書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

反文明

 文明のスピードが速すぎる。ドゥルーズの研究者である千葉雅也が『動きすぎてはいけない』で書きつけた、国家―社会―個人の領域における接続の過剰はさらに加速している。よく考えてみよう。二、三十年前のSF小説のアイデアはむしろほとんど現実化されているではないか。これが現実か? と疑いたくなる。そこにはアクチュアリティ(現動性)が欠けているように感じられるのだ。

 過剰の過剰と速度の加速度的上昇。それらに対し、我ら人間が半ば意図的に時代を錯誤し、混乱し、一時停止し、切断するのも当たり前である。むしろ、時代の錯誤を肯定的なものとして捉えたい。社会は闇の力によって動かされている。誰もその先を知ることはできないが、それが望ましくない方向にも向かっていることくらいは知っている(それに気付ける人も少なくなったことが哀れだが)。

 反文明の流れはむしろ普遍的にあった。我らはレトロなどという虚飾めいた言葉でさらにそれが文明や資本主義のたった一つの部品に成り下がることを許すべきではない。我らは時代の先を知ることをできないが、時代の進行を一時停止させることくらいはできる。できるはずだ。

 農作業をしてもいい。樹木を愛でてもいい。田舎に帰ってもいい。都市を捨ててもいい。携帯を捨ててもいい。ある時代に固執してもいい。酩酊してもいい。現代への酩酊。一時的な破滅。混沌。何かしらに抗うべきだ。でないと我らは既にあまりに支配されすぎている。支配されることに慣れ過ぎている。

ヘーゲル

美学講義 (叢書・ウニベルシタス)

この本を購入した。哲学書は高いしまず売れないから大型書店に行かないと買えないが、僕の甲斐性無さを1,2年発揮させた結果、ちゃんとした哲学書を購入したのは一年半年前のドゥルーズ『シネマ1』以来である。その間、デリダの「動物を追う、ゆえに私は動物である」もものすごく欲しかったのに見送ったし、購入を見送っていったい何冊図書館に高い哲学書を購入したことやら(倉敷中央図書館様いつも本当にありがとうございます)

 そして、選んで買った哲学書は、やはりエネルギーが違うのである(個人的に) 買って良かった……。

ヘーゲルは、ドゥルーズをはじめやたらフランス現代思想が目の敵のように批判者として登場させるので、ドゥルーズ哲学に多大なシンパシーを受けてきた僕としてもやはりとっつきが悪い哲学者であった。それでも勉学の為に何かを読もうとしたのだが、重厚・難解・多作の3点揃い。
しかし、ヘーゲルの美学はかなり前から気になっていた。
この『美学講義』は今まで出版されている『美学』とは内容も異にする(それについては冒頭に詳しく説明されているので是非手にとって読んでみてください)、新しい内容みたいだ。しかし、訳者の功績もあってか、読みやすいと思う。決して超難解ということではなさそうだ。講義ゆえの良さかもしれない。

これを読むと、ヘーゲル著作の中でも定評のある『歴史哲学(講義)』が岩波文庫であるので、そのうち読むだろう。おそらくヘーゲルは世界や宇宙を広く見渡す能力というか力が歴代の中で一番優れているのであろう。と何となく直感で思う。

 ヘーゲルの著作の中でもかなり手ごわいイメージとして定着しているのが『精神現象学』だろう。いい訳であるとお墨付きの中古本をもっているが、そうあっても難しい。ハイデガーデリダも頻繁にこの書に言及しているが、これを後回しにしてもよさそうだ。

 ヘーゲルドゥルーズの文章を読んでいると、デリダレヴィナスの良さを思い出す。レヴィナスデリダも特に難解な哲学者として紹介されるが、その文章は確かに文学的に凝ったり、一筋縄で読めるようなものではなく、だからこそ書物として大変美しいのである。レヴィナスの著作なんてものは。

先人の偉大さというものを考えずにはいられない。先人はいつまで経っても超えられないくらいすごい。ヘーゲルくらいまで遡ってしまうともう誰も相手にすらしてくれない。それでもそんな時代の人の書物を新しい翻訳で、新しい装丁で読めるこの悦びが、古典の良さだと思う。

近況報告 大江健三郎、リョサ、英語

ブログタイトルを変えたいと思ったのだが、やり方が分からない。変更不可能なのだろうか。誰か分かる人いたら教えて欲しいです苦笑

 文章を書くのも少し久しぶりである。ブログは1カ月ぶり。
3月末の各文芸誌の新人賞に作品を出そうとしていたのだが、土壇場でふんぎりがつかなくなり、結局諦めたことが大きい。新人賞の対象となる100枚作品を仕上げるのは僕には本当に大変なことだ。それよりも、50枚~100枚の作品が一つ、書きかけが一つあるので、そちらを進めながら、また100枚作品は優先順位を下げて(しかし書くことは書く)いこうと思っている。


 最近は、隙間時間を見つけたら、英語のリスニングをやっている。といっても、iPodに入れた音声教材を繰り返し聞くだけ。
一通り聴いたかな、と思ったら、スクリプト(文章)を見て、分からなかった単語を調べ、間違えて聞こえていた箇所にマーカーをひき、文章を見ながら繰り返し聴き、そして音読。

 音読は、夜間にやると人を起こすし、カフェとかでもやりづらいのだが、音読をやるとリピートしつづけた英語が少しでも身体の中に入ってくるような実感を得ることができる。
 テイラー・スウィフトレディ・ガガのインタビュー音声を経て、ベッカムの音声も一通り終わり、今はCNNエキスプレス4月号の残りの教材(中級)と、セレブ・インタビューからブリトニー・スピアーズジョディ・フォスターをやっている。

 さて、そんな中で最後に残った時間にちまちま読書をやっているのだが、今は大江健三郎の『懐かしい年への手紙』とバルガス・リョサの『緑の家』(岩波文庫、上下巻)を中心に読んでいる。
懐かしい年への手紙 (講談社文芸文庫)
緑の家(上) (岩波文庫)

 健三郎については、3月に『晩年様式集』を読み終えたのだが、これがまた曲者だった。非常に読みづらく、腹立たしく思わされるところもあり(笑)、しかしやはり最後まで読む気にさせられる作品だ。
 大江の言う、「レイト・ワーク」(晩年の仕事)に位置付けられる一作品を読んだことになるわけだが、なんとなく大江が『燃え上がる緑の木』三部作以降の、不思議と一貫した作品を書き続けている姿勢が読みとれるのだが、これはもうチェンジリングとか『レイン・ツリーを聴く女たち』なんかも読まないと、分からないなと。しょうがないのである。当の『晩年様式集』に大江健三郎の作品とその作品に対する家族(女たち)からの応答・批判がもろに書かれているのだから……。ほんと変な作品である。だけど嫌いじゃない。でも読みにくいから一回読んだところでは60点くらいの読了感とした笑

 バルガス・リョサは面白いねー。うん。実は、『緑の家』と『楽園への道』のペーパーバックも買ったんです笑 英語熱を上げようと思い。
『緑の家』はまだ読み途中なのであれだけど、読み終わったら、五月に河出文庫から『楽園の道』文庫版が出るらしいので、それ買って仕上げようかな。

 あと、ポール・オースターも割と集中的に読んでいます。3月に発売された『冬の日誌』を読み終えて、やはり深い感銘を受けて、その対をなす作品であるところの『内面からの報告書』も今月のお給料貰ったら買います。
 そして、前から持っていたペーパーバックの『City Of Glass: New York Torilogy』もめっちゃゆっくり読んでいるのですが、ガラスの街ってこんなに面白いんだなって感じてます。『冬の日誌』は作家オースターの半生が間接的に伝わってくるような作品なのですが、それを踏まえた上でガラスの街を読んでみるとまた違った発見がたくさんありそうです。

 と、勢いよく書きましたが、現実には新しい仕事もはじまり、小説や英語以外にもストレスを発散させたり楽しみを見つけていくことに割と必死です。

黄桃缶詰の新しい雑誌が出せて良かった。これからみんなの作品を読んで、一周り先に帯文みたいなコメントを考えるつもりでありんす。

上野千鶴子に誰か続け

今日、こういう本を図書館から入手した。
キャリバンと魔女

正式タイトルは『キャリバンと魔女――資本主義に抗する女性の身体』。タイトルから見ても分かる通り、本書はジェンダー論と資本主義論(政治経済学)を積極的に結び付けようとする野心作。主に17,18世紀にヨーロッパで行われた魔女狩りという事象を元に、何故魔女狩りは行われたか、魔女狩りが近世の始まりに起こったということの意義などを、広い観点から捉えることがキモ。マルクス主義フェミニズムフーコーという理論枠組みを検証・批判しつつという内容で、いろいろすごい。

 昔、師事していた(というより研究室に乗り込んでたまに本や社会学のことについてべらべら話してもらっただけでもあるが)先生が、フェミニズムジェンダー論の研究所も持っていて、僕も当時偶然のきっかけでジェンダー論に興味を持ったことがあったので、それ以来この分野には薄く浅く興味を抱き続けている。そして、最近思うのは、フェミニズム論・ジェンダー学はちょっと寂しいのかな、ということだ。それは僕自身が、この分野を積極的に開拓しようとはしなくなっていることにも大いに関わっているが。

 日本のフェミニズムということでまず名が挙がるのは上野千鶴子だと思う。それくらい彼女の存在意義は大きい。
上野さんの仕事は多岐にわたるが、著作で言うと『資本制と家父長制』は、ジェンダー論関係者だけでなく、広く資本主義研究、家父長制研究、社会学一般に興味が或る人に対して開かれている意欲作である。文庫にもなっていると思う。文庫になっている上野さんの本はだいたい読まれるべきだと思う。

 そんな上野千鶴子さんも、確か今年度で大学生活を終えられるのかな……? 歴史の一区切りである。

それから僕が敬愛していた数少ないフェミニストの一人に竹村和子さんがいたのだが、竹村さんは2010年あたりに急に亡くなられてしまったのである。まだ50代半ばであったと思う。僕はとてもショックだった。これから竹村さんの大仕事がたくさん出て、「闘う理論派フェミニスト」として自分も勉強させてもらおうと思い始めていたばかりの頃だっただけに、残念の想いは強い。

 竹村さんはジュディス・バトラーの著作を積極的に翻訳されていた。『ジェンダー・トラブル』や、そのジェンダー・トラブルのスローガン、「性は社会的に構成されている」は一般人でも聞いたことがあるくらい有名だ。

 それから、何冊か地元の図書館にフェミニズム関連の著作をリクエストしているが、どうも先にあげた上野千鶴子さんや竹村和子さん、ジュディス・バトラーらに比肩するような大著・意欲作が無い気がする。なんとなく。

『キャリバンと魔女』をパラパラとめくっていると、海外文献のジェンダー論やフェミニズム研究は相変わらずコツコツとなされているようなので、そういう情報を集めていなかった自分に気付く。

今、上野千鶴子並に「性」についてアツく、しかし理論上においては誰よりも鋭く冷静に論を運んでいく研究者は、日本に何人いるのだろうか。『キャリバンと魔女』を読みながら、気分が乗ってくれば日本のフェミニストたちの近年の動きについても何らか知りたい気持ではある。

告解(詩)

「告解」

わたしは罪深い
大切な人を
ときには利用してしまえるほどの
矮小な 男だ
卑近な奴だ
卑怯だ
矛盾もたくさんある
弱い
正義ではない
あなたはとてもやさしい
美しい心 美しい目
あなたのように
願わくばすこしでも
ちかづきたいと思うのです

エメラルド(詩)

エメラルド

misty

海を見た、と君は言った
その海はエメラルド色の
静かで穏やかな波だったかい、
それとも、激しく、荒々しいうねりをあげる海だったかい
金色に輝いて、
どこまでも続く波の表面を潜ると、
全く知ることの無い海が広がって、
もっともっと、底へ
チョウチンアンコウシーラカンスが棲む深海へ
魚にはなれないけど、
鱗をもち、えら呼吸をして、
君のように自由に美しくこの世界を泳ぎ廻ってみたい
ねぇ、そこは、楽しいかい?
海を見たい、と僕は言った
エメラルド色に染まる大洋を、
いつ何時でも、眺めていたかった

上野俊哉『四つのエコロジー』 ガタリの思考、機械状、氾心論

上野俊哉さんの『四つのエコロジー フェリックス・ガタリの思考』(2016、河出書房新社)があまりに素晴らしいので、メモ書きをします。
哲学書というのは、もちろん素晴らしい概念や、見事な論証に息を巻くから面白いんだけど、どんな結論やテーマや論証過程であれ「面白い哲学書」の共通点は、読んでいると非常に脳に刺激を受け、全く違った視点を得たり、想像や思考が広がっていく、その爆発的なきっかえをもらえることにあると思います。頭の回転のエネルギーになるんですね。そういう意味でも哲学は、頭のまったく思いもよらぬトレーニング、使用法だと思います。
四つのエコロジー: フェリックス・ガタリの思考

 本書は全部で370頁くらいあって、僕はまだ110頁を読んだところだけど、読みやすさにも配慮されているし、次々と面白いことが書かれているのでメモさせて頂きます。
 タイトルの”四つのエコロジー”というのは、精神分析家にして社会活動家であったフェリックス・ガタリの『三つのエコロジー』の自然環境・社会・精神の3つのエコロジーに加え、「情報」という全く違った概念/観点に基づいてガタリの思想を補強ないし変奏する試みみたいです。詳しくは最後まで読んでみないと分からない。
 それでは今まで読んできたところで幾つか引用をします。

 そもそもガタリにとって、「実存的なもの」existential はすでに機械状、マシニックなものであり、決して機械論的な因果関係や決定論には左右されない。なぜ実存が機械状(マシニック)であるかと言えば、それはあらかじめ決定されたルールやコードからはみだして、様々な選択や決定を異質な要素の結合の可能性に開いていくのは、人間の意志や選択ではなく、機械状の組み合わせであるからだ。その担い手は人間のみならず、バクテリアや細菌、電子回路や工学機械、視聴覚装置にいたるまで何でも機械状の仕組みにはまりこんだものとしてとらえられる。機械が決定し、人間がしたがうと言ってるのではない。
(『四つのエコロジー』pp.95 赤字強調はみすてぃ)


 「実存」というと実存主義哲学のサルトルですが、上野はドゥルーズガタリサルトル実存主義的な哲学をもちろん尊敬はしていたものの、彼らの哲学的プロジェクトはそういった実存主義の問題点、限界を乗り越えることにあったとし、ガタリが使う「実存的(実在的)領土」を一般の意味=サルトル哲学的な意味の実存とは違うところに着目します。

 ガタリの思想においては、実存は決して人間の生(生きること)だけに特有のものではない。そもそも、ここで例に出されているように、人間の生も、バクテリアや細菌の生、さらには電子回路や工学機械の「存在」も、機械状 machinic なものであると捉えられます。普通、「機械」という概念は、機械(操られるもの)/人間(操るもの)、さらには機械(人工のもの)/自然(非人工)といった大きな二項対立で捉えられますが、ガタリはこの二項対立を拒絶し、例えば赤ん坊の口が母親の乳首を捉え、その乳は赤ん坊の尻の穴から出て便となり、その便は農夫によって畑にまかれて農作物の栄養になる、といった、人間や動物や自然や機械がつぎつぎにつながったり、切られたりといった円環の中で見えてくる、大きなシシステマティックなつながりのようなものを、「機械状」と捉えます。その観点からすると、人間の生も機械状の一つなのです。しかしこれは、補足されているように、決して機械状という一つの「神」のようなものが全ての意志を無視して必然的に支配し、したがって人間もその支配下に置かれているからすべて運命であるみたいな議論には全く関係ないということです。

 僕が例を出しましたが、赤ん坊の口が母親の乳首を含み~といった例は、ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』第一章に鮮烈な形で出てきます。とすると、このアイデアガタリの方にあったと言えるかもしれないですね(ガタリが多めにアイデアを出して、それをドゥルーズが哲学的にまとめ上げた)。

 ガタリがブラジルと日本に特別な愛着と関心を抱いていた理由の一つに、現代資本主義の文脈においてアミニズムを陰に陽に温存している社会という視点がある。日本には昔から「針供養」のように、普段慣れ親しみ、ときに酷使することのある道具を年に一度ねぎらうという仏教の儀礼がある。友人で写真家の港千尋に聞いたところでは「カメラ供養」まであるというのだから驚く。アニミズムに対する距離や親近性は、そのような普段のテクノロジーのつきあいのなかにも影を落としている。たとえば……(中略)……日々のメンテナンスや丁寧な扱いをしていないPCのハードディスクは壊れやすい、といった「ジンクス」を聞いたことがないだろうか?
(『四つのエコロジー』pp.101-102)

 たとえば、様々な表現文化(映画、小説、音楽……)においては、鑑賞者による一種の融即=分有 participation 、つまりは一種の「参加」が生じうる。そこで表象されるイメージや内容を前にしてはもはや受動的な観衆(オーディエンス)でいることはできない。受け手は鑑賞や読解によってすでに言表行為の集団的な仕組みの中に巻き込まれており、その受容のプロセスがまた作品やテクストを捕捉する。しかし、この代補こそが見かけ上の全体性、作者の権威を保証している。つまり作者もまた最終的な主権、権威を一つの「全体」としてはもちえない。
(『四つのエコロジー』pp.108)


 まず前者の引用について。アニミズムというのは、人間や動物、植物や鉱物に限らず全ての存在者に魂(アニマ)が備わっているという発想です。そして、大事なことは、人間が人間独自の思考様式や感情を持っているように、動物たちも、人間のようには考えておらず、彼ら独自の魂(アニマ)の様式を持っていると想定することで、”人間”という捉え方を安易に他の存在者に直接適用しないことです。これは他者をどう考えるか、他者とは誰か、他者を尊重するとは何か、という共生の問題につながってくる。
 しかし、上野さんがお話に出す、カメラ供養とかパソコンに愛着を覚えるとか、僕はバシッときました。僕は、今まで持っていたPCや愛用の自転車に勝手に名前をつけたりしていたのですが笑、アメリカやヨーロッパではまずそんなことはないそうです。 本当どうでもいいですが福岡で愛用していたママチャリにはAKB48の高橋みなみさんのシールを貼っていたので、「たかみな号」と命名していました笑

 後者の引用も、まさにそうと頷きました。例えばお笑いのM-1のネタ披露などは、観客の態度がとても大事です。松本仁志がよく「会場、もっと盛り上がったってぇ~」「めちゃめちゃ会場冷えきっとるやん!」と、決勝の舞台に入るお客さんの態度を気にしているように、芸人たちのネタの披露は、リアルタイムで観客のウケに反応し、盛りあがったら芸人たちも勢いづくし、なかなか笑ってくれなかったら芸人は焦って噛んだりするんです。それでますます面白くなくなってしまう。
 引用の例でいえば、たとえば笑い飯の「鳥人」というネタ(分からなかったらYoutubeで調べてくださいめちゃくちゃ面白いです)は観客の圧倒的なウケもあって、「100点」という最高点をもらったけど、決勝ネタの「チンポジ」で期待値を上げていた観客の心を台無しにしてしまって、その年の受賞を逃しました。
 また僕は良くテニスやサッカー観戦をするのですが、熱いサポーターの応援のあるなし、ホームの地での戦いかアウェーかということは、選手たちにとっても本当に非常に大事な要素になります。そういう意味で、芸人のネタや、プロ選手たちのスポーツも、観客の反応と融合して、一つの「場」を作り上げているのであり、決して観客なしには成立しえないのです。

 
 ちょっと最後は雑談めいた向きにもなってしまいましたが、この上野俊哉さんの『四つのエコロジー フェリックス・ガタリの思考』は本当にオススメです。是非買ったり、図書館にリクエストしてみてください。