書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

たいくつ(部分)

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mistyです。ちょっと事前説明をさせてください。さきほど、PCメールの下書きを遡っていたら、まだ僕が大学生だった頃、2011年1月の日付で保存されていた「たいくつ」という小説の、一部分が見つかりました。
 「たいくつ」は長編で書こうと思っていて、自由にのんびり書いて、楽しかったのを思い出しました。江国香織さんが描く子供たちのきらびやかな世界というものを書きたくて、ノートやルーズリーフ、何で書いていたっけ……? とにかく、大学4年だから21歳のときの僕の拙い小説で、おそらく今以上に誤字・脱字・基本的な間違い(”――と彼は言うのだけれど――”と打つべきところを、―と彼は言うのだけれど―”みたいに[―]これ一つで済ませちゃったりとかがすぐ見つかりました苦笑)が多いはず。

 長いですが、掲載したいと思います。だいぶだいぶ暇な人は読んでみてください。

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たいくつ(部分)


 レストラン内の音楽が、いつの間にかまた優雅なクラシックに変わる。少しだけゆるやかなムードが流れて、それでも今の私の心のだるさには中々届いていない。
 目の前の男の笑顔―目尻に皺を寄せて、乾いた声をはさみこむ、くったくのない感じ―が、こんなにも私にとって苦痛なものだったろうか。無味乾燥にすら思えて、私の中心からはどんどん遠ざかっていく、本体である彼自身とともに。私たちは両方とも食事をすっかり終えて、金縁のお皿はウエイターに未だ下げられることなく、空っぽのまま私たちの動向をひっそりと見つめているかのようだ。私とその男の会話に、もっともらしいことなんて何一つないのに。
 私たちの関係を敢えて形容することすら面倒だが、強いて言うなら、それはちょうどこの、食べ終わった後に取り残されたお皿のようなものなのかもしれない。というより、お皿にすぎないのかもしれない。汚れのついたお皿は、それがついたまま、私とその周りの風景を薄く反射する。つまり、お皿そのものに実体はない。お皿そのものは何かを言うわけでもなく、作動されることと言ったら送り込まれた外部標識を少しだけ歪めて、思考停止のように送り返すーその真ん中は虚無だ。
 自分の考えがあまりに本質に近づいているように思われて、20歳の次穂は思わず身体の奥底からくる冷気を感じる。私はかつてこの人のことを本当に好きだったのだろうか? そんなことを考えてしまって、ため息をつきたくなる。
 言われるまでもないーこれは、おそらく一般に「倦怠」と呼ばれている現象だ! でも、あまりにも早すぎる倦怠だし、むしろそれは終焉、あきらめの方に近い気がする。
 男は、何にも気づかず、繰り返し意味のない笑った顔を私に向け続けている。 

 さて、友情の誓いは、夏休み期間限定だったな、と思い返す。友情の誓いが生まれたきっかけも平凡、というよりよく分からないものだし、なぜあれほどまでに当時の私とさきちゃんは友情の誓いに熱中したのだろう。 でもそれはとにかく、熱くてゆるぎのないものだった。何しろ「人生のパートナー」だ。今から考えればそれは間違いなく、「良き夫婦」の目標であるべきだし、小学生ごときが本気で実行できるようなものではない。 
 それくらい、さきちゃんのことが好きだったんだろう、それは間違いない。

 友情の誓いが立てられた空き地は、確か翌年の春頃にはもう買い取られて、立派でよそよそしい一軒住宅がどんと建てられることになった。だからもちろん、あの頃の空き地は跡形もなく消えて、友情の誓いの言葉もそれを特徴づける木の杭の目印も、世界からは忘却された。いや、それは間違いだ。今でも、私の頭の中に、現在に生きる過去の輝かしい遺産として、残り続けている。ぱさぱさとした土の感触、小石で深く刻み込んだ「パートナー」の文字、風に吹かれて運ばれる、すこやかでどこかあおっぽい香り。 友情の誓いは、もしかしたらその夏の始まりの合図だったのかもしれない。

 ショパンの、悲しい曲調のワルツが流れる。街のネオンがところどころ光って、その美しさだけが私の心にみゃくみゃくと押し寄せてくる。


☆ 


 朝。なんとも、久しぶりにぴかぴかに晴れた、びっくりするくらい強烈な朝日が差し込む朝だった。
 こういうのは、かえって人を混乱させる。これだけ雨の日が続いているとそっちのほうに慣れてしまい、太陽の光を実感として抱けなくなるのだ。次穂はそんな軽い混乱にとらわれながら、いつも通りの朝の作業を迎えた。
 朝ご飯ートースト、ほうれん草のおひたしスクランブルエッグーを半分食べ終えた所で、姉の亜紀ちゃんがのっそりと顔を出す。亜紀ちゃんは、最近顔立ちとか要旨がどんどん大人びてきている気がする。すらりとした手足とか、長くのばした黒髪だとか、小さめだけどとてもきりっとしている瞳だとかー最近そんなことに改めて気づいて以来、12歳の次穂は20歳の姉のことをますます誇らしく感じる。私とは大違いなのに、私の姉なのだ! 私も年を重ねたら、亜紀ちゃんみたいに手足がすらりとしてきて、長い黒髪なんかが似合うようになってきて、そしてきらりとした眼差しで人のことを見たりすることができるのだろうか。

 亜紀ちゃんが通っている、「大学」という所には、そんな亜紀ちゃんみたいな人がほかにいるのだろうか? 亜紀ちゃん一人が素晴らしすぎて、大学という所もちょっと困っているのではなかろうか? 「ちょっと、そんなきれいな人に来られては、私たちも困ります。」みたいな。 そんなことを想像していると、少しだけ可笑しく思えてきて、つまらない朝のことをほんのり愛しく思えた。
 亜紀ちゃんは相変わらずお寝坊だ。お寝坊なのにきれいなんてうらやましすぎる。
 「おはよう、お姉ちゃん。」 「…おはよう。」
 姉はそういって、姉専用の椅子ー姉のお気に入りの色である、黄色のクッションカバーが敷いてあるーにどさりと腰をおろした。
 お寝坊の亜紀ちゃんだが、今日はいつもと違って不機嫌という訳ではないように見えた。つまり、近寄りがたい雰囲気が薄くなっている。ぴかぴかと光っている朝日のせいだろうか。
 父はもう家を出ていてーそれがいつものことなのだー、次穂と姉とお母さんの3人の時間が流れる。お母さんはというと、特段何もしない私たちと違って、朝はいつも動き回ってる、気がする。エプロンを身に付けて、私たちを何故か諌めるように。
 とぼとぼと姉妹が朝食にありついていると、ふいに亜紀ちゃんが口を開いた。
 「ねぇ次穂。」
突然の問いかけだったので私はちょっと面食らってしまった。
 「う、うん、何?」 拾いかけたほうれん草の一葉がはしからこぼれ落ちていく。
 姉の亜紀ちゃんは愉しそうに、
 「最近はテストばかりだけど、それでも学校楽しんでやっていける?」
と、次穂の方に顔を近づけるようにして放った。
 なんだ、そんなことかと次穂はたちまち安心して、すぐに
 「うーん。まぁまぁかな。」 と、とても中身のない返事をしてしまった。すぐに後悔することになる。
 「算数が最近微妙って言ってたけど、どう?」
この質問には少しばかりの時間を置かなければならない。 トーストの耳をちゃんと飲み込んでから、次穂は言葉を返した。ごくん、っぱっ。
 「…ダメかも。 なんかね、私、分数の計算が苦手なんだ、やっぱり。」
 「苦手って?」 「苦手というか、すごく時間がかかってしまう。その割には、いつも計算が間違うの。」
 「分数の、足し算?」 「ううん、割り算。 割り算が、時々やり方を忘れてしまって。」

 「ふーん。」
亜紀ちゃんはそこで言葉を切った。何かしら考え事をするような、目つきになっていた。会話が必然的に止まる。 私、正直に話したけど、もうちょっと言い方を変えればよかったかな。

 また、黙々とご飯を食べる二人の光景に切り替わる。そこに、朝の色々な作業を「4分の3」ーお母さんはいつもそう表現するー終えた母が、温かいコーヒーを入れたマグカップを片手に、リヴィングテーブルの席に登場する。
 お母さんが登場するということは、それはつまり亜紀ちゃんの関心事が主にお母さんとの会話になることを意味している。そしてちょうどよく次穂は自分の分の朝食を終えるのだ。
 「亜紀、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」
差し障りもない口調で母の質問タイムは始まり、次穂は朝ご飯の乗っていた銀色のプレートをシンクまで運び、そしてリヴィングを去る。 
 次穂は、歯磨きをしながらあることに気づく。そういえば、姉とちゃんとした形でー?二人きりで真面目な話をするということかなー、しかも朝から話をするというのは、割と久しぶりではないのだったろうか、と。 それは次穂に幸福な嬉しさをもたらす。


 夜。時計は10時を回り、小学生であるべきの私は、そろそろ就寝に取りかかる時間だ。
学校の宿題がひどくつまらない。あと計算問題を2つ解いたらおしまいという所で電源が切れてしまって、仕方がないのでお風呂に入ったりテレビを見たりして、そうやって折角自分の机に戻ってきたというのに、またしてもやる気が起こらない。ううん、やる気が起こらないというより、もっとひどくなってる。眠いのもあるんだけど、何だろう、ふわぁ。

 次穂の部屋は、次穂が小学5年生に上がった春に、与えられた。かつて姉の部屋だった場所に。
今では、すっかり次穂の好みにあった部屋に仕上がっている。部屋は、住んでいる人の肌に近くなるんだ、と私は思っている。そしてこの部屋は1年前の春から今まですっかり私が主になっているので、当然私いろに染まるのだ。
 まず本棚が全部あわせて4つあり、一番大きいのが白色の木製、次にシルバーの金属製の、それから赤色と青色の、高さ70センチくらいの小さめのやつ。それぞれが、机の両端にぴったりくっつくようにして配置され、こうやって机から眺めてみるとそれぞれに手が届くので、気持ちがいい。机は、幼稚園の頃からずっと使ってきた、大きな学習机。こればっかりは、少なくとも今の私の好みとはかけ離れている。ライトな薄い色のペンキが塗られた、ばかでかい学習机。
 ドアから離れるようにしてベッドー本棚の次に次穂が気に入っているものーがどかんと置いてあり、スペースの空いた所には、ムーミンの大小そろったぬいぐるみがどっさり置いてある。主人公のムーミン(もちろんムーミンパパやママもだ、当然!)の他にも、ヘムレンや、それから次穂が尊敬してやまないスナフキンといったキャラクターが、仲睦まじげに並んでいた。

 花柄の壁紙を張り替えることは、結局お父さんから許してもらえずじまいで、そのままになっている。ドアの頭方向に、大きめの洋時計がばばんと飾ってある、そんな部屋。

 「もういいや、明日やろうっと。」
そう口にすると、おかしなもので途端に気持ちが楽になり、私はベッドにばすんと身体を預けた。深くうずくまってから、息を吐く。はぁ、今日も1日、過ぎていったな。

 しばらくそうしていると、耳が澄まされ、そしていつものごとく隣の姉の部屋から、姉が好んでかけている音楽が少しずつもれて聞こえてくる。
 亜紀ちゃんの好きな音楽のことは、よく知らない。ただ、亜紀ちゃんが無類の音楽好きということだけを知っている。…と。

 「なんでよっ!」
亜紀ちゃんの、声だ。 これは、亜紀ちゃんが怒っている声だ。 薄く鳴り響いている音楽の中からそれは突如として姿を現した。次穂はふわぁ、亜紀ちゃんがおこっている声を出している、とぼんやりと思った。

 「それは自分が悪いんじゃない…違う…ううん…だから…」
後の方の声は、音量も下がっていて、はっきり言って聞き取れなかった。これは間違いなく電話だ。だって、お父さんもお母さんも、まだ二人とも1階のお部屋にいるから。
 今日は特別に蒸し暑かった、私はふいに、しっかり羽織っているパジャマのことがうとましくなって、今日はTシャツで寝ようと思い、ゆっくりした手つきで上着パジャマのボタンに手を掛けた。
 自分が立てる動作の音で、、もう隣の部屋の音が聞こえてこない。
おこった亜紀ちゃん。 電話の向こう越しにいるだろう、亜紀ちゃんの話し相手のことを憎らしく思った。なんで電話なんかでわざわざ亜紀ちゃんを怒らせてしまうんだろう。みっともない人。
 しばらくして、私はすやすやと眠りの中に落ちていく。


 高田君の姿を目にするのが、とても嫌だ。というより、気恥ずかしいというか、みじめな気持ちになる。と同時に、なんで高田君ごときにーこの言い方はひどいけど、今はそんなことも言ってられないー私は悲しい方向に振り回さなければならないのだろう、と思ってしまって、それもまた少しだけ苦しかった。
 相変わらず、さきちゃんは私の見方だった。ううん、友情の誓いを立てたあの日から、「人生のパートナー」として。そんなパートナー、むしろ次穂にとってのスーパーマンのさきちゃんも、四六時中次穂のことをかまっていられる訳にもいかない。例えばこうして国語の授業を受けているときなんかには、さきちゃんはどうしても彼女の席、私の斜め後ろに座ってじっとしなければならず、私とさきちゃんの間に見ただけの距離ができる。

 「…ごめん、えっと、国語の教科書忘れてきたみたいなんだ…」
 授業が始まって5分後、高田君は妙にどぎまぎして、さも申し訳なさそうに私にそう告げた。勘弁、教科書のたぐいをあなたは決して忘れないで! 角刈りにしている高田君の頭部だけを見ると、なんだか彼のことがイグアナのように思えてきた…。 ざらっとした、奇妙な質感のある、あのイグアナだ。 何を考えているか分からない目をして、ざらざらの皮膚をまとって、人間に歯向かってくるあの感じ。

 仕方ないので自分の教科書を二つの机の真ん中に置く。あぁ。
なるべくばれませんようにと思っても、クラスメイト達はこざとく気付く。 例の、給食のときの”赤面事件”ーさきちゃんが、賢慮にもそう名付けたー以来、クラスのみんなが私と高田君のことを「そういう」目つきではやしたてるようになった。私は努めて影響されないふりをした。それは自分ではけっこううまくいっているように思えたけど、周囲の過剰反応は高まるばかりだったし、それに次穂も次穂で自分が完璧な存在でないことが分かっていたので、こういう風に”突然教科書を見せてくれるように頼まれる”シーンが起こるのには困った。覚悟もしていない事柄なので、心の準備が整わないのだ。高田君は何やら勝手にどぎまぎしているし。すると、私まで何か変にどぎまぎしてくるじゃない…。

 今の時間中、なるべく高田君と目が合わないように気をつける…。教科書の左のページと、それから黒板とノートだけ見ていればいいんだ。

 「…じゃあ、次のページから、誰かに読んでもらおっかな。」
若くて可愛い先生が、今日は珍しく眼鏡をかけてーオレンジ色のフレームの、私にはないとても明るくて元気な印象だー、そう言った。
 「それじゃあ、今日は7月20日だから、足して27! 出席番号27は…小宮さん、だね。」

 ぎくっ。
 「はい…。」 私を当てるなんて、まだこの高田君と教科書を共有しているという事実を、知らない人もいたはずなのに…。 思った通り、私の名前が呼ばれたことで、視線は一気に次穂ーそれから隣の高田君ーに集まった。そして、気付かれる。
 「あら、そこは、どっちか教科書を忘れたの?」
次穂は黙って下をうつむいた。すぐに、
 「はい、ぼ、ぼくが忘れて、それで小宮さんに見せてもらっています…」
という頼りげのない声が返った。
 担任の先生は、若くて、そして若いわりには色々と気のつくいい先生だったけど、今の私を取り巻く環境のことを、おそらく未だ知らないのだろう…。先生は見方にはなり得ず、したがってそうえなければ敵である。事態を好ましくない方向にもっていく。
 「そう。 高田君、今度からは気をつけてね。 じゃあ小宮さん、悪いけど、そのまま高田君も読むことができるように、座って朗読してね。」

 「分かりました。」次穂は小さく告げた。
それから私は黙々と、いつもは楽しいはずの教科書朗読を始めたが、そのおかげで右ページ、ひいては高田君の姿も視界に入り込まざるを得なかった。
 ”人生って、苦しいこともあるよね。”
学校の帰り道で、いつか独り言のようにそうつぶやいた、さきちゃんの言葉が蘇る。さきちゃんはまだ子供なのに私なんかよりずっと頭脳が明晰で、たまにつぶやく言葉には恐ろしいほどの説得力が宿る。 人生って、苦しいこともある。今が苦しいときだ、間違いない。

 次穂はあくまでも冷静さを装って、その苦行に身をひそませた。


 「つーちゃん大丈夫? 今日はなんか、怒ってるね。」
優しいさきちゃんが言う。校庭にある巨大な遊具の中にある、あまり人気のないマイナーな鉄棒コーナーの片隅。 
 外はさんさんと太陽の光が空気を包んでいて、そして所々に植えられている背の高い樹。 木の葉は光を浴びて、色素の薄い、透き通るような若葉色に染め上げられる。風を受けて、僕たちは元気なんだ、生きているんだよ、と、全力の力をもってたなびいている。
 「怒ってはいないよ。でもね、でもね、」
 「国語の時間?」
 「…それもあるかな。」

(筆者注・ここで下書き保存された文章は終わりです)

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橋本奈々未へ①

橋本奈々未へ捧げる


 ……彼女はこれからも夜の静寂に独り起つ紺碧色の眼をした小鳥の如く、無限の樹海の中をさえ逞しく、強く、鮮やかに彷徨していくだろう。そしてその彷徨は未だ誰も見たことの無い奇跡的な〈誕生〉へと向かって行く――。何があったろう。何が待っていたろう。許せぬ果てへの強靭たるの為に? 彼方へ? 行方も知らぬ見果てた国の更なる奥地へ、あぁ奥へ。その中で彼女は知る、無限と有限の狭間を、知を、愛を、識る、決して勝利することの無いしらばっくれた神の許へ、人類を独りとして代償にすることはない、紺碧の夢へと向かえ、そして誘え、我と、我の使者を、速く、得も知れぬ化け物のようなミストラルへ、往こう、いざ。そのとき私は貴女を永遠に分かつだろう。



なんか書いてたらハスミシゲヒコ的な感じのが体に乗り移ったような気がします。橋本奈々未と蓮実?笑
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Hallelujah(最初だけ)

Hallelujah

 治療室から戻ってくると、エアコンから送られる暖かな空調にSは感動するものを覚えた。個人経営の小さなクリニックの歯医者はSの知っている限りでは東京の最先端の歯学を完璧に習得し、洗練された治療と「居心地の良い実に快適な」空間のを提供していたので、患者の予約が常に殺到しているのだった。ただどういう訳かその日は空いていて、Sの他にはくたびれたスーツに包まれた若いサラリーマン男性が仕事の合間を縫って診察を待っているだけだった。待合室は空色がかったすっきりした印象を与える壁で、ピンク色のソファが置いてあった。「お疲れ様でした」と先生の声が治療室の方から聞こえ、Sは半ば自動的に頭を下げるとソファにゆっくり腰を降ろした。
 右の奥歯の痛みがとれている。それはSにとって実に爽快な出来事だった。あれほど肉や魚料理を食べる度に苦労し、イライラと神経はすり減っていく日々とはお別れだ。ハレルヤ!なんて思わず口ずさんでしまう気持ちだった。
 Sの斜め横には受付カウンターがあって、Sがくつろいでいる間に先生の奥さんでもあり助手をしている夫人が戻ってきた。彼女はマスクを着けたままSに笑みを向けると事務仕事をはじめた。そこで私はふと尿意を感じはじめた。トイレはどこにあるのだろうか。Sはあたりを見回したが、それらしき表示は見当たらない。Sはソファから立ちあがると、夫人に尋ねた。「すみません、トイレはどこでしたっけね」夫人は顔を上げると横髪を華麗に揺らしながら「トイレは実はこの下の階にあるんですが、ちょっと分かりづらいんです。私がご案内します」と言った。ここは地上なので、下の階があるとは要するに地下ということだ。果たしてここにそんなものがあったか、とSは疑問に思ったが、それは口に出さずに「いえ案内なんて。道筋を教えて頂ければ」と言った。
 「いいですよ、本当に分かりにくいですし。ご案内します。どうぞ」夫人はそう言って受付から出てきた。Sは申し訳なさそうに「じゃあお願いしますね」とだけ言って夫人の後についた。
 夫人は待合室の横の、普段はカウンセリングルーム――インプラント治療の事前説明や、持続的な歯の治療計画を患者に説明する際などに使われていた――として使っている奥まった部屋を横切って、さらに奥の非常階段に続いた。緑の暗いランポプが下へと続く階段を照らす中、夫人はSの二歩先を歩いて誘導した。Sと歯医者夫人の二人分の靴の音が異様なまでに寂しくコツンコツン……と響く。「お母様は」と夫人はにこやかな表情を浮かべてSの方を振り返った。「お母様は元気にしていらっしゃいますか。最近お見えになられないようなので……」Sの母親も同じこの歯医者にかかっているのだ。Sの母親は医者という人種が特に好きで、よく「お医者先生、先生」と親しげな関係を彼らと交わしていた。Sの母親はその「歯医者先生」にSの私生活のことまでべらべらと話すし、先生の奥さんである夫人にSの普段の生活模様が筒抜けになっているのだった。Sはどちらかといえば治療室の中では寡黙な方なのだが。「ええ、元気ですよ、ただ腰の方がね……」「ああ、奥さまは腰をだいぶ痛められていましたよね!」「はい、その後結局入院しちゃったんです」
 「そうなんですか? 入院?」とその時になって夫人は下っていく階段から眼を転じてびっくりしたようにSの方を向いた。Sは軽く弁解するように、「でも、もう退院しました。一週間くらいの……そう、一週間で退院ですね。ええ。今も週に一回外来診察に通ってます」
 「そうだったんですね……大変でしたね」
階段はある所までくると百八十度向きを変えて再び下降し、以前として非常階段であることを示す白と緑の妖しい光が二人を照らしていた。すると地下の踊り場のような場所に着いた。そこの地面はゴツゴツしたコンクリートで足場が不安定で、おまけに雨が何かの水でびしょびしょに濡れていた。広い空間には、天井には眩い白色灯が吊るされてあってその光の強さは下からでは直視できない程だった。まさに地下室というべき場所で、非常に危ない場所だと咄嗟にSには思われた。Sと夫人が階段から到着した場の奥の方に、男性トイレ・女性トイレを示す黒と赤で塗られた人形のマーク印が見えた。最も男性トイレは半ば開放されており――女性トイレは堅牢の如く扉に閉ざされていた――、二人が立っている位置からでも内部が見えた。Sはそこで「それじゃあありがとうございました」と言ったが、夫人は柔らかい表情を変えずにただ頷くだけだった。……

『パララックス・ヴュー』メモ書き(1)

パララックス・ヴュー

 スロヴェニアの現代哲学者ジジェクは、難解な文体、ドイツ観念論からフランス政治哲学、そしてもちろんラカン精神分析学、そして何より大衆映画作品の分析などを盛り込んだ、「圧倒的な書物」を世にばんばんと送り出す魅力的な哲学者である、と僕は思っている。哲学の入門もクリアしないままこの哲学者の著作にあったとき、笑っちゃうくらい彷徨したのだが、カントのアンチノミーとかヘーゲルの主人と奴隷の弁証法などの用語に耳慣れてくると、徐々にジジェク著作は読めるようになってくる。これは僕の実感である。ジジェク以外の哲学と対峙し、何かしらを必死こいて理解しようと努めたり、あれはこうではないか……?と考える日々を経由してまたジジェクの違う著作を読むと、以前よりまた一つ読解が進歩している。読者にはむしろサービスも、しかし無料のサービスでは済まさないのが、ジジェク流のやり方なのだ。

 ジジェクの哲学文章の下敷きには、繰り返しになるが、以下の要素が大きく関わっている。

① ラカン精神分析学。もちろんフロイトのそれとの共通点、差異。
② ドイツ観念論。カント、ヘーゲルを筆頭に、フィヒテシェリングなどは毎回持ち出される
③ フランス政治哲学 アラン・バディウジジェクのお気に入り。ラクラウ、ジュディス・バトラー(こちらは精神分析にも関わる)、アルチュセール
④その他の哲学者 ドゥルーズデリダらポスト構造主義者、ニーチェデカルトといった近代哲学者
⑤ハリウッド映画

これらを題材として、ジジェクは縦横無尽に哲学を創り出す。しかし彼の整理や解釈は見通しが良く、「あ、そういうこと?」と見方=視線に新たな方向を与えてくれることが多い。それもジジェク哲学の魅力。

 僕は『厄介なる主体』という2巻本の著作に触れて、この哲学者を読み解きたいいつかは、と思っているのだが、何せ彼の著作が膨大で一作一作も重厚なので、いつになることやら。
まがりなりにも完読したのは『厄介』と『否定的なものへの滞留』(再読しなきゃいけない)、あとは『ラカンはこう読め!』くらいなのだが、

とりあえずこれから大著『パララックス・ヴュー』を読んでいこうと思う。
哲学書を読むときは、自分の中でまだ形を持たない概念が光のように現れたり消えたりするから、それを追いかけるために個人的なメモ書きもたまには必要なのです。だからこれは読物では到底ない。

 しかし、『パララックス・ヴュー』は間違いなく面白いだろうし、これを読み切った僕は、以前とはやはり何か違う感覚、ビジョンを手に入れているかもしれない。そのために読みます。

今回は宣言だけで終わっちゃったけど、読書は気ままに進めていきます♪ 笑

『アンナ・カレーニナ』ノート(4) 

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

 「アンナ・カレーニナ」に関するメモはこれでお終いです。遂に読んでしまいました。
深い喜びと、もうこの物語の続きを味わえないということに、妙な寂しさを覚えます。

 まず、アンナとウロンスキイの悲哀めいた一シーン。

「アンナ! ぼくの愛の問題がここに何の関係があるんだ……」
「そうよ、わたしと同じくらい愛していてくれたら、わたしと同じくらい苦しんでくれたら……」とおびえた目で彼を見つめながら、彼女は言った。
レフ・トルストイアンナ・カレーニナ』(集英社;世界文学全集22)pp515 第六部に入る直前

 アンナのこの台詞にはぞっとしました。アンナはもともとどこか狂気じみた精神を持っているきらいがあって、それは本書のところどころ、そして大事な所にもあらわれるのですが、そんなアンナを受け止めることのできないウロンスキイが居て、切ないですね。
その数行後には「二人はすっかり仲直りして……」とあるけど、そうなのか、仲直りできたのか!? と疑ってしまうほどです笑

 [アンナの心中]『あの人に許しを哀願したりして。あの人に屈服したんだわ。自分の非を認めたんだわ。どうして? わたしは、あの人から離れては生きていけないのかしら?』そして、彼から離れたらどうなるだろうという、その問いには答えずに、彼女は店々の看板を読みはじめた。『事務所。倉庫。歯医者。そうだ、ドリイにすっかり打ち明けよう。ドリイはウロンスキイが嫌いだから。恥ずかしいし、心が痛むだろうけど、でもすっかり言ってしまおう。ドリイはわたしを愛してるから、ドリイの忠告にしたがうことだわ。誰が屈服などするものか。わたしを教育するようなことは、許さないわ。フィリッポフの店、巻パン。この店はこね粉をペテルブルグに出してるそうだわ。モスクワの水はそれほどいいのね。ムイチーシチ井戸店。ブリン』すると彼女は、遠い遠い音、まだ十七歳だったころ、叔母に連れられてトロイツァ大寺院に行ったときのことを思い出した。……
アンナ・カレーニナ』pp706

 ここは馬車の移動中でのアンナの心中ですが、店の看板を眺めながら自由に動く心の描写は、イギリス流「意識の流れ」の手法の先駆的なバージョンとも言えると思います。ここだけでなく、他にも「意識の流れ」に近いスタイルでの描写がありました。

 あとせめて二つくらいは引用したいのですが、結局『アンナ・カレーニナ』という大作を読むという行為には何も及びません。

こういう小説体験は僕にとって初めてだったかもしれません。まだうまく言語化できない。素晴らしい映画を10本まとめて見たような、本当に深い余韻があります。こういう本が読めて良かった。

これからも、大作を読んでいくときにメモ書きにして引用をつけていきたいと思います。 

「アンナ・カレーニナ」ノート (3)

 今回はpp250~500くらいまでなんですが、すぐに集中力が切れる僕としては、『アンナ・カレーニナ』はかなりはまり込むことができます。まだ読了していないけど。ところどころ唸った所を紹介しますね。

 『要は、自分の目的に向かって根気強く歩み続けることだ、そうすれば目的は達成できる』とレーヴィンは考えた。『しかも労をいとわずに、働くための、立派な理由があるのだ。これはおれ個人の仕事ではない。ここには全体の幸福の問題があるのだ。農業経営自体が、特に――全農民の状態が、完全に変革されなければならない。貧困の代わりに――全体の豊かさと満足、敵意の代わりに――和合と、利害の一致。一口にいえば、無血革命だ。これはおれの群の小さな範囲に端を発し、やがて県に、ロシアに、世界中に波及していく偉大な革命なのだ。なぜなら、正しい思想はぜったいに実を結ばずにはいないからだ。そうだ、これがそのために働くに値する目的なのだ。……(略)   
トルストイアンナ・カレーニナ』(集英社・世界文学全集22, pp325)

 全体の幸福、全体の豊かさと「全体」が強調されていますが、革命思想、それも全体の幸福に資するという共産主義的な思想がレーヴィンの内心から出るシーンです。このあたりはけっこう物語の中でもキー場面で、レーヴィンは自分の村に帰って田畑仕事を見直す時に自分のこれからの行く末が示唆されるのですが、これは自分の(農業)経営をあーだこーだと悩んでいるときに若気の至りで興奮しているところ。とてもロシアっぽいと思いました。時代的ですね。レーヴィンには、革命を心の中に唱えた次男と、自分哲学とでもいうべきストイックな信念を持つ長男との間にあって、自分は無信仰・中立派、ぐらいの立ち位置を取るのですが、それでも革命には共鳴するところがあるみたいです。

 彼女の言ったことには、特に変わったことは何もなかったように思われたが、彼にとっては、そう言ったときの彼女の一声一声に、唇や、目や、手の一つ一つの動きに、言葉にあらわせぬどれほどの意味がこもっていたことか! そこには許しを乞う願いもあったし、彼への信頼もあったし、親しみ、やさしい、おどおどした親しみもあったし、約束もあったし、彼への愛、それを信じぬわけにはいかぬ、そして幸福で彼の胸をふさいだ、彼への愛もあった。
アンナ・カレーニナ』pp362

 
 この描写はすごい。一つの挙動にどれだけ意味がこもってたんだよwwと思いましたが、まさにトルストイによる人間心理の解体新書みたいです。人間の内感をことこまかく列挙し、しかもそれを一つの動作から互いに読みとりあうというのは以前の記事でも社交界のシーンに多々見られるというようなことを書きましたが、社交界だけではなく主に全体に渡って、男―女、兄―弟、母―娘、貴族階級―貧民階級と、コミュニケーションがなされる場所ではどこでもそういう心理の読み合いといった記述が見受けられます。


 彼[註:レーヴィンのこと]の目が見たのは、彼の心をも満たしている愛のあの同じ喜びにおびえた、明るい、真心のこもった目だけだった。その目はきらきら輝き、愛の光で彼を盲いさせながら、ますます近付いてきた。彼女[註:キティのこと]は彼のすぐまえに、ふれるばかりにとまった。その手が上がり、彼の肩におかれた。
アンナ・カレーニナ』pp381

 ここはひときわ美しいシーンで、幻想的なまでに華美で、幸福です。僕はこのあたりを読んでいて、正直『アンナ・カレーニナ』の面白さが底抜けだと思いました。幸福な場面のために、描写もひときわ輝いているのです。タッチを変えることで話の雰囲気が一段と変わっていくのは、物語の書き手としても非常に勉強になるところがあると、トルストイの偉大さを感じました。本当に美しいです。

 今、読書自体は550ppくらいで、終りのpp760まであと200頁強! がんばっていきます。

夏目漱石ロボットが現代の大衆小説を書くようになるとき

 人工知能(AI)の進化について、文系癖という悪癖が出て情報収集を疎かにしたり、「うーんでもロボットがどんどん進出していくと人間の手仕事も減るわけだしいいじゃん」というお花畑な思考をしがちだったのですが、

 AI関連でも、人工知能が文章を書く、というのは、Google翻訳の驚異的なアップデートだったり、ついに夏目漱石アンドロイドも登場しちゃったりで、どんどん現実性を帯びている。

 僕は作家志望なので、AIが小説を書くくらいまでに発達してしまったら、でもそれはありうるなぁと思って、ようやく危機意識に近いものを抱きました。
 というのは、エンターテイメント小説などの大衆小説は、あるパターンや規則性などに基づくものも多いので、それを発達途中のAIが引き受けると言うのは、至極合理的な展開のような気がしたからです。

まだ実際にはちゃんと調べてないので、どれほどの文章が自動的に書けるのかとか、オチの付け方とか、そういうのは全く分からないんですけど、発達途中の(進化途上の)AIと商業主義は非常に結びつきがいいと考えられます。

 「小説家になろう!」のような投稿型小説サイトの話を聞いていても、読者の勝手すぎる(?)感想などがけっこう多いらしい。ならば、読者のニーズ・欲望に徹底的に答えるように、ストレスを抱える人間ではなく、AIがある程度書いてしまえばいい。


 僕としては「純文学的要素も持ってますから」、なんて逃げ場をちょっと考えたりもするけど、それもAIが創造性を獲得するにつれ、奪われていきそうな気もする。
そのとき、血肉の通った作家が書く小説に、どれほどのアイデンティティがあるのだろうか。

これはかなり問題である。

 とまぁ、それくらいで話は終わるのですが、以前から哲学・現代思想の分野でもAIのことは取り上げられていたので、まずはそちらからあたってみようかな!

現代思想 2015年12月号 特集=人工知能 -ポスト・シンギュラリティ-

 去年に出た青土社の鉄板の雑誌「現代思想」のバックナンバーです。これを県立図書館で早速予約しました。

それから個人的に気になっていたのが
生まれながらのサイボーグ: 心・テクノロジー・知能の未来 (現代哲学への招待 Great Works)

 現代思想の系譜としては、ポストモダン時代に、人間中心主義批判からの構造主義→極化として、「主体的な人間」という概念から抜け出るためにサイボーグや動物などが論じられるようになってきましたが、それに時代も追いついて、モノを人間なしで捉えるといった哲学プロジェクトも近年あるようです。
 いずれにせよ、人間が中心の社会や制度に綻びが出るのが止まらなくなり、それをどう受け止めるか、これはまだ誰も明確に安心できるような答えをもっていないと思います。