書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

読書日記

ヴィクトル・ユゴーレ・ミゼラブル

まだ100Pほどでジャン・ヴァルジャンの過去の話の途中だけどのっけからずっと面白い。ユゴー作品は以前に『ノートル・ダム・ド・パリ』を途中まで読んでいて、話しの進め方の面白さ、登場人物の魅力がすごいことなど、素晴らしさは分かっていたが、『レ・ミゼラブル』はすでに想像以上に楽しい。

 僕は、改めて文学の知識というものがない。先日、とてもいいきっかけがあって、それから「文学に対する教養や前提知識を持っておくことは、古典の読書そのものをさらに奥深く面白くすることにつながる」ことに今になって気付きました(笑)

 今までほんと自由奔放に手当たり次第に古典やら現代小説やら読んでいたけど、ここにきて文学入門本を何冊かおさえておきたいとやと思いました。まずは僕の好きなフランス文学史からかな。

羽田圭介「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」
これは発売された当初から表紙ですごーく気になっていたし実際お金があったらとても買いたかった(図書館で借りて読んでいます)。羽田作品は「メタモルフォシス」を読んだのだけれど、このダーティな味わいは本作でも非常にいい方向に働いていると思う。

まだ全部読み終わってないのだが、ゾンビが街を浸食していくなかで日常を送っていく(いかざるをえない)たくさんの登場人物、という構造になっていて、日常と非日常の重なり具合がたまらない。
これはとても羽田さんに失礼かもしれないけど、文章が本当にきっちりきっちりしていて、完璧に計算の狂いなく構成されていて、僕にはとてもこういう書き方はできないと思った。素直にすげえって思わされた。

きっちり最後まで読みたく思います。

ヴァージニア・ウルフ灯台へ
 文章が綺麗。しかし、読みにくい。主人公のモノローグ。意識的に簡単には読めないようにしている(と思われる)。だが甘美。これはかなり特異な作品だなと思いました。同じ英文学のジョイスの『ユリシーズ』のことを考えました。ラムジイ夫人、ディーダラスといった英国風の登場人物の名前だけが類似点じゃない。 意識の流れ、読みにくさ、そういったものはこの両者に非常に共通しているなと素人は思います。 しっかし思ったよりもすっごく変わった作品だ。びっくりする。

哲学書はデリダの『哲学への権利2』などを読んでいます。けっこう読みやすいです。私見ですが、デリダの本にはアタリハズレがあるのでね……これは僕にとって当たりでした。 デリダブームが去年あたりからずっと続いていますが、ほんとこの人本書きすぎ。

闇は僕の袖口をひっぱって

闇は僕の袖口をひっぱって

自分への自信のなさというものはそら恐ろしい。僕はまたその景色を見ることになった。昨日。自信というものが消失していく。体という抜け殻は残るが、活力を送りこむための〈魂〉は荒廃している。
僕は昨日、静かに、狂おしいほど静かに流れる夜の闇の中で、低く、低く堕ちていった。底なし沼かどうかは分からなかった。僕からあらゆる自信が抜き取られていた。その結果どうなったか。僕は自分を殺してしまいたいと思った。「自殺したい……」というよりも、この憎むべき自己を抹殺したい、一部であれ、丸ごとであれ――そんな風に。
 ともあれ、自殺したいという気持ちほど辛く哀しいものはない。昨日はずっと眠れなかった。仮に眠ったとしても、諦めて眠ったとしても、問題は一つも解決しないと感じていた。寝て、朝起きて、御飯を食べて、図書館に行って、DVDを借りて、家に帰ってDVDを見て、寝て、という生活を過ごしている内に、またあのぐらつき、眩暈、それまで自分が立っていた場所が根本からえぐり取られる・えぐり取られてしまうといったような衝撃が襲ってくるだろう。そうに違いない。僕は何とか解決の糸口を見つけ出したかった。
 最初に思いついたのは、宗教への信仰だった。僕は仏教キリスト教に関心がある。とりわけヨーロッパ的な世界観のキリスト教は、やり方とお金の問題さえ無視すれば入信してもよいなどとも思い始めた。懺悔、告解というものをしてしまいたかった。これまで僕が為したありとあらゆる悪事、罪。憂鬱な僕は罪と罰の意識に強く拘束されていたのだ。僕はしかしこうも思った。懺悔をする。しかしそれで僕の罪は赦されるのだろうか? そして、僕の荒廃した魂は浄化されるのだろうか、と。そこが大いに疑問だった。最近の僕は哲学的な観点から神の存在(存在、もちろん実在ではない)を肯定しようと思いなしていたところだったが、その神様が僕を赦してくれるのか? そしてそのことで僕の魂が少しでも楽になったりするのか? そうはとても思えなかった。
 時刻は過ぎていった。Googleで近くの教会を幾つか調べたりもしたが、得たい情報は見つからなかった。やがてこの宗教入信という思いつきの発想もどうでもよくなった。依然として夜は深い。すると〈夜の闇〉が僕の服の袖を引っ張った。
「……お前は死んだほうがいいかもしれない……」 大きな口を横に広げたその〈夜の闇〉は僕にそう言っているように聞こえた。
「……そしたら楽になる。お前が死んだということで、少なからず人々がお前の死を悲しんでくれる……」

……そうなのか?

「……もしおまえが死んだら、私が死後に建てられるお前の墓まで連れて行ってやろう。お前の好きな花だって備えられているさ……」
〈夜の闇〉はひひひと低く笑った後、ようやく僕の服の袖口を放した。

「助けて!」とか、「救ってくれ!」とか、ミスチルの歌を聴きながら本当によく感じていた。痛みがあった。しかしもう忘れていた。高校生の頃だ。高校生の僕は、「助けてよ、この辛い気持を癒してよ!」とばかりにミスチルバンプの曲をずっと聴いていた。僕はあの頃の弱くてどうしようもなかった自分のことを懐かしく感じた。と同時に、今の状況はあの頃に非常に近くなっているということにも気付いていた。
 事実、僕は所在のない不安まるだしの高校生の頃の自分にほとんど戻っていた。僕は人前では明るく振舞っていたけど、弱さや痛みを日々抱え、結局それもあふれだしてしまった。そこから僕の精神病との闘いは始まった(まだ終わってもない)。
 自分に自信がないということ。それは、頼りになる筈の自分の能力やイメージが未だ確立されていないか、非常に曖昧なものになっているということだ。アイデンティティ不安。
一体どれくらいぶりだろう、こんなに何もかもに自信をなくしてしまったのは。
自信をなくしてしまった今の自分の無力さはもうどうにかするという類のものですらなかった。
怖ろしい夜よ。(続く)

花の美しさ――川端康成、THE NOVEMBERS

昨日書店で川端康成の『美しい日本の私』の冒頭を読んだら、

花は眠らないことに思い至って、驚いた。

というようなことが最初に書かれてあってものすごく惹かれた。
川端は、旅行の際などに部屋の窓から見える景色や活けてある花などを愛でるが、その花が人間や動物と違って眠らず昼夜咲きっぱなしであるということを思い、花の美しさがまた際立って見えたという。

この『美しい日本の私』は川端康成が日本人で初めてノーベル文学賞を受賞することになった際の国際スピーチを元にしていて、今回の事でやっと買えたのだが、それと同時に僕は日本のTHE NOVEMBERSというバンドのことを連想した。

ノーベンバーズは非常に花を重要視している。代表曲でありそれまでの思想的な総決算といってもいい「今日も生きたね」の中にも具体的に出てくるし、バンドのキーパーソンである小林佑介も普段の私生活から花に対する想いを口にしている。

 僕(筆者)はふだん花に対する美意識が低いので、川端の文章を読んだ時もそうだったが、かえって「花を美しいと感じることとはどういうことか?」という哲学的=根本的な問いの意識にも立ちかえることになった。

 ノーベンバーズは、小林祐介は「美しい」とストレートに口にするが、「美しい」という言葉は日常ではあまり出てくるものではない。反対に、それらが「綺麗」とか「可愛い」とか「形がスッキリしている」とか「均整のとれた」などと、様々な言葉に代わって出てくるというのが本当のところではないだろうか。 つまり、「美」とはまず概念であるように思われる。

 近年のノーベンバーズはますます自らの音楽の核となるワードを「美」や「美しい」というタームに集中させている感がある。僕はこれまで「美しい」を言葉として捉えていて、概念としてうまく捉えられていなかったので、時に荒れ狂う轟音を奏でたり、シャウトしたり、静かな佇まいであったりと姿を変えるノーベンバーズの音楽と「美」を微妙にひきつけて感じられなかった。

 しかし、概念としての「美」は、カントによると人間が持つ認識作用のうちの「判断力」の範囲にあたる。

カントは、哲学史上もっとも重要な書物の中において、人間の認識作用を大きく三つにわけて、さらにそれぞれを三つの書物として実際に刊行した。

1、理性 
2、実践理性
3、判断力

 1の「理性」は「知性」も含んでいる。つまり、物事が正しいか・間違っているかを判断し、導かれるべき方向に導くことのできる人間の人間たる力能である。

  ノーベンバーズの歌には、この「正しいか、間違っているか」という正・不正意識を反映した歌詞がたくさん出てくる。このことは注意しておいてよい。

2の実践理性は、(私見によれば)ほとんど道徳力のことである。人間社会の生活の中で、何がよくて、何が悪いかという、善悪を判別することのできる能力である。 この善悪意識についてもノーベンバーズが絶えずそれに触れていることもリスナーなら頷けるところだと思う。

 そして、2の「判断力」が趣味の範囲にあたり、美や快(同時に醜悪と不快)を判断する力能のことである。

 なぜノーベンバーズが「美」を自分たちの一番最重要のモチーフにあげるか。それはとりもなおさず、1の正・不正判断よりも、2の善悪判断よりも、何よりもこの美しい・美しくない、楽しい・楽しくない、快い、快くないという趣味判断を一番に掲げようではないかという決意表明のように僕には感じられるのだ。それが音楽の世界には出来るのである。いや、音楽を始めとしてそれが可能なのである。音楽を始めとすることによってのみ可能なのだといってもよい。

 何が正しくて、何が間違っているか、若しくは何が良くて、何が悪いか、現代社会では極めて分かりにくい。そのとき、自分の心を信じて、自分の心が100%楽しいと思えたり、綺麗だと思えるものを、何より大切にしていこうという大きなメッセージが僕はノーベンバーズの曲やライフスタイルを通して聴こえてくる。だからノーベンバーズは「美」を、美における狂気の中心を生きる愉しみを宣言するのだ。

 僕はまだ川端の『美しい日本の私』を読んでいない。「美しい日本」と川端が言う美しいがノーベンバーズの「美」とどこまで共鳴するかどうかは分からないが、彼らは決してそう遠くない処で自身の仕事を感じているのだ、と僕は思っている。

迫害される狂人たち――排除型社会

 まずはじめに、「一般人」というものは実在しない。それは計算されるもの、計算上の数学的な概念でしかない。ところが、法律やルールなどの《法》は、この一般人を全ての基準にして道路を作ったり労働法を整備する。だからこそ《法》なぞはやけっぱちな産物に過ぎないのであり、真実味を欠いているのだ。法律がつまらないのはそのためだ。

 一般人と反対に、「特異者」という者がいる。これは実在する。特異者は実に不可思議なワールドに包まれている。フーコーの(『狂気の歴史』の)例を思い起こそう…… 天才、てんかん者、酒飲み、片腕を亡くした人、阿片中毒者、太りすぎの人、片眼をなくした人……これらは全ていっしょくたにされて「阿呆船」に乗せられ大いなる監禁を甘受しなければならなかったのである! そう、彼らは「狂人」というスティグマを(社会権力によって!)押され、やがてある面では犯罪者として構成され監獄にぶちこまれたり、他方では精神に異常をきたした者として療養施設に監禁されたりしたのである。

 おわかりだろう。このとき、邪魔者を目の届きにくい所に隠し、「クリーンで健全な社会」を目指すというくそあほらしい環境型管理権力社会が誕生したのだ。

 それは現在でも続いている。たとえば喫煙者が最新の例だ。煙草の喫煙は長い歴史の中で文化として定着し、時には健康器具としてすら作用したこともあった。現在、煙草は喫煙者とともに抹殺されようとしている局面にある。

 煙草の発する煙はそれを受動する者にとって有害であるという説が、激しい科学論争を経た後に、定説として勝利をあげた(科学の授権)。そして、煙草撲滅運動という社会運動が起こった(人心のコントロール)。同じくらいに、今度は医者が禁煙を治療や相談という形で推進しはじめた(医学による授権)。 そして最終的に、《法》が制定され、喫煙者はお店の外や隅っこで小さく隔離される分煙制度が誕生した。

 今はその分煙制度も終わろうとしている。完全なる禁煙の施工である。いつの日か、煙草は大麻や脱法ハーブといった犯罪になってしまう闇商品へと変貌をとげざるしかないのだろうか……?

錦織全仏のこれまでの所感

 僕はテニス観戦が大好きです。本格的にみはじめるようになったのは、錦織選手が2015年の全仏オープンで優勝候補優勝候補と期待される中、ベスト8で地元のツォンガ選手と激しい試合を見たことがキッカケでした。

 この試合は激しいものでした。第二セットまで錦織はそれまでの順調な勝ちあがりが嘘のようにプレーに身が入らず、相手は地元ツォンガの一方ペース、会場はツォンガ一押しで圧倒的なアウェイ。そのとき、びっくりすることが起きました。テニス会場の一部の看板みたいなものが墜落したのです。墜落をうけた観客などもあって、とりあえず試合は一時中断。再開まで1時間半くらいあった気がします。

 まだテニスマッチがどういうものか全然分かっていなかった僕は、リポーターや解説者が「恵みの中断になるといいなぁ」みたいなことを言っていたのを覚えています。その通り、この中断の間、錦織選手はロッカールームに戻り、頼みの綱のマイケル・チャンコーチからアドバイスを受けて、もう一度頭の中を整理し直す機会が与えられたのです。

 試合は再開しました。まだセットはツォンガから見て2-0。あとツォンガが1セット取れば試合終了という第3セットでも錦織は苦しみました。しかし、なんとか相手を狂わせて見事に一セットもぎとったのです。
その後の第4セットは嘘のように錦織がツォンガを圧倒し、ツォンガはあれよあれよと不調になっていく。そして試合は2-2になって、ファイナルに突入します。
 錦織選手はファイナルセットの勝率がだんとつで高い、という実況者のアナウンスを聞いて、これはもしかしたら勝てるかもしれないと皆がおもいはじめる。流れは錦織にある。そして試合は……


 このゲームを最後まで見たとき、僕はテニスの恐ろしいほどの魅力を味わいました。そして、錦織をこれからずっと見て行こうと決めました。

 全仏はとにかく熱い。クレーコートは球が弾まなく、ラリーが続きやすい。そして、粘ったりしぶとい選手の方が結局激しいラリーを制する傾向があるのです。

 ツォンガと闘った2015年、結局錦織選手はベスト8でした。それでも素晴らしい結果です。日本人で全仏でベスト8にいった人など彼以外にいないのですから。 それから、錦織選手の全仏への熱い挑戦がはじまったといっても過言ではないのではないでしょうか。


 2016年は、4回戦、またしても地元フランスのガスケ選手との対戦でした。このときはガスケはむちゃくちゃ強かった。そして、ファイナルにいくこともなく、第4セットで試合はガスケの勝ちとなりました。


 一般に、四大大会で優勝するためには7試合を2週間のなかで闘わなければなりません。ただでさえロングラリーが続くので、一試合一試合はものすごく体力を要する試合になります。それでベスト8やベスト16(四回戦進出)を残す錦織がすごいのです。


 今年、3回戦で期待の若手の韓国のチョン・ヒョン選手とあたりました。チョン・ヒョンはストロークもパワフルで速く、それからコートカバーリングやドロップショットなどのテニスの才能も高い。必ず上にあがってくる選手です。しかし、錦織選手はファイナルまでいった末チョン・ヒョンを破りました。四回戦進出(ベスト16)です。
 

そしていよいよ昨日、ベスト8をかけて、クレーコートに強いベルダスコ選手との因縁の対決を果たしました。先日の放送中に松岡修造選手は、「今のベルダスコは彼のキャリアのなかで最もいい状態だ。間違いなくそう言えます」と言ってました。その通り、ベルダスコの勢いは本当に激しいものでした。ラリーがとにかく深いところに入る。ミスらない。びっくりしました。

 錦織選手は最悪にもこの日フィジカルが不調でした。チョン・ヒョンには勝ったが、さらに強いベルダスコを突破するためには、ベルダスコの深いショットをなんとか返し、そして鋭い攻撃でポイントをウワまらないといけないのに……。

 結果はどうなったでしょうか。 錦織はまた勝ちました。素晴らしいとしか言いようがありません。自身の不調を乗り越えたのです。

そして次は、去年の全米でベスト4をかけて死闘のなかの死闘を繰り広げ、しかも勝つにいたったマレーとのマッチ。錦織選手、ベルダスコとのマッチで燃え尽き症候群になってないといいけどなぁ……苦笑


 WOWWOWがあの伝説の選手兼ジョコビッチの一時的なコーチをしているアンドレ・アガシにインタビューをしてました。アガシは錦織について「彼はとにかくフィジカルをもっと鍛えるべきだ。怪我をしていては試合に勝ち進めないからね。もちろん彼の才能は認めているよ。頑張ってほしい」というようなことをコメントしていました。

 錦織選手はこれからも自分のフィジカル不調に悩まされるでしょう。 ハッキリ言って、トレーニングや肉体改造などの根本を変えた方がいいんじゃないかなーと僕には思えます。アガシのコメントは的確だと思います。

 だけど昨日のように、フィジカルが悪くてどんなに追い詰められても、最後に勝ってしまった錦織にはもう何と言えばいいのか……  

 錦織選手の全仏への挑戦はずっと続いて行きます。(終わり)

Darkside Of The Moon

 ……がない。理念がない。パトスがない。希望がない。「僕らは今度こそ、希望の虚しい氾濫の中で溺死しそうです」*1。溢れすぎているようで、内容がない。中身がない。つまり、「無い」ことが当たり前になりすぎている。平気な顔で存在する。たとえば理念がないことは恥ずべきことだ。なのに平気で人々は表をねり歩く。「あなたは理念をお持ちですか?」「知ったことか、ああ?」こんなことはもう八十年も前から、いや一生続いているのだ。第二次世界大戦はいい例だった。椎名麟三の「深夜の酒宴」を見よ。あれと現代の何が違うのか。酩酊でもしないとやってられないのだ。世界はあるべき内容を欠いた。人間は人間たる規定を失った。動物的と呼ぶことすら動物に失礼だ。
 人間の時代などとっくに終わった。近代の夢は夢で終わったのだ。今は何の時代だろうか。「……が無い」の時代か。

*1:大江健三郎「死者の奢り」

反文明

 文明のスピードが速すぎる。ドゥルーズの研究者である千葉雅也が『動きすぎてはいけない』で書きつけた、国家―社会―個人の領域における接続の過剰はさらに加速している。よく考えてみよう。二、三十年前のSF小説のアイデアはむしろほとんど現実化されているではないか。これが現実か? と疑いたくなる。そこにはアクチュアリティ(現動性)が欠けているように感じられるのだ。

 過剰の過剰と速度の加速度的上昇。それらに対し、我ら人間が半ば意図的に時代を錯誤し、混乱し、一時停止し、切断するのも当たり前である。むしろ、時代の錯誤を肯定的なものとして捉えたい。社会は闇の力によって動かされている。誰もその先を知ることはできないが、それが望ましくない方向にも向かっていることくらいは知っている(それに気付ける人も少なくなったことが哀れだが)。

 反文明の流れはむしろ普遍的にあった。我らはレトロなどという虚飾めいた言葉でさらにそれが文明や資本主義のたった一つの部品に成り下がることを許すべきではない。我らは時代の先を知ることをできないが、時代の進行を一時停止させることくらいはできる。できるはずだ。

 農作業をしてもいい。樹木を愛でてもいい。田舎に帰ってもいい。都市を捨ててもいい。携帯を捨ててもいい。ある時代に固執してもいい。酩酊してもいい。現代への酩酊。一時的な破滅。混沌。何かしらに抗うべきだ。でないと我らは既にあまりに支配されすぎている。支配されることに慣れ過ぎている。