書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

『アンナ・カレーニナ』ノート(2)

今回は集英社から出ている世界文学全集シリーズ版の、100pp~250ppくらいまでが対象です。
ノート感覚でつけているので大した考察もないですが、一緒にトルストイの文章を味わいましょう。

 それから、前回では触れませんでしたが、最小限の登場人物の整理を。

アンナ・カレーニナ……カレーニン男爵?伯爵の夫人。美人。主人公1。
レーヴィン……田舎の地主。主人公2。オブロンスキイとは親友。キティに告白するが……
オブロンスキイ……明るく、社交的な性格。主人公3? ドリイが妻。
キティ……ドリイ、アンナの姉妹。
ウロンスキイ……若い社交界の貴族。最初はキティとうまく付き合うが……


 登場人物の説明の通り、アンナをめぐる社会はとても社交界の場面が多く、貴族が出てはダンスをしたり、伯爵と夫人の「社交辞令」的な挨拶が交わされたりしますが、その場面から一つ二つ。

 彼は独特の冷ややかな薄笑いを浮かべた。
「ここはあんまりきらびやかで、目がちらちらしてしまいましてな」と言って、彼はスタンドの方へ歩き出した。彼はついいましがた別れたばかりの妻に出会った場合に、夫が見せなければならぬ微笑を妻に送り、相手によって態度を変えながら、侯爵夫人や知人たちとあいさつを交わした。つまり、婦人たちには軽口をたたき、男たちとは耳障りのいい言葉を投げ合った。貴賓席のすぐ下に、カレーニンの尊敬している、知性と教養の豊かさで知られた侍従武官長が立っていた。カレーニンは彼と話をはじめた。(トルストイアンナ・カレーニナ集英社・世界文学全集シリーズ、pp198)

 このシーンの直前では、カレーニンとアンナの夫婦の会話がなされるのですが、それにしても「ついいましがた別れたばかりの妻に出会った場合に夫が見せなければならぬ微笑」というのはすごいですね。ここでは、相手に見せる微笑や、挨拶の言葉が、ことこまかく規定されているかのようです。実際、すぐ次の文章でも「相手によって態度を変えながら」、婦人たちには軽口を、男たちには耳ざわりのいい言葉(褒め言葉か)などを、使い分けるわけです。ここに、18・19世紀のロシアの社交界における、会話の規則とでも呼べるようなものが伺えると思います。

 もう一つ。

 アンナの顔は青ざめて、きびしい表情をしていた。彼女は、どうやら、ただ一人のほかは、何も誰も目に入らないらしかった。その手はぶるぶるふるえながら、固く扇をにぎりしめ、息を呑んでいた。彼はちょっとアンナに視線をとめたが、急いで目をそらし、ほかの顔を見まわした。
 『ほらあの婦人も、誰もがみなひどく興奮している。うん、これがごく自然なのだ』とカレーニンは自分に言い聞かせた。彼はアンナの方を見まいとしたが、視線がひとりでにそちらへ引き寄せられた。彼はまたその顔を見守り、そこにはっきりと書かれているものを読むまいと努めたが、意志に反して、知りたくないものをそこに読みとり、慄然とした。(pp200)

 ウロンスキイが競馬レースの最中に失敗をして馬ごと落ちるシーンで、ウロンススイと不倫の関係にあったアンナは今や夫のことも忘れて彼の不運を嘆くのですが、ここに引用したシーンのように、視線や表情の読み取りといった記述が社交シーンには多い。ここはトルストイ独特の、緊張感のある筆運びとなっていると思います。誰それが誰それを見る、その表情はうんたらうんたらで、誰それは悲しくなるが、しかしその悲しい表情を見た誰それは、視線を逸らして……みたいな、複雑な「視線のやり取り、表情の読み合い」が心中においてなされているといえます。

 続いては、レーヴィンが田舎に戻って自然である農地に勤しむシーンです。

 ちょうど夏の峠にあたる時期で、今年の収穫はもうきまり、そろそろ来年の作付けの心配がはじまり、草刈りが近付き、ライ麦がすっかり穂をつけ、まだ実の入らぬ軽い薄緑色の穂が風に波打ち、緑色の燕麦が、ところどころに黄色い草むらをくっつけて、遅蒔きの畑にそって不揃いに飛び出していた。早蒔きの蕎麦はもう花をつけて、地面をおおいかくし、家畜の蹄で石のように踏み固められた休耕地も、鍬の刃もとおらぬあぜ道を残して、もう半分ほど起こされていた。畑に運び出された堆肥の山が、もう乾きかけて、夕方になると弟切草といっしょに甘酸っぱい匂いを漂わせ、低地には、刈られるのを待つばかりの大切に守られてきた牧草の海原がひろがり、ところどころに引きぬかれた酸葉の茎が黒々と積まれていた。(pp230)


 これ以外にも、秋や冬、春を迎える大自然の様子が丹念に描かれていて、そのシーンは社交界の人々の機敏な心理のやり取りと同じくらい面白いです。都会と田舎の大きな対比構造ですが、人間観察も充実していますね。

 (3)はまた後ほど!

『アンナ・カレーニナ』ノート(1)

 ロシアの大文豪作家、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読みはじめたのですが、めちゃくちゃ面白いです。トルストイは前に短篇を読んだことがあって、けっこう固い話だったので、そういうイメージで読みはじめてみたら、『アンナ・カレーニナ』は冒頭からずっと面白くて…… 頁を繰る手が止まりません笑 読む中で、ノートをつけたいと思いました。


 たとえば、こういう描写があります。

オブロンスキイとホテルに入っていったとき、レーヴィンは彼の顔や姿全体に、抑えた輝きとでも言うような、一種特別の表情を認めないわけにはいかなかった。  トルストイアンナ・カレーニナ』(「愛蔵版 世界文学全集22」集英社、pp.35)


 本当に何気ないシーンなんですが、「抑えた輝き」という非常に繊細なニュアンスの形容をするっと入れているあたりが思わず付箋を貼ってしまいました。 このシーンの前に、レーヴィンという男は、想い人のキティという若いお嬢さんに再会(彼はプロポーズをしようと決めている)して、気持ちが高揚しています。 そういう中で、改めて親友のオブロンスキイを見て、オブロンスキイは特別なオーラをまとっている男性だとあらためて再認識するシーンです。

次のシーンなんかも。

 秘書が入ってきた。彼はくだけた恭しい態度で、業務の知識においては上司よりも上だという、すべての秘書に共通のある種のひかえめな優越意識を顔にあらわしながら、書類をもってオブロンスキイの前に歩み寄ると、質問の形で、何かの面倒な事件を説明し始めた。
(「アンナ・カレーニナ」承前、pp.23)

 ここなんかもすごいなぁと。「業務の知識においては上司よりも上だというすべての秘書に共通のある種のひかえめな優越意識を顔にあらわしながら」っていうのが、めちゃくちゃ細かい。ここで出てくる秘書なんてもうチョイ役のチョイ役でしかないのに、こんなに丁寧で効果的な形容を記述するトルストイに思わず唸りました。

 こんな感じで、読み進めた中で特にアッと思ったシーンなどを取り上げていければと思います。年末・年始の愉しみが増えました笑

2016年下半期読書ベスト20 ①

上半期を15作やったのですが、下半期は20作選びました。
11月までの読書なので、出るのが早いです(苦笑) また、下位のものはちょっと辛口になっていますがほとんど良い読書でした。

20位~16位までを最初に!

20位 カルペンティエール/失われた足跡
失われた足跡 (岩波文庫)

 マジックリアリズムの先祖にもあたるカルペンティエールの代表作が岩波文庫で、ということでだいぶ期待して読んだのですが、うーん個人的にはハズレ。
 カルペンティエールに申し訳を聞いてもらうと、まだ完読していない『春の祭典』などの著作が、僕にはビビビッときたんです。合過ぎたのかもしれない。まぁ弁解を抜きにしていうと……
 とても重厚な叙述で、いま何日目の旅行で主人公たちがどこで何を語っているのかが分からない、それは良いのだが、長い……と思ったのが一つ。二つ目が決定的なのですが、主人公はアマゾン奥地への旅で同伴していた女性科学者を、ものすごい蔑んで、ひどい仕方で見放します。それがたまらなく嫌だった。女性軽視をあからさまに書いているのかなんなのか、主人公の嫌悪が身も蓋もないくらいひどいので、よんでいい気分にはなれませんでした。
 だからこの作品のもっと良い所で引っ掛かってない。それ以前に……という感じ。もちろん、『春の祭典』はちゃんと積読で僕を待ってくれています!苦笑

19位 安部公房砂の女
砂の女 (新潮文庫)

これは仕方なくこの順位というか、「砂の女」はめっちゃ良かったです。後味も悪いし、本当に「砂」の物語って感じだし、話もよく出来てるし……。 もっともっと安部公房を読まなければならない、たくさん読みたい、と思ってこの順位です。今の段階では「壁」が圧倒的に好きすぎです。

18位 ジェームズ・ジョイス/ユリシーズ
ユリシーズ〈2〉

 『ユリシーズ』の第11章から15章まで。 第13章はブルームと脚を悪くしている貴婦人ガーディの、かなり変態的でエロティックで美しくもある砂浜シーンで、僕はこの章が一番好きだなと思いました。語りがガーディからブルームへと移って、意識の流れの手法も再確認できましたしね……。 ただ、14章が圧倒的すぎた。そして15章に至ってはもうわけがわからなすぎてパンク。。
 ユリシーズⅠを読んだ時点でなんだかとても胸悪くなるような要素もあって、自分には合わないかなと思っていたんですが、時間が経過したら、あの妙におしゃべりだったり内心の声が丸ぎこえのリズムが心地よく思えてきて、楽しんでⅡに取り組んだつもりですが、またもやノックアウトされました(苦笑) Ⅲはいつか読む日が来るのか…… あ、先に『ダブリナーズ』を読みたいです(逃)

17位 フアン・ガブリエル・バスケス/物が落ちる音
物が落ちる音 (創造するラテンアメリカ)

 コロンビアの現代作家バスケス。これは「発掘」モノです。そして、今年もう一冊バスケスの本が翻訳されて出版されているのですが、そっちの方がランキングの上位にしっかり乗りました。
「物が落ちる音」は、5章立ての内の最初の第1章が個人的にはすごく印象深くて、ハッキリ言ってあとは惰性で読めてしまうようなものでした。しかし、本当に叙述がうまい。ある意味日本の村上春樹的な作品だとも言える。バスケスは面白い。それを確信するためにどんどん読まれていい作品かなとは思います。

16位 ダニロ・キシュ/砂時計
砂時計 (東欧の想像力 1)

「砂時計」自体は圧倒的に面白かったです。でも暗い。暗すぎると思う……この暗さと緊張感は、東欧の独特の歴史背景や時代の中の意識をもっと理解していないと適切に噛みくだけないんじゃないか。余韻は深いです。『東欧の想像力』という素晴らしい東欧文学のガイドブックのおかげで、ダニロ・キシュのみならずたくさんの東欧の作家を今年は知って読むことができました。ダニロ・キシュの翻訳は他にも池澤夏樹さんの世界文学シリーズに『庭、灰』があるからそっちもたくさん読まれているかもしれません。

②は15位~11位の5作品を書きます(*^_^*)

詩2つ

「同じ」

最近この頃、朝方、幸福、夕方、ズドン。
夜には、プラマイゼロで、このヘビーローテーション
私、いる、いない、いる、幸せ、ある、ない、ある、
形だけの、提出物では、五丁目のお豆腐屋のお嬢さんはおとせない。
声うわずって、私、マリヤ様の聖棺の前で跪き、
そのまま、えんえん、えんえん、えーんえん。
夕方、私、堕ちる、ズドン、ゆえに、それから、
安定し、落ち着き、布団にくるまりゃ、猫もゴロン。
冬の、エンドレス、ヘビーローテーション


「本日ハ晴天ナリ」

満たされた午後、底にある罪、
寒さ、公園で子どもは泣きじゃくっていた
カラスのような鳴き声、ガラスの街の人々、
俺はこんなもんじゃないって、がらがら声で叫んでた
表明されたものが、全てじゃない
洞窟の中のかがり火にうつった木くずすらも欲望
踊ってたんだろ?
あの夫人とさ
黙ってたんだろ? 根拠の無い顔してさ
囚人たちの、あくる日の会議
日本、中国、パキスタン
どれも同じだ、国家、不法労働、路地裏、
言葉だけが溜まっていく、苦渋に満ちた顔、
他には何も要りません、だからユダの救済と、
ついでにパウロも赦してください!
いつも、いつも、晴れていた
いくら何でも、いつでも、今日も、晴れていた。

人間の無価値性とキリスト教について

今回の記事はダークで論争を呼ぶような内容になっているので、心に余裕のあるときにお読みください。
ダークなこともこの世界にあふれかえっているので、それらを取り扱わないことには世界の真理に近づく哲学(ジジェク)は不可能となってしまうから。

 東京や大阪の超巨大な街で溢れかえる人々、群集と呼ばれるものを仔細に見ていくと、感覚が鈍くなり、人々の特徴にパターンがあることに気がつく。そして、とびきり綺麗だったり、変わっていると思えた人も、そのパターンに回収され、つまるところ人々の個性なんてものはほとんどあって無いようなものだと思うときがあるのです。

 多くの人々を見ると、ここまで要らない、「半分の人々は要らない」と思えてくる。しかし、これはけっこう合理的なことだと思うのです。何が合理的か。

 数にも調和というものがあると思います。東京や大阪の街を歩く大量の人々に、「ちゃんとひとりひとり対面」することは不可能です。人間の力の限界を超えている。鷲田清一の本で紹介されていたのですが、あるお婆さんが、どうやら道歩く人の表情を自分で真似て、微笑を作ったり皺をつくったり、それらを一人一人がすれ違うたびにパッパッと表情を変えていくという病的な症候にかかっていたことがあったそうです。大量の数は、人間の身体面にも精神面にも狂気を落とす。安定を得るために、人は限界値の中で友人関係を築いたり、効果的な仕事の関係を結んだりするのです。

 大量の人々を見ていると、半分、いや半分以上の人々の存在が要らない…… これは反道徳的であり、人間倫理に反するものだろうか。
 生命体としての人間は、生きるのも死ぬのもほとんど必然性は無く、いつか生まれいつか死んでいく、それが(現段階の)生命の真理だと、僕は思っています。

 論争的に言えば、「絶対的な人権」という価値観が、どこかで間違っている、とも思うのです。人権は尊ばれるべきだが、絶対というものがあるわけがない。絶対的人権は、論理的に間違っている。

 なぜなら生命体としての人間は、死んでいく、存在を消去するという道もまた十分に開かれているからです。

 人間には、価値があり、同時に無価値性ももっている。 これは二律背反では無いと僕は考えています。

このことを歴史的に早くから顕したのは、ユダヤ=キリスト教のこの世の終末思想とそれに続く「最期の審判の日」ではないでしょうか。

 この世界にはいつか終わりがやってくる(それが具体的にいつなのかを争うのが終末論思想)。そのとき、人々は審判にかけられ、ダンテが荘厳な作品『神曲』の世界であらわしたように、地獄に堕ちるべき人間と、救済されるべき人間とを選別する。

その最期の日がくるのに備えて、ルターやカルヴァンの宗教思想などがあったのです。

 この、救済され永遠の世界=天国に行ける人と、地獄や煉獄に堕ちる人とに分かれるという発想は、こうではないでしょうか。救われるべき人々には何らかの価値があり、逆に地獄に堕ちる人はそれが無かった、と。

 「人々には、価値のある人と、無価値な人がある」 これは言いすぎだと思います。ここまでは言えない(言ってる人もたくさんいるだろうけど)  人間の価値など、最初から決まっているわけではない。

 しかし、人間は無価値にもなり、価値があるという状態にもなる、ということはいえると思います。
この曖昧な状態を、人間=Xと仮に書いておきます。

 人間はX。
それを絶対的に審判できるのが、1である神なのではないでしょうか。ここに神の必然性が(キリスト教という宗教文化において)ある気がします。 価値は 0<a<1 であり、無価値がマイナスの値。

まとまりに欠けるので、このあたりでやめます。しかし、ひとつ言える事は、人間の権利や生命は確かに尊ばれるべきだが、それが絶対的なものであるとは、僕は歴史を振り返っても言えないと思います。 うーん…… 「だからこそ生きる」という発想が一番好きなのですが。  人間は常に曖昧な存在でしかない。しかし充実した存在に近づくことはできる。そのために生きようと思えば、誰でも救われる=自由に、すばらしい生を送れるのではないか、例えそれが具体的な生死を問わないとしても。

ドラマ「カバチタレ!」の深さ――社会に生きる女性

カバチタレ! <完全版> DVD-BOX

 2001年の冬ドラで放送されたドラマ「カバチタレ」を友人の勧めで一緒に観終わったのですが、なかなか面白く、興味深い点も多々あるいい作品でした。常盤貴子深津絵里のコンビが主演で、ふかっちゃんが演じる行政書士屋で27歳の「栄田千春」と、常盤貴子演じる心優しいモテ女「田村希美」(同じく27歳)の掛け合いが面白い、法律コメディドラマです。平均視聴率も19%の人気ドラマですね。ただし最終回だけは頂けなかったけど(苦笑)

 しかし、法律の話題はかなり基礎的な内容で(心裡留保などもあったり)、大学の法学部生なら1年ですでに分かるような優しい内容です。問題はそこじゃない。

 僕は、このドラマの1話目が一番好きです。 ふかっちゃん役の栄田さんは、「強く闘うの!」「だって女性だからって負けてたら悔しいじゃない!いつだって闘うの、あたしは!」という、”強く生きようとする女性・27歳”。その台詞はコメディの中で折り込まれるのには中々斬新です。

 実際、このドラマの脚本はものすごくセンス深く書かれていて、一般的にはエンターテイメントだけど、考えてみるとかなり深い内容まで届くような表現がちらちら出ていました。

 篠原涼子も妙にセクシーでミニスカポリスをやって、ふかっちゃんの車をことあるごとに駐禁にするというイヤな奴(笑) しかし、イヤな奴だけではないんですね。篠原涼子役も、まだ新米に近い警察署のなかで、失敗をした時には上役から厳重に処分される。その中でも、「警察は法律に従って法的な社会を安定させるためにある」というような正義心をもって行動していることを明かします。これもなかなか面白い。

 常盤貴子は、人から愛され、笑顔も多く、山下智久が演じる弟にもとても優しい。そんな弟もとても女性たちに優しい。
常盤貴子役は、頭はそんなに賢くないけど、「人を信じることが大切。信じれば救われる」という信念のような固い希望のようなものを心の内に秘めていて、ふかっちゃん役の「信じても救われない。だから自分で切り拓く」という信念と時に真っ向から反対します。

 モテ女×心の優しいのぞみと、デキル女×サバサバ&早口&思考が論理的なちはるの、絶妙な組み合わせ。こういう設定がこのドラマに躍動感を与えています。

 のぞみはデキル女・千春をすごく尊敬しているけど、千春の男性経験の少なさには、何かアドバイスをしようとしては千春から拒否されます。 そんな千春は、のぞみの考えなしの行動を叱り、でも、彼女が見せる、情熱と感性の一点ばりのどストレートな姿勢が状況を必ず打開していくのを見て、もしかしたら、いやのぞみはすごい人間だ、本当に人を信じたら、救われないのか……? と自分の信念を反省していくようになります。

 大杉漣とか、藤岡弘、とか(笑)、やたら大物もチョイ役で出てくるし、あとは香里奈とか、妻夫木聡くんとか、何気に1話目にほんの少し木村多江さんとかも出てました(笑)   昔のドラマを見ると、今活躍している人がチョイ役でよく出てきますよね、、、こんなとこにいたんだ、というような(笑)


 ドラマに点数をつけるのは初めてですが、「カバチタレ!」は、10点評価だと、総合で7点です。70点。僕の中ではけっこういい。 最終回が面白かったら80点だったのですが、話があまりに唐突に終わっちゃって、続編もないのも(スペシャルはあったみたいですが)なかなか悲しい。 

今度は、常盤貴子木村拓哉の「ビューティフル・ライフ」を借りてみようかな(笑)    

何度目かの大原美術館を訪れて

 
大原美術館 
www.ohara.or.jp

岡山の南、倉敷市の観光地美観地区内にある大原美術館です。

 授業の絵を描くというのが苦手で、特に水彩がものすごく苦手でした。筆で塗るのがニガテ。だから美術の成績は悪かった。
でも絵は好きでした。けっこう好きだった。特に、中学・高校の美術の教科書は、授業の時も、それ以外でも、割と眺めて、お気に入りの絵を探していた。

 その頃好きだったのは、モネの「夕暮れ」(だっけか?)と、レンブラントの「夜警」。 モネの絵はとても甘美で、そのときは印象主義という用語を正確に知らなかった(僕は音楽を選択していたので勉強する必要もなかった)けど、とてもいいなと思っていました。レンブラントの絵はとにかくすごい!中心の少女が光ってる!!光の感じがすげぇ!! と小学生並みの心的盛り上がり。

 大学生になって、美術館が幾つかあることに気付いて、けっこう果敢にも一人で行ったりした。
そしたら見つけてしまった。美術館の愉しみを。

 それからも、友人の女性を誘ったりとか、断られたりとか、デートも兼ねてとか←、いろいろあったけど、美術館に通うということは何重にも素晴らしい「行為」なのです。

 美術館の愉しみ方を覚えれば、それはもう反復的に行ってもいいし、安い常設展で、大好きな絵をずっと眺めてもいい。
僕は絵の知識が浅いので、「ここの筆はなんでこんなところで曲がっているんだろう。この女性の表情はどういうのだろう」とか,余計なことをあれこれ考えては、じゃあ、次行こうか、という感じで廻るだけなので、本当にマイペース。
 でも僕の友人たちで、美術館に通う人も、けっこうそういうタイプが多かった。そういう人に限って、全然自分の専攻と美術が結びついていなかったことが、また面白い。

 その頃美術検定というのが流行りはじめて、ぼくもゲーム感覚でテキストや問題集を買ったりしたけど、実際には半分くらいまで折角やったのに、当時の勉強やそれなりに忙しかった(慌ただしかった?)生活に流され、放置。


 この夏、2016年の夏、東京に行ったんですが、ふとしたキッカケで、国立新美術館を訪れた。
大学四年生のときも、東京に行って、これがまたふとしたキッカケで、東京国立新美術館に訪れたんです。そのときは、他の博物館の展覧を見て、表参道とか歩き回ってたら、なんか乃木坂駅に着いて、え、ここ美術館なのか、みたいな。

 着いたのが、午後4時。とにかく素敵な建物、雰囲気だったから、急いで室内に入る。全然時間が足りない。
このようにして、あっという間に出会って、あっという間にお別れになったのが、国立新美術館でした。

 だから、今回は意図的ではないにせよ、そうだ、乃木坂駅に行けば、そこから美術館に直結じゃないか、と前の記憶が蘇ったわけです。今度は昼2時。十分な余裕もある。
 建物のテラスで休憩も取ったり、企画展も素晴らしく、やっと「ホントに国立美術館を堪能できた」

って感じでした。

 話が長くて申し訳ないのですが、そのときぼくは、偉大な絵を見ると、自分が信じられないくらい「恍惚」とした気持ちに浸っていることに気付きました。「恍惚」とはたまに文学作品なんかにも出てきますが、まさにあのときの僕の心理状況が、「恍惚」なのだと。至福の時なのだと。  ……神秘体験?笑

 分からないのですが、とにかく嬉しくなり、その絵をずっと見る。ずっと発見がある。溜め息をつく。そして、次の絵に写る。
大学時代と、ちょっと変わったなと。絵の事が、本当に好きになっていると、気付きました。
 それから、ちょっと駆け足で、自分なりに勉強を始めています。
もっと知りたいシャガール 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)


 勉強すると言っても、シャガールの紹介本を精読するだけでもものすごく得られたものが多い。シャガールの生まれた環境、故郷への思い、奇妙な作風にのせた愛の表現、パリと地元と世界戦争と…… テキストは入念に選べば、いつでも素晴らしいのを読めるし、勉強できる。 
 そうしてからセザンヌミュシャなどのガイドブックを読んでるのがまた楽しくなり、そうして昨日、大原美術館に行って気付いたことは、ついた知識は確実に絵を見るときの参考になるということです。
ミュシャART BOX 波乱の生涯と芸術 (講談社ARTピース)


 モネって有名だからすげー、確かにこの絵すげー、となるのも全然いい。し、勉強したうえで、さらに味わうのもよし。

アートと勉強はとても相性がいいと思います。僕の感想ですが。

大原美術館はアクセスもいいのに、こんなところに名画が集まりすぎだろ!とツッコミを入れたくなるほどの素晴らしい美術館だと、地元民としても思います(笑) あと、絵や骨董を各国から集めてきた児島虎ジロウの絵。もうこれが素晴らしいんですよ! 
 大原美術館に来たかたは、是非、大原孫三郎と児島虎次郎の名前もチェックしてくださいね。児島さんはびっくりするくらい爽やかで実に美しい絵を描かれています。大好きです。

結局、アートが大好きなのだ! になっちまった…… それでは。  みすてぃ