言葉の新しい時代性

 若い人が簡単に発する「死ね」という言葉の肯定性を私は見ている。「死ね」という言葉は普通は否定的に捉えられるからだ。しかし、現実に「死ね」という言葉やセリフはこの世界にありとあらゆるほど表象している。これは、否定的な死ねだけではないということだ。肯定的な「死ね」があるわけではないが、これほどスムーズな死ねが出る文化背景があるのである。

 まったく違う方向から話を進めていく。「もったいない」という世界にも伝わっている言葉がある。もったいないという言葉ないし概念をより大切に使いそうなのは年齢が上の世代であろう。実際そう思う。この「もったいない」というのは、明らかにある時代に結びついている。すなわち、第二次世界大戦前後の頃である。日本は戦争に敗れ物質的に貧しいところからスタートしなければならなかった。モノは非常に大切だった。かようなところで、茶碗にご飯一粒でも残っていたら「もったいない」と言って大事にその一粒を食べる、おてんとうさまのお恵みなのだから、というのは非常に分かる話である。

 ところで、現代ではモノが溢れかえっている。溢れかえっているのはモノだけではない。ヒトも、モノも、それから情報もである。現代は「過剰の時代」である。接続過剰であるという時代診断を下した哲学者の千葉雅也がいるが、現代は端的に「過剰の時代」なのだ。

 あらゆるところにモノや情報が溢れかえっている(それこそ無限に近い)。 しかし、人間の処理能力は限られている。そんなにモノが買えない。そんなに情報が把握できない。そもそも、何を買えばいいのかわからない。何を信じていいのかわからない。何が大事で何が大事でないか分からない。

 おそらく、「死ね」という端的な言葉は、こういった過剰な時代に対する一つの「NO!」なのである。情報入らない、モノもいらない、というより勘弁してくれ、過剰が過剰になっていることに対する警告。危機感。ヒトが増えすぎている。モノが増えすぎている。情報が錯綜している。そういったものに対する、過剰への警告が「死ね」の文化的な背景なのだ。

 僕は、2010年代にあった映画「悪の教典」で、人をあんなにスムーズに楽しそうに殺すシーンを見て、非常に衝撃を受けた。あれも時代なのだ。ショックだったというわけではない。確かに少しショッキングな演出ではあるが、あれも、「過剰の時代」、特に人の過剰、精神病の過剰、障害の過剰、政治的問題の過剰に対する「いらない!死ね!」という心理・精神が多かれ少なかれ働いていると思えないだろうか?

 「死ね!」は、ある意味「もったいない」の反義語である。 物質的に貧しかった時代には、「もったいない」ということがいえた。今や物質のみならず、ありとあらゆるものが豊富どころか過剰に存在する時代に、その存在を消去していく方向は必ずや叫ばれるのだ。端的に「死ね!」と。お前ら、この時代に対して、何も言えねぇのか?と。

 僕はそういったものをとても力強く感じる。言葉の表面上の綺麗さなどは僕からすればどうでもいいのだ。

圧倒的に面白いと思った小説20選

29歳の僕は、24歳のときに文学に再びハマりました。のんべんだらりと読んできた24年間と、積読がこんなにたまるなんて!と思った5年間の読書歴の中から20作品選んでみようと思います。

1、フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

セリーヌといえば「……」の文体で僕もスッカリやられちゃっているが、「旅」のはじめのほうはまだあまり「……」が出てこないという事でも貴重。日本のバンドのGRAPEVINEが夜の果てへの旅という歌詞が出てくる歌を歌っています。

2、フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』

なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)

なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)

こちらは「旅」より激しく重い。とくに後半(下巻)からが本当の勝負です。フェルディナンの疑似自伝。

3、ヘンリー・ミラー『北回帰線』

北回帰線 (新潮文庫)

北回帰線 (新潮文庫)

ミラー的な世界観がイマイチ合わなくても「北回帰線」だけは残るような、そんな完璧な小説に近い。切なく、狂おしく、どこか笑える。

4、 ヘンリー・ミラー『黒い春』

黒い春 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

黒い春 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

『北回帰線』がお気に召したら、そこまで長くはないけど『黒い春』も良作です。言葉の弾丸。

5、マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』

世界終末戦争

世界終末戦争

これは小説好きな人全員に読んでもらいたい。僕の目指すべき作品、完璧なる物語と濃厚な文体です。大好き。

6、 バルガス=リョサ『水を得た魚』

水を得た魚―マリオ・バルガス・ジョサ自伝

水を得た魚―マリオ・バルガス・ジョサ自伝

惜しいかなこれは新品が出回ってはいないんじゃないか…… 水声社に注文したり、古書で探すしかないかもしれませんがとにかく傑作自伝です(もちろんフィクション的手法アリ)

7、カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)

テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)

とにかく読んでみろと。大地に生きる我ら、五百年の時を経て、今もまた再生する。

8、アルベール・カミュの全ての作品

『異邦人』『ペスト』『カリギュラ』『シーシュポスの神話』『幸福な死』『最後の人間』……代表作であろうがすべてはずれが無い(!)

9、ジャン・ポール・サルトルの全ての作品(小説)

『自由への道』『嘔吐』『壁他短編集』

10、ゲーテファウスト

ファウスト(一)(新潮文庫)

ファウスト(一)(新潮文庫)

例えばカミュなどは小説よりも戯曲をより芸術的に価値の高い作品形式だと認めていました。それはゲーテのこの作品のすばらしさからくる伝統でもありますね。

11、ダンテ『神曲

神曲 地獄篇 (角川ソフィア文庫)

神曲 地獄篇 (角川ソフィア文庫)

地獄 > 煉獄 <<<<<天国 の相関関係(笑) はじめは煉獄のほうが地獄より重いのかと思っていましたが生前の行いを見たら確かに地獄の方がキツい。

12、トルストイアンナ・カレーニナ

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

ロシアの大地にしびれました。アンナ夫人の不倫劇よりも、ロシヤの農地であくせく汗を流したり苦労したりする(主人公の名前忘れる)のが好きな描写でした。圧巻。

13、ソルジェニーツィン煉獄のなかで

煉獄のなかで (1969年) (タイムライフブックス)

煉獄のなかで (1969年) (タイムライフブックス)

収容所での囚人たちの厳しく和やかな暮らし。スターリン。悲しい別れ。激しい時代。忍び寄る不穏。いつまでも読んでいたい。

14、大江健三郎万延元年のフットボール

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

説明省きます(笑)

15、大江健三郎『死者の奢り・飼育』

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

大江健三郎はここから入門しました。今でも完膚なきまでに文章の凄みに叩きのめされたその衝撃が脳裏にそっくり残っているみたいです……。

16、川端康成『雪国』

雪国

雪国

静謐なる川端作品の中でも一番好きです。

17、森鴎外舞姫

現代語訳 舞姫 (ちくま文庫)

現代語訳 舞姫 (ちくま文庫)

高校の授業の時に読んで以来わしはこの作品に病みつきなんじゃ~!

18、村上春樹ねじまき鳥クロニクル

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

説明省略します笑

19、村上春樹ノルウェイの森

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

結局この作品がかなり好きだ。語りの手法がどことなくカズオ・イシグロ作品に似ていると思います。

20、江国香織『抱擁、あるいはライスには塩を』

抱擁、あるいはライスには塩を

抱擁、あるいはライスには塩を

江國さんは人気作家だけではなく、あくまで日本の前衛的な作家として今もずっと記録を更新しているような野心的な作家です。

以上、ありがとうございました!

Dark Side Of The Moon(現代への批判)

Dark Side Of The Moon(現代への批判)

 ……がない。理念がない。パトスがない。遊びがない。希望がない。「僕らは今度こそ、希望の虚しい氾濫の中で溺死しそうです。」*1 溢れすぎているようで、内容がない。中身がない。総じて、「無い」ことが当たり前になりすぎている。平気な顔で無が存在をする。たとえば理念がないことは恥ずべきことだ。なのに人々は平気で表を練り歩く。「理念をお持ちですか?」「知ったことか、あぁ?」こんなことはもう八十年も前から、いや二千年か、いや世界が始まってこのかた永遠に続いているのかもしれない。第二次世界大戦はいい例だった。椎名麟三の「深夜の酒宴」を見よ。あれと現代の何が違うというのか。酩酊でもしないとやっていられないのだ。世界はあるべき内容を欠いた。人間は人間たる規定を失った。動物的と呼ぶことすら動物に失敬だ。人間の時代などとっくに終わった。「……が無い」の時代か。



第一章 理念の喪失

第一節 規範としての理念

……理念が無い。私たちの理念。規範としての理念。ところで規範と法は違う。ここでは特に〈法〉を現実に制度化されたものとしての法律や社会ルール(条例、マナー)などと捉えてみよう。我々が獲得すべき〈規範〉とは目指すべき理念、カントやヘーゲルが試みた近代の人間像である。〈法〉は一般に「……してはならない」という禁止の形式で書かれる。禁止が〈法〉の本質である。人間には自由がゆるされており、〈法〉の定める範囲内において不自由と罰が課されることになっているが、それは端的に嘘だ。あるいは戯言である。人間が自由であったことなど一度もない。人間は不自由の中で自らの不自由を暴れさせ、人間社会は不自由という名前の監獄であるのだから。
 ところで周知のように、ここでいわれる自由とは、「勝手に何でもしてよい自由」のことではもちろんない。自由とは創造的な権利であり、~することができる、というものだ。許可証である。禁止の反対。まずもって我々人間は何も知らない、無知な存在である。無知な存在は許可証を獲得することで創造的な生を享受することができる。生を行使する。しかし〈法〉たる禁止のバリケードに張り巡らされると、人間は悪心を起こす。〈法〉の網目のほつれを探すのだ。〈法〉の設計の恐ろしいところは、〈法〉というのがひとたび整備されると人知をもってしてもその停止やあるいは撤廃を行うことがなかなかできずにいるということである。この観点からして〈法〉、あるいは法治主義というものも堕落した人間のコントロールの範囲を超えているところがある。法治主義はシステムによって「統治されてしまう」人間社会を呼び覚ますのだ・
 そのような古臭くて堅牢やつ〈法〉の社会に対して、しばしば革命という〈力〉が対抗してきた。革命の概念は我々が求めるべき〈規範〉により近い。こんな状態ではいけない、もっとマシになりたい、そういう声が求めるべき理念を呼び起こす。そして革命は狼煙をあげるのだ。
 それにしても〈法〉に対置されるべき〈規範〉というのは、何を原動力とするのだろうか? それは意志である。理性と良き感性に基づいた意志である。この意志を備えた人間だけを我らは人間と呼ぶべきであった。そしてこの真の人間の時代というものはついぞ来ることがなかったのである。

(つづく)

*1:大江健三郎「死者の奢り」より引用。

ハッキング分子――インフルエンザ、天候、物流

 社会の〈流れ〉(進行、過程)を停滞させるものがこの世にはありとあらゆるほどある。すぐに思いつくのは悪天候だ。たとえば人間の社会によって雨はあまり好ましくない(本当は恵みの雨なのだが)。大雨が降った日には交通システムに甚大な影響を与える。というのも、現代における人・モノの移動はあまりにも速いからだ(速度の問題)。
 7時に起きて8時に家を出発しても大雨に降られたり渋滞に巻き込まれたりしてしまえばその人は「遅刻」というサンクションを与えられるかもしれない。こうしたあまりに「速度」に重きをおいてしまう現代の交通システムは、どうしても自然の驚異たる悪天候を計算内におさめることができない。自然の剥き出しの力(ゲヴァルト)がリスク risk に変わったところで、結局それは社会設計、全体としての交通体系での段階にすぎず、システムの駒である私たち個人個人はリスク計算からはじかれ「不条理な結果」に甘んじて耐えていくしかないのだから。
 最近(2018年1月22日にこれを書いている)、日本ではインフルエンザが大流行しており、筆者の周りでも友人・知人が何人も臥せっている。インフルエンザも雨や雲などの悪天候と同じく、速度重視社会の立派な障壁である。インフルエンザにかかると最低でも平均一週間は隔離される必要があるので、会社勤めの人にとっては、いやむしろその会社側が大痛手なのである。そのインフルエンザの大流行は東京にも等しく猛威をふるっている。しかも、関東では厳しい寒さと雪の降る日々が重なって社会を停滞させている。悪天候やインフルエンザ、これは私がこれから〈ハッキング分子〉とでも呼びたくなるものの、ほんのささいな一例である。
 〈ハッキング分子〉は、システムとしての制度化されている社会を停滞させる。「分子」と呼称したのは、社会を停滞させる度合いが微細であるからだ。しかし微細といえども簡単に見過ごすことはできない。なぜならインフルエンザの流行や悪天候は確実にそして現実的に社会にショックをもたらしている。
 私たちがその内で存在しているシステムとしての社会は、まさにこのシステム=体系化された自動装置のような組織そのものに生命が備わっているかのようである。システムに命があるみたいだと想像することには意味がある。事例が違うが、日本の芸能界という〈場〉では、不倫スキャンダルとその後の処理に関する報道が喧しくなって久しい。あれで、当事者は誰も得をしない結末になった、しかし唯システム=芸能界を経済的に回している、基軸たる側の人たちを除いて、というのがある。システムだけが一人(?)勝ち誇っているように思えてならないのだ。

 さて、現代社会における大きなシステムの別名はもちろん資本主義制度である。資本主義制度においては、確かにマルクスエンゲルスの言うように富める者たちと貧しい者たちとの二項対立が成立しているように現象する。しかし、俗流化されたマルクス主義においては、そのような二項対立の状況において貧しい者たち、すなわちプロレタリアートブルジョワ階級をうち倒し、プロレタリアートによる独裁政権を奪取せねばならないと説かれた。資本主義制度において対立しているのは人間同士なのだろうか? どうも私には、ある種の生命力を持った巨大システムが一人勝ちしているように思えるのだ。本稿ではそうした疑似生命力を有したシステムとしての資本主義を、経済的=有機的リヴァイアサンとひとまず呼ぼうと思う。
 ところで話を〈ハッキング分子〉のほうに戻すと、この〈ハッキング分子〉は経済的=有機的リヴァイアサンに対する攪乱分子のことなのである。順調に「のさばりますます肥えていく」怪物リヴァイアサンの内部に住み着いて、ウイルスのようにリヴァイアサンに攻撃を仕掛けるのが〈ハッキング分子〉の役目だ。〈ハッキング分子〉はガタリ的な攪乱分子のことである。
 もう一つ、現在の複雑に膨れ上がった物流のシステムを例にとってみよう。昨今は大手企業のAmazonに象徴されるようなネットショッピングが、人々の消費生活の中心をなすまでに至っている。しかし同時に、その体制の問題やほころびも現在進行形で頻出しているというのが現状だ。物流は交通システムと同じかそれ以上の〈事故〉の現場でもある。速度(荷物を届けるに際しての)を重視するあまりに大量の荷物を抱えたトラックの運転手は安い賃金でほとんど疲弊している。ここでも優れてAmazonは経済的=有機体リヴァイアサンの象徴例なのである。Amazonはシステムとして労働者を疲弊させながら悠々とのさばっているというわけだ。
 そのような物流システムに打撃を加えるのは何だろうか。もちろん集団インフルエンザ感染や悪天候は間違いないだろう。また、交通システムの障害(渋滞、事故など)も同様である。それに加えて、もっと内在的な原因、すなわち誤送や誤配というのもある。「誤配」という概念は実は日本の哲学者である東浩紀はデビュー作の『存在論的、郵便的』において提出されたものである。「でもそもそも郵便は届かないかもしれない」。現在の完璧なまでに整えられた物流システムでは、郵便物や宅配物が届かないことなどそもそもありえないかもしれない。しかし、遅延や人身事故、商品の配送途中での損壊といった事柄はどうしても起こりうるのである。それはそもそも隔たった距離間におけるA地点からB地点への(なにものかの)受け渡しが理論上/実践上100%保証されることはない、そのような意味においてはコミュニケーション理論にも似通ってくる。私がここで強調したいのは、物流システムや郵便システムにはそもそも内在的に誤送、誤配が起こる可能性がインプットされているのである。としたら物流もそれ自体で非常にfragileな〈ハッキング分子〉であるのだ。
 〈ハッキング分子〉は「健康で便利で安全な社会」という欺瞞に満ちたイデオロギーを掲げた経済的=有機的リヴァイアサンをたとえ微細にしても断続的に揺るがすのである。それは小刻みに人々を不安の底に陥れる地震大国の日本の状況に酷似している。ハッキング分子は危険で、そして安定した状況やシステムに対して攪乱的だ。資本主義制度を克明に批判するためにも、この〈ハッキング分子〉の更なる探求が私たちには欠かせないだろう。(了)

1月の試み マルクスへの接近


去年の暮れから、僕にまた哲学熱が再来した。この半ば風邪気味による微熱との併用も手伝って、僕はサルトルの『方法の問題 弁証法理性的批判序説』を読み切った。この本を簡単に説明すると、序説、つまり本論たる「弁証法的理性批判」への準備段階として、サルトルがこの長大な研究に挑む自らの意義付け、それを丹念に論じて探求の指針を作り上げたのが『方法の問題』であった。
実は、サルトルは続く大著『弁証法的理性批判』で、自身が構築した実存主義の哲学と、マルクス主義の哲学を接合して新たな次元にいこうとしたのである。『弁証法的理性批判』は残念ながら未完らしい。しかし、僕は『方法の問題』を読んで、哲学のダイナミズムを久しぶりに味わえた。サルトルは考えていることが熱く大きいから。

そして、諸理由もあって、新年からはマルクスマルクス主義の哲学書をよみはじめた。しかし、ここで罠というわけではないんだけれども、レーニンに引っ掛かってしまった。
レーニンはマルクス哲学を誰よりも愛し、ロシア革命を起こしてソヴィエト連邦国家を樹立した歴史的人物である。ちなみにレーニンも多大な本を遺しており、彼の思想をマルクスとあわせてマルクス=レーニン主義と呼ぶ。
ロシア革命という現実に世界史を揺るがした事件への興味もさることながら、僕は思想家としてのレーニンに興味を持ち、いくつかの著作を読んだ。
レーニンの『帝国主義 資本主義の最高段階としての』はレーニンなりのデータに基づく経済学的な著作だった。そこで僕は『国家と革命』を読んだ。
これは大きかった。『国家と革命』でレーニンはマルクス=レーニン主義の正しい説明、擁護、誤解に対する不満を退け、社会主義から共産主義へと歴史の時計を進めていくためには、プロレタリアート(労働階級)はブルジョワ階級を打ち倒して、プロレタリアートによる独裁の政権を奪取・確立しないといけないことを述べている。僕は注意深く読みながらもやはり愕然とした。やはりこの社会主義独裁国家共産主義という図式が理論的にツメがあまあまだったのだろう。その後の歴史は、マルクス=レーニン主義が大失敗に終わったことを、憤慨と悲しみと嘲笑を浮かべて人は豊前としている。

マルクスエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』は半分まで読んだ。だいぶ読みにくいが、日本のマルクス主義者であり特異な哲学者である廣松渉の新書を読みながら、この本の意義深さを知った。
その他、廣松渉の主著や、アルチュセールなどを読みかけではあるが、いったんマルクス主義いってんばりだった期間は1月でおやすみ。これから、違う問題意識にもとづいてまた読む哲学書を再編中でし!

***

ということだが、自分の整理のために2月以降の試み(自分のための勉強)をここに書きますね。

 小テーマ:市場経済的「リヴァイアサン」に対する考察を深めるための読書

 基本文献として、再読したいと思った本

ホッブズリヴァイアサン』(岩波文庫)の第一巻と第二巻
マックス・ウェーバー『資本主義とプロテスタンティズムの精神』

 応用文献として読みたいと思った本

ドゥルーズガタリ千のプラトー』精読
ドゥルーズガタリ『アンチ・オイディプス』)
フェリックス・ガタリ『分子革命』
フェリックス・ガタリ『三つのエコロジー
フェリックス・ガタリ『カオスモーズ』か『闘争機械』


ミシェル・アンリ『野蛮』

かな! マルクス読解で幾つか得た認識をつなげたいところです!

仮面の太陽(小説)

仮面の太陽
作:光枝 初郎

しらいちゃんへ


 最初に太陽があった。真っ赤な太陽が南下して炎天の地獄を作りあげた後には、文句を言う奴など一人もいるはずはなかった。天気は蛇行し、気が付けば空には夕暮れが漂い、海辺には真っ赤だったはずの太陽も頭を垂れて夜の静寂に懺悔していた。ロードサイドには真っ赤なポルシェが徐々にスピードを緩めて走り、きらめく海辺と砂浜を横目に溜息をつく二人の女の姿があった。やがて車は停まり、女の一人が煙草の火を消すと沈黙していた潮の香りが一気に広がった。
「太陽が眩しい」金髪の、鋭い眼光を放つ女性が言った。
アルベール・カミュならさしずめ『世界を望む家』とでも呼んだところかしら……ここにハウスはないし、ただの海岸沿いだけど」
「ねえ、ビートルズはやめてくれる。クラシックか、あるいは無音が好みだわ」助手席に座っていた黒髪の女が言った。彼女はサングラスをとると、きらびやかな青色の瞳を隣の席に座っている女に向けた。
金髪の女はゴールドのマリア、あるいは単にマリアといった。マリアは小さく溜息を吐くと、車内のラジオの音を切った。
「少し外に出ましょう。散歩したいわ」黒髪の女はアンジェリカといった。アンジェリカには程の良い空想癖がある。彼女の空想の中では、彼女が目前としている光景は過去の残酷なる思い出と想像上の生き物(ユニコーン、人の夢を喰うバク、双頭の蛇……)なんかが混合されるのだ。そういったアンジェリカの空想はやがて彼女の思考を離れて大空に跨る雲の一つになる。ゴールドのマリアは軽薄な、あるいは実に素っ気ない恰好をしていた。セックス・ピストルズのジャケットがプリントされた白地のTシャツに、デニム生地のショートパンツを履いていていかにも寒そうだった。腰に巻いているベルトは本物の蛇の皮でできていた。彼女はそれでいて純粋に美しいところがあり、おまけに世の中の何事も信じがたかった。彼女が与えるものは愛。受け取った後に、人は無言で返したり、名誉を棄損したり、あるいはお礼にとシルバーアクセサリーを返礼してくれたりもする。愛がそのようなどうしようもない性格であることは、ゴールドのマリアには経験上よく分かっているつもりだった。
黒髪のアンジェリカはいつでも過去の追憶に囚われる。ついこないだはマリアと一緒に農村の丘陵地帯までドライヴした。見晴らしの良さそうな場所で車を停めると、遠くにはのんびり広がる牧草地が彼女たちの心を和ませた。タンポポシロツメクサ(これは春?それとも初夏?)が生い茂った草地の上に寝そべりながらマリアとアンジェリカは優しく愛し合った。二人とも口づけが好きだった。草の匂いが服に絡みついて充満していた。傍には大きな広葉樹がたっていて、やがて南下を極める太陽にも飽き飽きするとアンジェリカたちは木陰に逃げて夢の続きを見た。アンジェリカはそこで白い立派な鬣をしたライオンを見たのだ。ライオンは静かな瞳を据えて、言葉を口にした(!)。「そなたは目覚めるべきではない。記憶にひきずられたまま生の沼地にのめりこんでいくことになる」
アンジェリカはそれを聞いて真っ青になった。
「どうぞ、私にお導きを」
白い鬣のライオンはこう言い放った。
「そなたの隣人の血を渡すのだ」
アンジェリカは横で未だ夢を見ているマリアの柔らかい寝顔を見つめた。彼女はあまりに静かだ。そして美しい。
振り返ると、もうそこには誰も居なかった。アンジェリカの思い出。
「ねえ、聞いてるの」
ふいにマリアの声がした。ここは海岸。波は次第に打ち寄せ、アンジェリカとゴールドのマリアは海岸沿いをあてもなく歩いている。
「えぇ、大丈夫」アンジェリカは言った。
「あなた、“本体”っていう言葉、あるいはその概念の響きを考えたことはある?」とアンジェリカ。
「ホンタイ? また哲学の議論ね。いいわよ……ソクラテスは死に向かって生きていた。人は死を恐れる。ゆえにソクラテスは非人なり……それで、本体って何?」とゴールドのマリア。
「世界の真理のことを、世界の本体っていう言葉に置き換えてみるの。哲学の共通の出発点、『私とは何か?』そして『世界とは何か?』という問いは全て、世界の真理ないし本体めがけて発されるものよね。世界に本体のようなものがあると前提して、その探求をちまちまとやってきたのが哲学の営みなわけ」
「それはごく自然に頷ける話ね。本体の議論のポイントは何?」
「哲学者たちは真理=世界の本体は何かという問いに対して、火であると答えたり、水であると答えたり、あるときは意味、あるときは言語、あるときは『存在』、または『真理は存在しない』という答えも流行したけど、最近の哲学者はそうした答えを見直して、たとえばカントに注目するの。カントの哲学って、まぁ一番俗流に言っちゃえば、主体的人間は色眼鏡のようなものをかけて世界を認識しているってことね。カントは人間の掛ける色眼鏡(感性―悟性―理性)に統一を求めたけど、色眼鏡は一つではなかった、それが現代の理性主義の崩壊。」
「それもありがちな話ね。それで?」と退屈そうにマリア。
「話はここからよ。つまり、私たち人間は何らかの色眼鏡を掛けることによってしか世界を認識できない。そこからしかも世界の真理=本体があるかどうかを議論している。でもね、私たちは色眼鏡を外すときだってやってくるかもしれない。あるいは色眼鏡が外れてしまうときが」とアンジェリカ。
「色眼鏡は人間に特有の形式ないしは内容ね。それはつまり、私たち人間の視点からすれば、人間は人間以外の事物の認識(視覚、感性、思考……)ができるか、つまり人間は非人間に「生成」れるか?という問いでもある。一方、世界(宇宙、地球、社会……)の側からすると、そもそも世界は存在するのかしないのかという存在論的な問い……。『私たちにとっての世界』ではない限りでの世界。もしくは、存在するとして、人間は今までと全く違うありかたでの世界と関わって生きていくことができるか、という真摯な問い……」とマリア。
「あれ、私“本体”なんて言って、自分の議論の筋道が分からなくなってしまったわ」と急に屈託なく笑うアンジェリカ。
「……でも確かに『本体』が真理っていう古典哲学の話が新鮮な風に整理できるみたいね。真理問題が別次元に移行し、アップデートされるような」とマリア。
「もう少し歩きましょう」とアンジェリカ。アンジェリカは紺色のワンピースを着ている。アンジェリカは小鹿のように細いのに、サラブレッドの馬のように背が高いのだ。
二人の会話は「本体」の周辺をめぐってさらに錯綜していく。
「ねぇ、アンジェリカ。それでも『本体』が『実在』するのだとしたら。いえ、本体や真理があるのなら、あなたにね、私はあなたを本体として愛すわ」そうゴールドのマリアは言った。二人の言葉はどれも実体として頑ななものがなく、さながら中身は空虚なサボテンのように委縮し、枯れ果てて、闇の中の藻屑へと消えていった。そう、次第に雄大であったはずの夕日は立ち消え、あの漆黒の闇がマリアとアンジェリカの背中に忍び寄った。夜はやさし。果たしてそう言えるだろうか? なぜなら二人は唯一つの「夜への多大なる信仰心」を持っていたのだから。
「……あなたを本体として愛すわ」もう一度ゴールドのマリアは言った。今度こそは自身の言葉は確かな光を帯び、暖かみのあるものとして闇夜の黒を中和した。
「……私たちには美の中を生きる理由がある。美として生きる宿世よ。私たちは揃って美の中に溺れるわ」アンジェリカの思い出の中の会話。現実と空想の境目。
「うつくしいという響きが好きよ。美しさそのものよりも」とゴールドのマリア。
「それは見かけを愛しているということにならないかしら。私たちはどこまでいっても本体にたどりつかないんだわ」と思い出の中のアンジェリカ。
「美しさの中に歪みがある。あなたは歪んだ音をも必死に聞きとならなくてはならない。それはどんなに怖ろしい?」
「分からない、分からない。歪みは醜く、私のすべてを残酷に貶めるわ。私はそうやって生きてきた」
白い息が二つ。
「信仰の上にあるものは虚無。教義は気休めにしかならないから」とゴールドのマリカ。
「人間はいつしか死ぬものね」と思い出の中のアンジェリカ。
「でも……私たちは『夜への信仰』を共にしている。夜はいつだって私たちを裏切らない。夜は偉大よ。光は夜から生まれるの。いいえ、すべての日と生きとし生けるものは夜の時間のなかからやってくるの。夜が朝を生み、そして昼は夜へと絶えず帰っていく。夜は全てのもの、生命と非生命の母よ。そして私たちは夜が訪れる時だけ愛しく結ばれるの」
思い出の中のアンジェリカはマリアの手をそっと握った。マリアの手の中は信じがたいほど冷たく、アンジェリカはたまらなく愛しい気持ちになった。
「私も同意するわ」ゴールドのマリアもアンジェリカの手を強く握り返した。「私たちは『夜の果てへの信仰者』よ。闇を求め、その中で彷徨し、またいつかは闇の中心に戻っていくことでしょう」
どれくらい歩いたろう。やがて二人が乗ってきた車も遥か彼方に見えなくなった。気持ちいい海岸通りには全くといっていいほど人通りがなくなった。そのうち、向こうから大きな花束を抱えて静かに歩いてくる少女の姿が見えた。マリアは顔をしかめた。花束を抱えた少女は日本人か、少なくとも東洋人の顔立ちをしていた。深紅に染まった薔薇の花をいっぱいに抱えた日本人の少女は白い大ぶりのワンピースを着て、両耳には目につきやすい美しい金のイヤリングをつけていた。花束の少女は狂おしくなるような真っ直ぐな瞳でやがて二人を見つめかえした。三人はしばし沈黙した。
「……あなたは誰?」と、最初にしびれを切らしたゴールドのマリアが少し苛立った表情で花束の少女を睨み返した。花束の少女はすぐには応えず、相変わらず大ぶりの薔薇の花束を愛しそうに両手で抱えながら、やがて口をひらいた。
「私の名前。そうね、私は『ライ』と言うの」
「ライ?」よく聞き取れなかったアンジェリカが同じ言葉を口にした。
「lie. A lie. 嘘。虚無。私は〈lie〉です」
その時花束の少女は笑ったのだ。薔薇の花は少しだけ揺れていた。
「全く分からないわね。どうしてあなたはこんな所にいるの?」
「それはあなたたちだってそうよ。さてどうしてでしょう?」
花束の少女は全く臆することなく二人の前に立ちはだかり、暗闇に包まれていくこの状況を明らかに楽しんでいた。これにはマリアもアンジェリカも苦笑するしかなかった。
「私たちはね……。『夜の果てへの信仰者』なの。単に『夜の信仰者』でもいいけど」思い出の中のアンジェリカがそう言うと、今度は花束の少女は目の色を変えて二人の方に歩み寄った。
「それは素晴らしいことだわ。それは素晴らしい。それじゃああなた方はきっと私の仲間ね? 会えて嬉しいわ。代わりに、いいものを見せてあげる」
花束の少女はそう言うと、右耳のイヤリングをおもむろに外して、沈黙しているマリアとアンジェリカに向けて見せて、そしてそっと道路のアスファルト上に落とした。心地よい金属音がしてイヤリングは下に転がった。
「太陽の誕生よ」
間もなく金のイヤリングは音を立てて、真っ赤に発光した。それはまるで燃える小さな鉄球のようだった。燃える鉄球は周辺の闇をことごとく溶かし、アスファルトは次第にひび割れて、次第に鉄球が放つ光量は凄まじいほどまでになっていった。
「まあ、何と! あなたは闇を光に変えることのできる天使なのね!」
思い出の中のアンジェリカが顔をほころばせると、花束の少女も満足したようにふわりと笑った。
「嘘も真実も全て、暗闇の中でただ一つの姿を現すの。それは闇の色。Lie.そして私はこの世に光と朝を作りし者」
やがて道路の中に落ちていった〈太陽〉はひどい大きさになり、熱量を高めて、三人もろとも海岸通りの景色を全て飲み込んでいった。その間も〈太陽〉は燃えることを忘れず、ますます大きくなって、暗闇を喰らいつくし、大地も、大いなる海も全てそこに投げ込まれていった。
気がつくと、新たなる一日が始まりを告げようとしていた。(了)

よく見る夢のパティーン

 前段階として、夢は小説になるか、お話として完成させることができるか、という点から話したいと思います笑 めんどくさかったら飛ばしてください。
実に強烈で、ものすごくイメージの豊かな不思議な夢を見た場合、またその夢の世界の輪郭がありありと残っている場合、僕の場合ですが、その夢の感覚に浸ることはとても悦楽的感覚というか、痺れるような溶けるような、そういう感覚がありますので、ぜひともこういう素敵で最低な夢(もちろん悪夢も含む)を再構成するためにも、小説を書くことはあります。というか、夢が原動力となっているパターンが7割です。
 もちろん書いているなかで、ここ夢ではどうだっけ、みたいな覚えてなかったり曖昧だったりそもそも夢だからそこまで厳密に設定されていない場合は、脚色、付け足し、まさに書き手としての工夫が発揮できるところです。結果的に、その日見た夢とは違う世界が小説においてできたとしても、それはそれですごい、というか、別物の素晴らしい世界になっていた時は、書き手としても非常に感慨深いところがあります。

 さて、僕がホントによく見る夢ナンバーワンは、こういうものです。
(ちなみに僕は大学を6年間(つまり2年間留年)いたあげくに中退したんですが、その頃の辛苦が絶対にベースになっています。)

高校3年間で、なぜか英語の単位が2単位くらい足りてなくて、高校3年生をもう1回やる夢 

 これは、実際大学の時に英語の単位2単位分が取れなくて卒業できなかったの繰り返しによるトラウマが絶対に反映されています。でも、この夢の中にいるとき、僕は本当に単位が足りていないので、一学年下の後輩と机を並べて授業を受けているわけです。
不思議なのは、現実通りなら大学へ進学していった同級生たちもまだ高校に残って、それぞれ専門的な勉強をやっているということ笑 というか、ここでは高校=大学みたいになってて、まさに摩訶不思議というか、なにがなんだかわからない世界によく突入させられます(笑)

 その夢では、僕は大学生の時と同じように、あまり学校に行こうとしない。というか、不登校になっている。それでも遅れて電車使って高校に忍び込もうとしたりする。すると、電車が降り立ったそこは通っていた大学の県だったりして、むちゃくちゃなわけです。高校は地元に通っていましたが大学は県外にいきましたから。

僕の夢の中では、電車というものがキーワードになっていて、電車は中学1年~高校3年までの6年間、通学の時にみっちり使っていたのですが、夢の中では行先が福岡になったりします。そして福岡に降り立つと、さらに別の形の福岡というか、みたこともないような天神の街とか、そんな場所に連れていかれます。

こういうのは非常に楽しい。僕は無意識=夢の世界において、中学、高校、大学で育ったいろんな場所がそれぞれリンクしているのではないかと真面目に考えています。これを、将来の大きな小説にしたいなとも考えています。

しかし、目が覚めると、あぁ、自分はちゃんと高校卒業できてる、英語の単位なんて(大学ではあっても)高校では落とすわけないよな、と安堵するに至って、やっとほっとできるわけです。

 Arctic MonkeysというUKロックバンドのアルバムに、『Favorite worst nightmare』というのがあります。直訳すると、お気に入りの最悪の悪夢。悪夢なのにお気に入りなんて言っちゃうあたりが素敵な文言だと思います。こういう、夢にはいいもの、そしてたいていは不思議すぎたり不条理だったり恐怖だったりするものがありますが、この夢の世界をふんだんに書き手として精査して読み手としても書き手としても探求するのが楽しくて仕方なかったりするのでした。