Darkside Of The Moon
……がない。理念がない。パトスがない。希望がない。「僕らは今度こそ、希望の虚しい氾濫の中で溺死しそうです」*1。溢れすぎているようで、内容がない。中身がない。つまり、「無い」ことが当たり前になりすぎている。平気な顔で存在する。たとえば理念がないことは恥ずべきことだ。なのに平気で人々は表をねり歩く。「あなたは理念をお持ちですか?」「知ったことか、ああ?」こんなことはもう八十年も前から、いや一生続いているのだ。第二次世界大戦はいい例だった。椎名麟三の「深夜の酒宴」を見よ。あれと現代の何が違うのか。酩酊でもしないとやってられないのだ。世界はあるべき内容を欠いた。人間は人間たる規定を失った。動物的と呼ぶことすら動物に失礼だ。
人間の時代などとっくに終わった。近代の夢は夢で終わったのだ。今は何の時代だろうか。「……が無い」の時代か。
反文明
文明のスピードが速すぎる。ドゥルーズの研究者である千葉雅也が『動きすぎてはいけない』で書きつけた、国家―社会―個人の領域における接続の過剰はさらに加速している。よく考えてみよう。二、三十年前のSF小説のアイデアはむしろほとんど現実化されているではないか。これが現実か? と疑いたくなる。そこにはアクチュアリティ(現動性)が欠けているように感じられるのだ。
過剰の過剰と速度の加速度的上昇。それらに対し、我ら人間が半ば意図的に時代を錯誤し、混乱し、一時停止し、切断するのも当たり前である。むしろ、時代の錯誤を肯定的なものとして捉えたい。社会は闇の力によって動かされている。誰もその先を知ることはできないが、それが望ましくない方向にも向かっていることくらいは知っている(それに気付ける人も少なくなったことが哀れだが)。
反文明の流れはむしろ普遍的にあった。我らはレトロなどという虚飾めいた言葉でさらにそれが文明や資本主義のたった一つの部品に成り下がることを許すべきではない。我らは時代の先を知ることをできないが、時代の進行を一時停止させることくらいはできる。できるはずだ。
農作業をしてもいい。樹木を愛でてもいい。田舎に帰ってもいい。都市を捨ててもいい。携帯を捨ててもいい。ある時代に固執してもいい。酩酊してもいい。現代への酩酊。一時的な破滅。混沌。何かしらに抗うべきだ。でないと我らは既にあまりに支配されすぎている。支配されることに慣れ過ぎている。
ヘーゲル
この本を購入した。哲学書は高いしまず売れないから大型書店に行かないと買えないが、僕の甲斐性無さを1,2年発揮させた結果、ちゃんとした哲学書を購入したのは一年半年前のドゥルーズ『シネマ1』以来である。その間、デリダの「動物を追う、ゆえに私は動物である」もものすごく欲しかったのに見送ったし、購入を見送っていったい何冊図書館に高い哲学書を購入したことやら(倉敷中央図書館様いつも本当にありがとうございます)
そして、選んで買った哲学書は、やはりエネルギーが違うのである(個人的に) 買って良かった……。
ヘーゲルは、ドゥルーズをはじめやたらフランス現代思想が目の敵のように批判者として登場させるので、ドゥルーズ哲学に多大なシンパシーを受けてきた僕としてもやはりとっつきが悪い哲学者であった。それでも勉学の為に何かを読もうとしたのだが、重厚・難解・多作の3点揃い。
しかし、ヘーゲルの美学はかなり前から気になっていた。
この『美学講義』は今まで出版されている『美学』とは内容も異にする(それについては冒頭に詳しく説明されているので是非手にとって読んでみてください)、新しい内容みたいだ。しかし、訳者の功績もあってか、読みやすいと思う。決して超難解ということではなさそうだ。講義ゆえの良さかもしれない。
これを読むと、ヘーゲル著作の中でも定評のある『歴史哲学(講義)』が岩波文庫であるので、そのうち読むだろう。おそらくヘーゲルは世界や宇宙を広く見渡す能力というか力が歴代の中で一番優れているのであろう。と何となく直感で思う。
ヘーゲルの著作の中でもかなり手ごわいイメージとして定着しているのが『精神現象学』だろう。いい訳であるとお墨付きの中古本をもっているが、そうあっても難しい。ハイデガーやデリダも頻繁にこの書に言及しているが、これを後回しにしてもよさそうだ。
ヘーゲルやドゥルーズの文章を読んでいると、デリダやレヴィナスの良さを思い出す。レヴィナスやデリダも特に難解な哲学者として紹介されるが、その文章は確かに文学的に凝ったり、一筋縄で読めるようなものではなく、だからこそ書物として大変美しいのである。レヴィナスの著作なんてものは。
先人の偉大さというものを考えずにはいられない。先人はいつまで経っても超えられないくらいすごい。ヘーゲルくらいまで遡ってしまうともう誰も相手にすらしてくれない。それでもそんな時代の人の書物を新しい翻訳で、新しい装丁で読めるこの悦びが、古典の良さだと思う。
近況報告 大江健三郎、リョサ、英語
ブログタイトルを変えたいと思ったのだが、やり方が分からない。変更不可能なのだろうか。誰か分かる人いたら教えて欲しいです苦笑
文章を書くのも少し久しぶりである。ブログは1カ月ぶり。
3月末の各文芸誌の新人賞に作品を出そうとしていたのだが、土壇場でふんぎりがつかなくなり、結局諦めたことが大きい。新人賞の対象となる100枚作品を仕上げるのは僕には本当に大変なことだ。それよりも、50枚~100枚の作品が一つ、書きかけが一つあるので、そちらを進めながら、また100枚作品は優先順位を下げて(しかし書くことは書く)いこうと思っている。
最近は、隙間時間を見つけたら、英語のリスニングをやっている。といっても、iPodに入れた音声教材を繰り返し聞くだけ。
一通り聴いたかな、と思ったら、スクリプト(文章)を見て、分からなかった単語を調べ、間違えて聞こえていた箇所にマーカーをひき、文章を見ながら繰り返し聴き、そして音読。
音読は、夜間にやると人を起こすし、カフェとかでもやりづらいのだが、音読をやるとリピートしつづけた英語が少しでも身体の中に入ってくるような実感を得ることができる。
テイラー・スウィフト、レディ・ガガのインタビュー音声を経て、ベッカムの音声も一通り終わり、今はCNNエキスプレス4月号の残りの教材(中級)と、セレブ・インタビューからブリトニー・スピアーズかジョディ・フォスターをやっている。
さて、そんな中で最後に残った時間にちまちま読書をやっているのだが、今は大江健三郎の『懐かしい年への手紙』とバルガス・リョサの『緑の家』(岩波文庫、上下巻)を中心に読んでいる。
健三郎については、3月に『晩年様式集』を読み終えたのだが、これがまた曲者だった。非常に読みづらく、腹立たしく思わされるところもあり(笑)、しかしやはり最後まで読む気にさせられる作品だ。
大江の言う、「レイト・ワーク」(晩年の仕事)に位置付けられる一作品を読んだことになるわけだが、なんとなく大江が『燃え上がる緑の木』三部作以降の、不思議と一貫した作品を書き続けている姿勢が読みとれるのだが、これはもうチェンジリングとか『レイン・ツリーを聴く女たち』なんかも読まないと、分からないなと。しょうがないのである。当の『晩年様式集』に大江健三郎の作品とその作品に対する家族(女たち)からの応答・批判がもろに書かれているのだから……。ほんと変な作品である。だけど嫌いじゃない。でも読みにくいから一回読んだところでは60点くらいの読了感とした笑
バルガス・リョサは面白いねー。うん。実は、『緑の家』と『楽園への道』のペーパーバックも買ったんです笑 英語熱を上げようと思い。
『緑の家』はまだ読み途中なのであれだけど、読み終わったら、五月に河出文庫から『楽園の道』文庫版が出るらしいので、それ買って仕上げようかな。
あと、ポール・オースターも割と集中的に読んでいます。3月に発売された『冬の日誌』を読み終えて、やはり深い感銘を受けて、その対をなす作品であるところの『内面からの報告書』も今月のお給料貰ったら買います。
そして、前から持っていたペーパーバックの『City Of Glass: New York Torilogy』もめっちゃゆっくり読んでいるのですが、ガラスの街ってこんなに面白いんだなって感じてます。『冬の日誌』は作家オースターの半生が間接的に伝わってくるような作品なのですが、それを踏まえた上でガラスの街を読んでみるとまた違った発見がたくさんありそうです。
と、勢いよく書きましたが、現実には新しい仕事もはじまり、小説や英語以外にもストレスを発散させたり楽しみを見つけていくことに割と必死です。
黄桃缶詰の新しい雑誌が出せて良かった。これからみんなの作品を読んで、一周り先に帯文みたいなコメントを考えるつもりでありんす。
上野千鶴子に誰か続け
正式タイトルは『キャリバンと魔女――資本主義に抗する女性の身体』。タイトルから見ても分かる通り、本書はジェンダー論と資本主義論(政治経済学)を積極的に結び付けようとする野心作。主に17,18世紀にヨーロッパで行われた魔女狩りという事象を元に、何故魔女狩りは行われたか、魔女狩りが近世の始まりに起こったということの意義などを、広い観点から捉えることがキモ。マルクス主義、フェミニズム、フーコーという理論枠組みを検証・批判しつつという内容で、いろいろすごい。
昔、師事していた(というより研究室に乗り込んでたまに本や社会学のことについてべらべら話してもらっただけでもあるが)先生が、フェミニズム、ジェンダー論の研究所も持っていて、僕も当時偶然のきっかけでジェンダー論に興味を持ったことがあったので、それ以来この分野には薄く浅く興味を抱き続けている。そして、最近思うのは、フェミニズム論・ジェンダー学はちょっと寂しいのかな、ということだ。それは僕自身が、この分野を積極的に開拓しようとはしなくなっていることにも大いに関わっているが。
日本のフェミニズムということでまず名が挙がるのは上野千鶴子だと思う。それくらい彼女の存在意義は大きい。
上野さんの仕事は多岐にわたるが、著作で言うと『資本制と家父長制』は、ジェンダー論関係者だけでなく、広く資本主義研究、家父長制研究、社会学一般に興味が或る人に対して開かれている意欲作である。文庫にもなっていると思う。文庫になっている上野さんの本はだいたい読まれるべきだと思う。
そんな上野千鶴子さんも、確か今年度で大学生活を終えられるのかな……? 歴史の一区切りである。
それから僕が敬愛していた数少ないフェミニストの一人に竹村和子さんがいたのだが、竹村さんは2010年あたりに急に亡くなられてしまったのである。まだ50代半ばであったと思う。僕はとてもショックだった。これから竹村さんの大仕事がたくさん出て、「闘う理論派フェミニスト」として自分も勉強させてもらおうと思い始めていたばかりの頃だっただけに、残念の想いは強い。
竹村さんはジュディス・バトラーの著作を積極的に翻訳されていた。『ジェンダー・トラブル』や、そのジェンダー・トラブルのスローガン、「性は社会的に構成されている」は一般人でも聞いたことがあるくらい有名だ。
それから、何冊か地元の図書館にフェミニズム関連の著作をリクエストしているが、どうも先にあげた上野千鶴子さんや竹村和子さん、ジュディス・バトラーらに比肩するような大著・意欲作が無い気がする。なんとなく。
『キャリバンと魔女』をパラパラとめくっていると、海外文献のジェンダー論やフェミニズム研究は相変わらずコツコツとなされているようなので、そういう情報を集めていなかった自分に気付く。
今、上野千鶴子並に「性」についてアツく、しかし理論上においては誰よりも鋭く冷静に論を運んでいく研究者は、日本に何人いるのだろうか。『キャリバンと魔女』を読みながら、気分が乗ってくれば日本のフェミニストたちの近年の動きについても何らか知りたい気持ではある。
告解(詩)
「告解」
わたしは罪深い
大切な人を
ときには利用してしまえるほどの
矮小な 男だ
卑近な奴だ
卑怯だ
矛盾もたくさんある
弱い
正義ではない
あなたはとてもやさしい
美しい心 美しい目
あなたのように
願わくばすこしでも
ちかづきたいと思うのです