書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

花の美しさ――川端康成、THE NOVEMBERS

昨日書店で川端康成の『美しい日本の私』の冒頭を読んだら、

花は眠らないことに思い至って、驚いた。

というようなことが最初に書かれてあってものすごく惹かれた。
川端は、旅行の際などに部屋の窓から見える景色や活けてある花などを愛でるが、その花が人間や動物と違って眠らず昼夜咲きっぱなしであるということを思い、花の美しさがまた際立って見えたという。

この『美しい日本の私』は川端康成が日本人で初めてノーベル文学賞を受賞することになった際の国際スピーチを元にしていて、今回の事でやっと買えたのだが、それと同時に僕は日本のTHE NOVEMBERSというバンドのことを連想した。

ノーベンバーズは非常に花を重要視している。代表曲でありそれまでの思想的な総決算といってもいい「今日も生きたね」の中にも具体的に出てくるし、バンドのキーパーソンである小林佑介も普段の私生活から花に対する想いを口にしている。

 僕(筆者)はふだん花に対する美意識が低いので、川端の文章を読んだ時もそうだったが、かえって「花を美しいと感じることとはどういうことか?」という哲学的=根本的な問いの意識にも立ちかえることになった。

 ノーベンバーズは、小林祐介は「美しい」とストレートに口にするが、「美しい」という言葉は日常ではあまり出てくるものではない。反対に、それらが「綺麗」とか「可愛い」とか「形がスッキリしている」とか「均整のとれた」などと、様々な言葉に代わって出てくるというのが本当のところではないだろうか。 つまり、「美」とはまず概念であるように思われる。

 近年のノーベンバーズはますます自らの音楽の核となるワードを「美」や「美しい」というタームに集中させている感がある。僕はこれまで「美しい」を言葉として捉えていて、概念としてうまく捉えられていなかったので、時に荒れ狂う轟音を奏でたり、シャウトしたり、静かな佇まいであったりと姿を変えるノーベンバーズの音楽と「美」を微妙にひきつけて感じられなかった。

 しかし、概念としての「美」は、カントによると人間が持つ認識作用のうちの「判断力」の範囲にあたる。

カントは、哲学史上もっとも重要な書物の中において、人間の認識作用を大きく三つにわけて、さらにそれぞれを三つの書物として実際に刊行した。

1、理性 
2、実践理性
3、判断力

 1の「理性」は「知性」も含んでいる。つまり、物事が正しいか・間違っているかを判断し、導かれるべき方向に導くことのできる人間の人間たる力能である。

  ノーベンバーズの歌には、この「正しいか、間違っているか」という正・不正意識を反映した歌詞がたくさん出てくる。このことは注意しておいてよい。

2の実践理性は、(私見によれば)ほとんど道徳力のことである。人間社会の生活の中で、何がよくて、何が悪いかという、善悪を判別することのできる能力である。 この善悪意識についてもノーベンバーズが絶えずそれに触れていることもリスナーなら頷けるところだと思う。

 そして、2の「判断力」が趣味の範囲にあたり、美や快(同時に醜悪と不快)を判断する力能のことである。

 なぜノーベンバーズが「美」を自分たちの一番最重要のモチーフにあげるか。それはとりもなおさず、1の正・不正判断よりも、2の善悪判断よりも、何よりもこの美しい・美しくない、楽しい・楽しくない、快い、快くないという趣味判断を一番に掲げようではないかという決意表明のように僕には感じられるのだ。それが音楽の世界には出来るのである。いや、音楽を始めとしてそれが可能なのである。音楽を始めとすることによってのみ可能なのだといってもよい。

 何が正しくて、何が間違っているか、若しくは何が良くて、何が悪いか、現代社会では極めて分かりにくい。そのとき、自分の心を信じて、自分の心が100%楽しいと思えたり、綺麗だと思えるものを、何より大切にしていこうという大きなメッセージが僕はノーベンバーズの曲やライフスタイルを通して聴こえてくる。だからノーベンバーズは「美」を、美における狂気の中心を生きる愉しみを宣言するのだ。

 僕はまだ川端の『美しい日本の私』を読んでいない。「美しい日本」と川端が言う美しいがノーベンバーズの「美」とどこまで共鳴するかどうかは分からないが、彼らは決してそう遠くない処で自身の仕事を感じているのだ、と僕は思っている。

迫害される狂人たち――排除型社会

 まずはじめに、「一般人」というものは実在しない。それは計算されるもの、計算上の数学的な概念でしかない。ところが、法律やルールなどの《法》は、この一般人を全ての基準にして道路を作ったり労働法を整備する。だからこそ《法》なぞはやけっぱちな産物に過ぎないのであり、真実味を欠いているのだ。法律がつまらないのはそのためだ。

 一般人と反対に、「特異者」という者がいる。これは実在する。特異者は実に不可思議なワールドに包まれている。フーコーの(『狂気の歴史』の)例を思い起こそう…… 天才、てんかん者、酒飲み、片腕を亡くした人、阿片中毒者、太りすぎの人、片眼をなくした人……これらは全ていっしょくたにされて「阿呆船」に乗せられ大いなる監禁を甘受しなければならなかったのである! そう、彼らは「狂人」というスティグマを(社会権力によって!)押され、やがてある面では犯罪者として構成され監獄にぶちこまれたり、他方では精神に異常をきたした者として療養施設に監禁されたりしたのである。

 おわかりだろう。このとき、邪魔者を目の届きにくい所に隠し、「クリーンで健全な社会」を目指すというくそあほらしい環境型管理権力社会が誕生したのだ。

 それは現在でも続いている。たとえば喫煙者が最新の例だ。煙草の喫煙は長い歴史の中で文化として定着し、時には健康器具としてすら作用したこともあった。現在、煙草は喫煙者とともに抹殺されようとしている局面にある。

 煙草の発する煙はそれを受動する者にとって有害であるという説が、激しい科学論争を経た後に、定説として勝利をあげた(科学の授権)。そして、煙草撲滅運動という社会運動が起こった(人心のコントロール)。同じくらいに、今度は医者が禁煙を治療や相談という形で推進しはじめた(医学による授権)。 そして最終的に、《法》が制定され、喫煙者はお店の外や隅っこで小さく隔離される分煙制度が誕生した。

 今はその分煙制度も終わろうとしている。完全なる禁煙の施工である。いつの日か、煙草は大麻や脱法ハーブといった犯罪になってしまう闇商品へと変貌をとげざるしかないのだろうか……?

錦織全仏のこれまでの所感

 僕はテニス観戦が大好きです。本格的にみはじめるようになったのは、錦織選手が2015年の全仏オープンで優勝候補優勝候補と期待される中、ベスト8で地元のツォンガ選手と激しい試合を見たことがキッカケでした。

 この試合は激しいものでした。第二セットまで錦織はそれまでの順調な勝ちあがりが嘘のようにプレーに身が入らず、相手は地元ツォンガの一方ペース、会場はツォンガ一押しで圧倒的なアウェイ。そのとき、びっくりすることが起きました。テニス会場の一部の看板みたいなものが墜落したのです。墜落をうけた観客などもあって、とりあえず試合は一時中断。再開まで1時間半くらいあった気がします。

 まだテニスマッチがどういうものか全然分かっていなかった僕は、リポーターや解説者が「恵みの中断になるといいなぁ」みたいなことを言っていたのを覚えています。その通り、この中断の間、錦織選手はロッカールームに戻り、頼みの綱のマイケル・チャンコーチからアドバイスを受けて、もう一度頭の中を整理し直す機会が与えられたのです。

 試合は再開しました。まだセットはツォンガから見て2-0。あとツォンガが1セット取れば試合終了という第3セットでも錦織は苦しみました。しかし、なんとか相手を狂わせて見事に一セットもぎとったのです。
その後の第4セットは嘘のように錦織がツォンガを圧倒し、ツォンガはあれよあれよと不調になっていく。そして試合は2-2になって、ファイナルに突入します。
 錦織選手はファイナルセットの勝率がだんとつで高い、という実況者のアナウンスを聞いて、これはもしかしたら勝てるかもしれないと皆がおもいはじめる。流れは錦織にある。そして試合は……


 このゲームを最後まで見たとき、僕はテニスの恐ろしいほどの魅力を味わいました。そして、錦織をこれからずっと見て行こうと決めました。

 全仏はとにかく熱い。クレーコートは球が弾まなく、ラリーが続きやすい。そして、粘ったりしぶとい選手の方が結局激しいラリーを制する傾向があるのです。

 ツォンガと闘った2015年、結局錦織選手はベスト8でした。それでも素晴らしい結果です。日本人で全仏でベスト8にいった人など彼以外にいないのですから。 それから、錦織選手の全仏への熱い挑戦がはじまったといっても過言ではないのではないでしょうか。


 2016年は、4回戦、またしても地元フランスのガスケ選手との対戦でした。このときはガスケはむちゃくちゃ強かった。そして、ファイナルにいくこともなく、第4セットで試合はガスケの勝ちとなりました。


 一般に、四大大会で優勝するためには7試合を2週間のなかで闘わなければなりません。ただでさえロングラリーが続くので、一試合一試合はものすごく体力を要する試合になります。それでベスト8やベスト16(四回戦進出)を残す錦織がすごいのです。


 今年、3回戦で期待の若手の韓国のチョン・ヒョン選手とあたりました。チョン・ヒョンはストロークもパワフルで速く、それからコートカバーリングやドロップショットなどのテニスの才能も高い。必ず上にあがってくる選手です。しかし、錦織選手はファイナルまでいった末チョン・ヒョンを破りました。四回戦進出(ベスト16)です。
 

そしていよいよ昨日、ベスト8をかけて、クレーコートに強いベルダスコ選手との因縁の対決を果たしました。先日の放送中に松岡修造選手は、「今のベルダスコは彼のキャリアのなかで最もいい状態だ。間違いなくそう言えます」と言ってました。その通り、ベルダスコの勢いは本当に激しいものでした。ラリーがとにかく深いところに入る。ミスらない。びっくりしました。

 錦織選手は最悪にもこの日フィジカルが不調でした。チョン・ヒョンには勝ったが、さらに強いベルダスコを突破するためには、ベルダスコの深いショットをなんとか返し、そして鋭い攻撃でポイントをウワまらないといけないのに……。

 結果はどうなったでしょうか。 錦織はまた勝ちました。素晴らしいとしか言いようがありません。自身の不調を乗り越えたのです。

そして次は、去年の全米でベスト4をかけて死闘のなかの死闘を繰り広げ、しかも勝つにいたったマレーとのマッチ。錦織選手、ベルダスコとのマッチで燃え尽き症候群になってないといいけどなぁ……苦笑


 WOWWOWがあの伝説の選手兼ジョコビッチの一時的なコーチをしているアンドレ・アガシにインタビューをしてました。アガシは錦織について「彼はとにかくフィジカルをもっと鍛えるべきだ。怪我をしていては試合に勝ち進めないからね。もちろん彼の才能は認めているよ。頑張ってほしい」というようなことをコメントしていました。

 錦織選手はこれからも自分のフィジカル不調に悩まされるでしょう。 ハッキリ言って、トレーニングや肉体改造などの根本を変えた方がいいんじゃないかなーと僕には思えます。アガシのコメントは的確だと思います。

 だけど昨日のように、フィジカルが悪くてどんなに追い詰められても、最後に勝ってしまった錦織にはもう何と言えばいいのか……  

 錦織選手の全仏への挑戦はずっと続いて行きます。(終わり)

Darkside Of The Moon

 ……がない。理念がない。パトスがない。希望がない。「僕らは今度こそ、希望の虚しい氾濫の中で溺死しそうです」*1。溢れすぎているようで、内容がない。中身がない。つまり、「無い」ことが当たり前になりすぎている。平気な顔で存在する。たとえば理念がないことは恥ずべきことだ。なのに平気で人々は表をねり歩く。「あなたは理念をお持ちですか?」「知ったことか、ああ?」こんなことはもう八十年も前から、いや一生続いているのだ。第二次世界大戦はいい例だった。椎名麟三の「深夜の酒宴」を見よ。あれと現代の何が違うのか。酩酊でもしないとやってられないのだ。世界はあるべき内容を欠いた。人間は人間たる規定を失った。動物的と呼ぶことすら動物に失礼だ。
 人間の時代などとっくに終わった。近代の夢は夢で終わったのだ。今は何の時代だろうか。「……が無い」の時代か。

*1:大江健三郎「死者の奢り」

反文明

 文明のスピードが速すぎる。ドゥルーズの研究者である千葉雅也が『動きすぎてはいけない』で書きつけた、国家―社会―個人の領域における接続の過剰はさらに加速している。よく考えてみよう。二、三十年前のSF小説のアイデアはむしろほとんど現実化されているではないか。これが現実か? と疑いたくなる。そこにはアクチュアリティ(現動性)が欠けているように感じられるのだ。

 過剰の過剰と速度の加速度的上昇。それらに対し、我ら人間が半ば意図的に時代を錯誤し、混乱し、一時停止し、切断するのも当たり前である。むしろ、時代の錯誤を肯定的なものとして捉えたい。社会は闇の力によって動かされている。誰もその先を知ることはできないが、それが望ましくない方向にも向かっていることくらいは知っている(それに気付ける人も少なくなったことが哀れだが)。

 反文明の流れはむしろ普遍的にあった。我らはレトロなどという虚飾めいた言葉でさらにそれが文明や資本主義のたった一つの部品に成り下がることを許すべきではない。我らは時代の先を知ることをできないが、時代の進行を一時停止させることくらいはできる。できるはずだ。

 農作業をしてもいい。樹木を愛でてもいい。田舎に帰ってもいい。都市を捨ててもいい。携帯を捨ててもいい。ある時代に固執してもいい。酩酊してもいい。現代への酩酊。一時的な破滅。混沌。何かしらに抗うべきだ。でないと我らは既にあまりに支配されすぎている。支配されることに慣れ過ぎている。

ヘーゲル

美学講義 (叢書・ウニベルシタス)

この本を購入した。哲学書は高いしまず売れないから大型書店に行かないと買えないが、僕の甲斐性無さを1,2年発揮させた結果、ちゃんとした哲学書を購入したのは一年半年前のドゥルーズ『シネマ1』以来である。その間、デリダの「動物を追う、ゆえに私は動物である」もものすごく欲しかったのに見送ったし、購入を見送っていったい何冊図書館に高い哲学書を購入したことやら(倉敷中央図書館様いつも本当にありがとうございます)

 そして、選んで買った哲学書は、やはりエネルギーが違うのである(個人的に) 買って良かった……。

ヘーゲルは、ドゥルーズをはじめやたらフランス現代思想が目の敵のように批判者として登場させるので、ドゥルーズ哲学に多大なシンパシーを受けてきた僕としてもやはりとっつきが悪い哲学者であった。それでも勉学の為に何かを読もうとしたのだが、重厚・難解・多作の3点揃い。
しかし、ヘーゲルの美学はかなり前から気になっていた。
この『美学講義』は今まで出版されている『美学』とは内容も異にする(それについては冒頭に詳しく説明されているので是非手にとって読んでみてください)、新しい内容みたいだ。しかし、訳者の功績もあってか、読みやすいと思う。決して超難解ということではなさそうだ。講義ゆえの良さかもしれない。

これを読むと、ヘーゲル著作の中でも定評のある『歴史哲学(講義)』が岩波文庫であるので、そのうち読むだろう。おそらくヘーゲルは世界や宇宙を広く見渡す能力というか力が歴代の中で一番優れているのであろう。と何となく直感で思う。

 ヘーゲルの著作の中でもかなり手ごわいイメージとして定着しているのが『精神現象学』だろう。いい訳であるとお墨付きの中古本をもっているが、そうあっても難しい。ハイデガーデリダも頻繁にこの書に言及しているが、これを後回しにしてもよさそうだ。

 ヘーゲルドゥルーズの文章を読んでいると、デリダレヴィナスの良さを思い出す。レヴィナスデリダも特に難解な哲学者として紹介されるが、その文章は確かに文学的に凝ったり、一筋縄で読めるようなものではなく、だからこそ書物として大変美しいのである。レヴィナスの著作なんてものは。

先人の偉大さというものを考えずにはいられない。先人はいつまで経っても超えられないくらいすごい。ヘーゲルくらいまで遡ってしまうともう誰も相手にすらしてくれない。それでもそんな時代の人の書物を新しい翻訳で、新しい装丁で読めるこの悦びが、古典の良さだと思う。

近況報告 大江健三郎、リョサ、英語

ブログタイトルを変えたいと思ったのだが、やり方が分からない。変更不可能なのだろうか。誰か分かる人いたら教えて欲しいです苦笑

 文章を書くのも少し久しぶりである。ブログは1カ月ぶり。
3月末の各文芸誌の新人賞に作品を出そうとしていたのだが、土壇場でふんぎりがつかなくなり、結局諦めたことが大きい。新人賞の対象となる100枚作品を仕上げるのは僕には本当に大変なことだ。それよりも、50枚~100枚の作品が一つ、書きかけが一つあるので、そちらを進めながら、また100枚作品は優先順位を下げて(しかし書くことは書く)いこうと思っている。


 最近は、隙間時間を見つけたら、英語のリスニングをやっている。といっても、iPodに入れた音声教材を繰り返し聞くだけ。
一通り聴いたかな、と思ったら、スクリプト(文章)を見て、分からなかった単語を調べ、間違えて聞こえていた箇所にマーカーをひき、文章を見ながら繰り返し聴き、そして音読。

 音読は、夜間にやると人を起こすし、カフェとかでもやりづらいのだが、音読をやるとリピートしつづけた英語が少しでも身体の中に入ってくるような実感を得ることができる。
 テイラー・スウィフトレディ・ガガのインタビュー音声を経て、ベッカムの音声も一通り終わり、今はCNNエキスプレス4月号の残りの教材(中級)と、セレブ・インタビューからブリトニー・スピアーズジョディ・フォスターをやっている。

 さて、そんな中で最後に残った時間にちまちま読書をやっているのだが、今は大江健三郎の『懐かしい年への手紙』とバルガス・リョサの『緑の家』(岩波文庫、上下巻)を中心に読んでいる。
懐かしい年への手紙 (講談社文芸文庫)
緑の家(上) (岩波文庫)

 健三郎については、3月に『晩年様式集』を読み終えたのだが、これがまた曲者だった。非常に読みづらく、腹立たしく思わされるところもあり(笑)、しかしやはり最後まで読む気にさせられる作品だ。
 大江の言う、「レイト・ワーク」(晩年の仕事)に位置付けられる一作品を読んだことになるわけだが、なんとなく大江が『燃え上がる緑の木』三部作以降の、不思議と一貫した作品を書き続けている姿勢が読みとれるのだが、これはもうチェンジリングとか『レイン・ツリーを聴く女たち』なんかも読まないと、分からないなと。しょうがないのである。当の『晩年様式集』に大江健三郎の作品とその作品に対する家族(女たち)からの応答・批判がもろに書かれているのだから……。ほんと変な作品である。だけど嫌いじゃない。でも読みにくいから一回読んだところでは60点くらいの読了感とした笑

 バルガス・リョサは面白いねー。うん。実は、『緑の家』と『楽園への道』のペーパーバックも買ったんです笑 英語熱を上げようと思い。
『緑の家』はまだ読み途中なのであれだけど、読み終わったら、五月に河出文庫から『楽園の道』文庫版が出るらしいので、それ買って仕上げようかな。

 あと、ポール・オースターも割と集中的に読んでいます。3月に発売された『冬の日誌』を読み終えて、やはり深い感銘を受けて、その対をなす作品であるところの『内面からの報告書』も今月のお給料貰ったら買います。
 そして、前から持っていたペーパーバックの『City Of Glass: New York Torilogy』もめっちゃゆっくり読んでいるのですが、ガラスの街ってこんなに面白いんだなって感じてます。『冬の日誌』は作家オースターの半生が間接的に伝わってくるような作品なのですが、それを踏まえた上でガラスの街を読んでみるとまた違った発見がたくさんありそうです。

 と、勢いよく書きましたが、現実には新しい仕事もはじまり、小説や英語以外にもストレスを発散させたり楽しみを見つけていくことに割と必死です。

黄桃缶詰の新しい雑誌が出せて良かった。これからみんなの作品を読んで、一周り先に帯文みたいなコメントを考えるつもりでありんす。