書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

切っ先を突きつけろ(冒頭)

 俺はまず、自分の眼前に刃が突き立てられている状況を自分の精いっぱいの想像力で再現した。なぜなら俺はあきれるほどに弱く、死の「存在」というものにつねに怯えきっているからだ。俺は死ぬことが怖い。自分が死ぬイメージをうまくもてない。それに死ぬのは死ぬほど痛いだろう、つらいだろう。なにせ自分の親知らずを引っこ抜くときのあの信じがたい重圧にほとんど耐えられない! その恐ろしさといったら! だが親知らずを抜いただけでは人は死なん。死ぬことはもっと強大な痛みを共にするはずだ。俺は怖い。だから、刃が、ナイフがいきなり喉元につきつけられているという状況をとりあえず想像してみる。それはあり得ないことではないからだ。もちろん電車に撥ねられる一瞬前でもいいし、崖から足を一歩踏み出す前でもいいんだが、今回はもっとも死の恐怖のイメージを喚起するもの、刃のご登場だ。俺はほとんど先端恐怖症だし、何しろ刃というものは人や動物、命を殺すものだ。殺、伐。とりあえず殺されようとしているものとして俺を定立してみる。すると、どうだ、次の瞬時にとるべき行動……! 俺は怖い! 怖いから動く! 動く、どっちに⁉ そうだ、そうやるんだ、とりあえずつきつけられた刃を向こうにおいやるんだ、それは俺の右手をもってしても構わない。教訓Ⅰ:肉を切らせて骨を断つ。俺は俺の想像において突き付けられた刃を右手で握りしめ(瞬時に右手には紙をナイフでツツーと撫でるような柔らかいのに鋭い痛みと出血とが起きる)、ぐっと掴んで相手の方にせり出す。刃を遠ざける。これだけで俺は安全だ。刃は今や眼前から離れた。その間にまた考えなくてはならない。でもそれは二の次だ。なんなら凶器の刃はまだ血塗られた右手がしっかり握っている。それを己の武器とすることもできるだろう。教訓Ⅱ 自分にとっての凶器は、相手にとっての凶器でもある。今回はこれくらいだ。死の(恐怖の)試練、思考実験。

菅原孝標女『更級日記』(ビギナーズクラシック)——日本日記文学の金字塔

更級日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

更級日記 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス)

 その夜は、「くろとの浜」といふ所にとまる。片つ方はひろ山なる所の、砂子はるばると白きに、松原茂りて、月いみじう明かきに、風の音もいみじう心ぼそし。人々をかしがりて歌よみなどするに、
   まどろまじ今宵ならではいつか見むくろとの浜の秋の夜の月

対訳:その夜は「黒戸の浜」というところに泊まります。そこは片側が広々とした砂丘になっている所で、砂がはるか遠くまで白く続いています。彼方には松原が茂り、そのうえ月があたりをとても明るく照らし出し、風の音もしんみりと心細く聞こえます。人々はこの風景に心を動かされて歌をよんだりするので、私も
 「今晩は決してうとうとまどろんだりしません。今宵を逃したら、いったいいつ見ることができるでしょう。こんなに美しい黒戸の浜の秋の夜の月を」
とよみました。
——菅原孝標女、川村裕子編『更級日記』(角川ソフィア文庫、ビギナーズ・クラシック)pp22-23

 これは大変面白かった。今読んでも、主人公の菅原孝標女菅原孝標の娘ということ)にすごく共感できるし、描かれている人生の甘酸っぱい所も強烈に残酷な所も、本当に現代の純文学と比較してもまったくひけをとらない。それくらい面白かった。

記事の冒頭の引用でも分かるように、まず主人公の自然風景に対する繊細な感覚がすごい。そして、はるばるとつならっている砂丘の白さ、緑の松原の生い茂り、そしてそれらを月が明々と照らす。風の音だけが小さく聞こえる…… こんな「風景」があったのか、いや主人公の眼前には確かにあったのだと、たしょう日本をノスタルジックに想起するきっかけさえ読者に与えてくれる。そして、その場ですぐに気の効いた和歌を詠むのも古代人ならではだ。

 主人公の菅原孝標女は、『源氏物語』とその登場人物たちに大夢中。お気に入りは光源氏と浮舟。源氏物語に出てくるような、特に浮舟のような女性になりたいと幼き頃の主人公は思いながら旅をする。
 あまりにも『源氏物語』や他の巻物ばっかり家で読んでいたせいで、お経を唱えるだとか宮仕えだとか、そういう社会的な奉仕をするのに少しだけで遅れるけど、優しい夫と結婚してからは若き頃の不出来を恥じ、家族の為に、自分の人生のために、強く生きていこうとする。だけど、それは歳月の経過とともに、また彼女の繊細な心の移り変わりとともに、変化していく……。

 『更級日記』は、夢がものすごく出てくる。夢の内容で、良い夢と不吉な夢が現実に与える影響が大きく異なってくるのだ。まさに菅原孝標女の人生も夢に翻弄される。南米文学やカフカマジックリアリズムシュルレアリスムを持ち出す前に、そもそも1000年ごろの日本がマジックリアリズムであったのだとおもわず言いたくなるほどだ。 ちなみに、夢がこんなにも出てくる作品は『更級日記』をおいてほかにもないという事です。

 最後に、何回か登場する、菅原孝標女の情緒を完璧なまでに美しく惹きつける、遊女たちのシーンを引用します。

さるべきやうありて、秋ごろ和泉に下るに、淀といふよりして、道のほどのをかしうあはれなること、言ひつくすべうもあらず。高浜といふ所にとどまりたる夜、いと暗きに、夜いたう更けて、船の梶の音きこゆ。問ふなれば、遊女の来たるなりけり。人々興じて、舟にさし着けさせたり。遠き火の光に、単衣の袖長やかに、扇さし隠して、歌うたひたる、いとあはれに見ゆ。

対訳:ちゃんとした理由があって、秋のことに和泉に下りました。淀という所から船旅となり、旅の途中で出会う景色がすばらしく、心を動かされることといったらとても言葉では言い尽くすことができません。高浜というところに泊まった夜、真っ暗で、そのうえ夜がとっぷりとふけてから、船の舵の音が響いてきます。供人の誰かがその船に乗っているのが誰なのか尋ねている様子でしたが、なんと遊女がやってきたのでした。人々は面白がって遊女の船をこちらの船に着けさせます。遠い灯火の光に照らされて、遊女が単衣の袖を長々と下げ、扇をかざして顔を隠しながら歌を歌っている姿は、せつないまでに美しく見えるのです。
——菅原孝標女更級日記』pp178-9

【哲学】竹田青嗣の哲学について——ニーチェ論

 昨年(2017年10月あたりだろうか)、哲学者であり評論家の竹田青嗣さんの主著と呼ばれるであろう様な大作が書店に登場した。

欲望論 第1巻「意味」の原理論

欲望論 第1巻「意味」の原理論

一冊が600頁を超えるほどの大作の、二巻本である。タイトルは『欲望論 第1巻「意味」の原理論』、そして『欲望論 第2巻「価値」の原理論』。非常にシンプルなタイトル付で、そして「意味の原理論」と「価値の原理論」というサブタイトルからも分かるようにかなり体系立てられて章目構成をなしている。これは、竹田先生、ある種の真理に到達=解脱しちゃったのか!? と思うくらいの、大々的な事件であるように僕は思った。が、世間の反応はイマイチというか、数少ない評者が褒めたたえているが、あとはこんな大作を誰が真面目に読むものかと腹を決めているのか、これだけの「真面目な」哲学体系書に対する著名批評家の反応はあまり聞かれてこない。

さて、僕は現在第1巻の500頁くらいのところまでちまちま読んでいるのだが、叙述がニーチェアフォリズム形式を意識されているのかワンセンテンスで区切れていて非常に読みやすい。だけど、言っていることは大まじめにすごいことだよなぁと思わされる、何より著者の「覚悟の具合」を生で体感できるかのような作りである。

 細かい議論については省く。というのも、竹田さんは繰り返しが多いので、その繰り返されている記述こそがキモであることが一目瞭然だから分かりやすい。

 竹田青嗣の『欲望論』の(少なくとも第1巻)骨子は、ニーチェの救いだし=掬い出しとフッサール批判と継受の2つにあると僕には思われる。

 竹田青嗣現象学、ことにフッサールハイデガー現象学に対して敏感なのは、彼が出しているたくさんの新著内容からも伺える。
しかし、フッサール批判と発展という課題以上に大事なのがニーチェなのである。 僕は、恥ずかしながら竹田青嗣ニーチェを(古代から近代のあらゆる哲学者の中で唯一”救う”に値する哲学者であると)推していることを、僕は『欲望論』を読むまで知らなかった。

 こんな偶然もあろうかという具合で、さきほどチェーンの古本屋に行ったら、なんとこの本が100円を切る値段で売られているのではないか。なんということだ。

ニーチェ入門 (ちくま新書)

ニーチェ入門 (ちくま新書)

 僕は、ニーチェを『ツァラトゥストラ』の名訳で読むことでなんとか入門したつもりで、その後ちくま文庫から出ているニーチェ全集の幾つかの本を頑張って買ったのだが、これがこれが本当にむずかしい。 『人間的な、あまりに人間的なⅠ』、Ⅱ、『曙光』など。難しさの感じというのが、フーコーの博覧強記のようで難しいというより、使ってある言葉や単語はそこまで難しくもないのに、文章として読むといったい何をいわんとしているのかサッパリ伝わってこないのである。だから僕は半ばあきらめて『人間的な』などの著作をある種の散文詩として怠惰に読むことすらしていたのだが、この竹田先生の『ニーチェ入門』をぱらっとめくっただけでもなかなか適切な位置まで連れて行ってくれそうな本である。

 竹田青嗣は日本現代思想界隈の中でも脇役のようになってしまっているんだと思うけど、一人のにほんの哲学者の出した本をある程度まとまって読むと、たとえばドゥルーズだとか、カントだとか、なじみのある日本語で新鮮なアプローチをすることにつながるのではないか、と実体験からも思うこの頃です。とりあえず、ニーチェ全集いったんやめて、また入門レベルに戻ります笑  

misty

キャントユーセレブレイト?(短編)

 エッセイと小説の中間のような書き物です。ご感想、批判、ぜひお待ちしています!


CAN’T YOU CELEBRATE?
misty

 僕と安室奈美恵の人生は一ミリたりとも交わらなかった。僕は安室奈美恵という輝ける実在から何一つ影響を受けなかったし、何物も授かることもなかった。一九九〇年代の彼女の活躍は、ブラウン管を通して僕の生活圏にもちょこちょこ入っていた。あれは僕が何歳の頃だろう、安室奈美恵NHK紅白歌合戦に出場していて、大ヒット曲の「CAN YOU CELEBRATE?」を披露する番になって、花嫁と花婿が歩くウェンディングロードを模した豪華なセットの舞台に立ちながら、彼女は涙をこぼしていた……「こいつ、歌わんで泣いとる! はよ歌え!」と皮肉交じりに僕の親父が怒っているのか嘲笑しているのかどちらとも取れない乱れた情緒を放っていた。僕と親父と妹はちんまりとした食卓を囲み、親父の得意料理の「アジの開き、揚げと大根の味噌汁、白飯」という貧祖だけれど温かみのある食事を取っていたと思う。母親は精神を崩し入院したっきりだった。金髪の安室奈美恵。僕にとって当時の彼女はそれ以上でもそれ以下でもなかった。
 むしろ、二〇〇〇年代に入って彼女が音楽活動を再開してからのほうが、安室奈美恵という実在をよく知れるきっかけにはなった。圧倒的な支持を得た当時の浜崎あゆみ中島美嘉の「歌姫バラード」路線からは一線を画し、MVもスタイリッシュでダンスビートの効いたR&Bなど、クールなカッコよさが目立つ楽曲をリリースしていた。しかし、高校生や大学生の頃の僕はロック・ミュージック一筋、幅が広がったところでアイドルソングという元々が陳腐な領域の中での趣味で、安室奈美恵やプラチナ期のモーニング娘。の良さに気付けるほど聡明でも貪欲でもなかった。
 僕にとって安室奈美恵は、地球の反対側よりも遠い存在だ。彼女が美しくスタイリッシュでカリスマ的であることは分かるのだが、それだけだった。だから彼女の存在は、惑星とか土星とかいったものに近いのかもしれない。地球外=宇宙の事物。しかし、日本人は安室奈美恵を愛してきたとして、いやいやそれは間違いだ! と声を大にして言える人もなかなかいないだろう。僕は安室奈美恵という存在をいつも損なってきた。
 仮に、人ひとりが生きる上での世界の総価値を100とおいてみよう。厳密な意味合いにおいて、たとえば「私は酒とタバコと女によって構成されている」という人がいるのだとすれば、その人(100)=酒(33)+タバコ(33)+女(34)といった定式が仮に導き出される。これは極端な例だが、要するに「私/僕の人生はこの瞬間に凝縮されていると言っていい」とまで言えるほど幸福の中に至れる体験、趣味、嗜好の比重によって100の構成の仕方が変わってくるということだ。
 僕の趣味嗜好、幸福や勝利感の中に至れる体験は……と語るよりまず何より、僕は安室奈美恵という輝ける存在を完璧に損なっている、という出発点を大事にしたい。そういう意味では、僕の人生の総価値は、(100―安室奈美恵)と上限が決定されてしまっているのだ。たとえば「私は安室ちゃんの為に生きている!」と純粋に言えるファンが居たとしよう。その人にとっては、人生の総価値(100)=安室奈美恵、したがって安室奈美恵の数値化された価値は100なのだ。安室ちゃんが全て! という価値表明を取っている人は、安室奈美恵の良さが一ミリも共有できない僕の事なんか、まさにゼロなのだ! なぜなら僕の人生の総価値は、(100―安室奈美恵)、ここで安室奈美恵の数値化された価値を100とすれば僕の人生の総価値は計算通り100―100=0、となるわけなのだから。
 安室奈美恵は本当に客観的に個人一人の人生の総価値の上限を低めるほどの価値なのか?という反論もあるだろう。しかし、僕は自分の直観において、自分の人生に足りていないもの、自分というちっぽけな存在がちっぽけな存在のままであり、低い理解力、低い人間性のままの自分なのは、要するに安室奈美恵という人を全く理解できていない例に現れているのではないか、と考えているのだ。前述の通り、僕にとって安室奈美恵は地球の反対側よりも遠い存在だ。でも、その彼女の美しさや輝きの理由は何となく分かる気がする。それでもピンとこない。ここに、僕という人間性の徹底的なまでの限界があらわれているような気がするのだ。そこまで気付いて僕は必死に仮に得られた定式をノートに書き込む。
   僕の人生の総量=100―安室奈美恵
すると猫のきーちゃんが現れた。きーちゃん、ないしきーは僕の実家のペットである。毛並みが黄色だから「きー」という単純な理由だが、この猫は少し体重が重く、オスなのだが、のんびりというかぷっくりしていて可愛らしい。僕はきーのふさふさした喉を撫でた。ニャーと鳴く。ちなみに、我が家の猫たちはちょっとした秘密があって、みんな化け猫なのだ。だからという訳でもないが、化け猫のきーちゃんたちとはたまに会話を交わすことができる。今は僕がノートに色濃く書きつけた「僕の人生の総量=100―安室奈美恵」という文字をじーっと見て、何か言いたげな様子。僕は仕方ないのでこの定式の意味を簡単に説明することにした。
 「あのね、きーちゃん、自分の人生の幸せな部分、良いと思える部分の全てを足したものを100だと考えるの。例えば僕は、お寿司を食べるといつも幸せな気持ちになれる。僕の彼女は焼き肉を食べるのがいつも幸せだと言うけれど、僕はあまり賛成じゃないな。こういうとき、お寿司は20ぐらいの価値があって、焼き肉は0、つまり人生の総量には貢献してないというわけ」
 ニャーンと小さく喉を鳴らしたあと、きーは少しだけ眼を見開いて(僕はいつもこの瞬間が怖い)、喉から言葉が喋ることができる状態にまで素早く変態をとげた。まぁただの顔が大きい不気味な猫なのだが。
 「うーん、分かるような分からないような……それで、この『100-安室奈美恵』っていうのはなぁに?」
 「あぁそれはねぇ、つまり僕は安室奈美恵という人の価値が全然分かってないんだ。でもそのことで僕は人生そのものを少し失っている気がする。それで、僕の人生の総価値が100だとして、僕は安室奈美恵という絶対的な人の価値を全く共有できない、損なっているわけだから、僕の人生はもともと100から安室奈美恵を引いたものなんだ」
 「……ますます分からない。初郎兄ちゃん頭おかしい」
 「そりゃあひどいよ」
 「安室奈美恵って人が誰だか分からない。あれ、お兄ちゃんが最近うるさい、テレビの広瀬すずって人?」
 「うぅん、まぁそうだね、テレビの人だよ」猫はテレビに興味はない。
 「ぼくは広瀬すず安室奈美恵も全く興味ないな。猫はねぇ、人間にはほとんど興味ないんだよ。分かる?」
 「知ってる」
 「ぼくはねぇ、カツオブシと牛乳が大好き。魚! 魚魚魚!! 大好きだよ。あとお母さんも大好きだね。あとはねぇ、お昼寝だね。雨は嫌いだよ。お風呂なんて大嫌いだよ。まぁ、そんな感じで言うと、僕の人生は、カツオブシと牛乳と魚とお母さんとお昼寝でできているのかな」
 「じゃあ、

きーの人生の総量(100)=カツオブシ(20)+牛乳(10)+魚(30)+死んだお母さん(20)+お昼寝(20)

って感じなのかな? きーは本当にお母さんが大好きだもんねぇ」
 「今でもね、お昼寝でよく見るんだよ、お母さんがいた頃のぼくたち兄弟が競ってお母さんのお乳を飲んでいた頃」
 きーはそう言うと、また一つ幸せそうな顔をし、ちょっとあくびをしたあと、くたびれたらしく元の顔の大きさに戻って僕の手を離れた。(僕はお昼寝をしてくるよ)と多分言っている。きーは元の可愛いぽってりとした普通の猫のサイズになって、長くはない尻尾を振って、部屋を出ていった。

後日談。
 僕が自分の人生と安室奈美恵と猫(きーちゃん)の猫生についての話を僕の彼女の桃にしたところ、だいたい次のような話になった。私(桃)は安室ちゃんが好きだけど、そこまで世代でもないしな。でも良さは分かる。そういう意味では、うーんどうだろ、安室ちゃんは私の人生に含まれているのかな……含まれていないのかな……。でもね、話を聞いてやっぱり一番に思うのは、自分の人生から大切な存在みたいな人を引き算なんてすること、あまり正しくないと思うよ。きーちゃんのように、自分の好きなものをたくさん挙げていってそれを足し算するって考え方そのままでいいじゃない! 初郎は無駄に多趣味なんだしさぁ。そういえば、あんたは最近広瀬すずにぞっこんだけど、すずちゃんは初郎の人生に含まれているの? 含まれているの?! どれくらい? 5? 10? 20? 私は入ってるの、当然入ってるよね? すずちゃんが入ってて私が入ってないなんて考えてたら、もうしらないからね。はい、安室奈美恵問題はお終い! 早くお風呂にでも入ってきなさい。
……(了)

潮騒(1)

 Eは海岸沿いを歩いていた。海を眺めに来ていた。
海上はきらめく。時刻は昼下がりで、太陽は完璧にも似た灯を放って水上の銀波を操っていた。Eはしかし物思いに耽っていた。Eは一つの絵画のことを考えていた。エドワルド・ムンクのかの有名な「叫び」についてだ。それは「叫び」についての学術的な考察といったものではなく、何年か前に東京の美術館で開催されていたムンク展にEが行ったときの実際の「叫び」の生の絵がEに与える反省についてのものだった。「叫び」の絵画で読み取れる要素はそんなに多くない。鑑賞者はまず両手を頭のそれぞれの側面にぴっとりつけている奇妙な男性えあしき人物に注意がいく。これは私だ、と鑑賞者自身の意識に強く訴えかけるほどの衝撃である。この人物は絵の中心にあるわけではない。中心から少し右に逸れた位置にいる。この人物は橋の上にいて、橋の向こうにはこの発狂する人物に向かって歩いてくる二人組、帽子をかぶった紳士の連れか夫婦の影が見える。空は赤く染まり、強いうねりを形成している。湖面はゴッホの色遣いのように黄色く光っている。Eは何よりも素直にこの絵と対峙し、この発狂しかかっている人物は私だと「仮定の上で」思いこんだ。何よりも、この人物が右にずれていることで鑑賞者は「発狂しかかる人物」から他の景色へと注意がいくので、いわば「私が発狂しかかっている」のは他の景色の「影響を受けて」かあるいは「発狂しかかる私」が見る景色はこのように(二人組の棒のような影、赤い空のうねり、黄色く光る湖面)映るのだという風に、発狂しかかる私と景色との強い関連性があることに気付くのだ。Eはとりあえずこの人物の心中を一言で答えよと問われたら「実存的不安」か「狂気」以外のなにものでもないと思った。しかし、「叫び」のテーマが「実存的不安」であるわけではないだろう、とEは考えた。つまり、この人物はもうすでに狂っているのであり、橋と湖面も自然にこのように見えてしまう。「実存的狂気から眺めた橋と湖」としての景色を「叫び」は描いているのではないだろうか。理性から狂気に陥る過程としての不安ではなく、すでに狂気に陥った者としての日常風景……Eはもうこのときすでに絵の中にいた。十分長く居座っていたのだ。
 Eが東京に居た頃長く付き合っていた女性がいる。その女性は一緒に訪れたムンク展の目玉の「叫び」の絵の前で丹念に何分も時間をかけて鑑賞しているEを見て、興ざめした。なぜならその女性にとっては「叫び」は得体のしれない気味の悪い絵としか映らなかったからである。Eは「叫び」を堪能しながらにやにやと微笑することすらあった。冷めた女性の視線に気付いてEははっとした。ムンク展を出たあと、二人はこざっぱりとした喫茶店に入ったが、二人の会話はおのずと重く、口数も少なく、やがて怠惰なだけのものに成り下がっていった。女性との決定的な亀裂が生じたのはあのときだったとEは思った。僕が「叫び」を見てあの人物は僕だと思ったこと、そして狂気の中にいるならば景色はこんな風に感じられて当然で、理性の介在することのないこの心地は何とも自由で美しくあるか、と思ったこと。

「死ね」という言葉の新しい時代性

 若い人が簡単に発する「死ね」という言葉の肯定性を私は見ている。「死ね」という言葉は普通は否定的に捉えられるからだ。しかし、現実に「死ね」という言葉やセリフはこの世界にありとあらゆるほど表象している。これは、否定的な死ねだけではないということだ。肯定的な「死ね」があるわけではないが、これほどスムーズな死ねが出る文化背景があるのである。

 まったく違う方向から話を進めていく。「もったいない」という世界にも伝わっている言葉がある。もったいないという言葉ないし概念をより大切に使いそうなのは年齢が上の世代であろう。実際そう思う。この「もったいない」というのは、明らかにある時代に結びついている。すなわち、第二次世界大戦前後の頃である。日本は戦争に敗れ物質的に貧しいところからスタートしなければならなかった。モノは非常に大切だった。かようなところで、茶碗にご飯一粒でも残っていたら「もったいない」と言って大事にその一粒を食べる、おてんとうさまのお恵みなのだから、というのは非常に分かる話である。

 ところで、現代ではモノが溢れかえっている。溢れかえっているのはモノだけではない。ヒトも、モノも、それから情報もである。現代は「過剰の時代」である。接続過剰であるという時代診断を下した哲学者の千葉雅也がいるが、現代は端的に「過剰の時代」なのだ。

 あらゆるところにモノや情報が溢れかえっている(それこそ無限に近い)。 しかし、人間の処理能力は限られている。そんなにモノが買えない。そんなに情報が把握できない。そもそも、何を買えばいいのかわからない。何を信じていいのかわからない。何が大事で何が大事でないか分からない。

 おそらく、「死ね」という端的な言葉は、こういった過剰な時代に対する一つの「NO!」なのである。情報入らない、モノもいらない、というより勘弁してくれ、過剰が過剰になっていることに対する警告。危機感。ヒトが増えすぎている。モノが増えすぎている。情報が錯綜している。そういったものに対する、過剰への警告が「死ね」の文化的な背景なのだ。

 僕は、2010年代にあった映画「悪の教典」で、人をあんなにスムーズに楽しそうに殺すシーンを見て、非常に衝撃を受けた。あれも時代なのだ。ショックだったというわけではない。確かに少しショッキングな演出ではあるが、あれも、「過剰の時代」、特に人の過剰、精神病の過剰、障害の過剰、政治的問題の過剰に対する「いらない!死ね!」という心理・精神が多かれ少なかれ働いていると思えないだろうか?

 「死ね!」は、ある意味「もったいない」の反義語である。 物質的に貧しかった時代には、「もったいない」ということがいえた。今や物質のみならず、ありとあらゆるものが豊富どころか過剰に存在する時代に、その存在を消去していく方向は必ずや叫ばれるのだ。端的に「死ね!」と。お前ら、この時代に対して、何も言えねぇのか?と。

 僕はそういったものをとても力強く感じる。言葉の表面上の綺麗さなどは僕からすればどうでもいいのだ。

圧倒的に面白いと思った小説20選

29歳の僕は、24歳のときに文学に再びハマりました。のんべんだらりと読んできた24年間と、積読がこんなにたまるなんて!と思った5年間の読書歴の中から20作品選んでみようと思います。

1、フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

夜の果てへの旅〈上〉 (中公文庫)

セリーヌといえば「……」の文体で僕もスッカリやられちゃっているが、「旅」のはじめのほうはまだあまり「……」が出てこないという事でも貴重。日本のバンドのGRAPEVINEが夜の果てへの旅という歌詞が出てくる歌を歌っています。

2、フェルディナン・セリーヌ『なしくずしの死』

なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)

なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)

こちらは「旅」より激しく重い。とくに後半(下巻)からが本当の勝負です。フェルディナンの疑似自伝。

3、ヘンリー・ミラー『北回帰線』

北回帰線 (新潮文庫)

北回帰線 (新潮文庫)

ミラー的な世界観がイマイチ合わなくても「北回帰線」だけは残るような、そんな完璧な小説に近い。切なく、狂おしく、どこか笑える。

4、 ヘンリー・ミラー『黒い春』

黒い春 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

黒い春 (ヘンリー・ミラー・コレクション)

『北回帰線』がお気に召したら、そこまで長くはないけど『黒い春』も良作です。言葉の弾丸。

5、マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』

世界終末戦争

世界終末戦争

これは小説好きな人全員に読んでもらいたい。僕の目指すべき作品、完璧なる物語と濃厚な文体です。大好き。

6、 バルガス=リョサ『水を得た魚』

水を得た魚―マリオ・バルガス・ジョサ自伝

水を得た魚―マリオ・バルガス・ジョサ自伝

惜しいかなこれは新品が出回ってはいないんじゃないか…… 水声社に注文したり、古書で探すしかないかもしれませんがとにかく傑作自伝です(もちろんフィクション的手法アリ)

7、カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』

テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)

テラ・ノストラ (フィクションの楽しみ)

とにかく読んでみろと。大地に生きる我ら、五百年の時を経て、今もまた再生する。

8、アルベール・カミュの全ての作品

『異邦人』『ペスト』『カリギュラ』『シーシュポスの神話』『幸福な死』『最後の人間』……代表作であろうがすべてはずれが無い(!)

9、ジャン・ポール・サルトルの全ての作品(小説)

『自由への道』『嘔吐』『壁他短編集』

10、ゲーテファウスト

ファウスト(一)(新潮文庫)

ファウスト(一)(新潮文庫)

例えばカミュなどは小説よりも戯曲をより芸術的に価値の高い作品形式だと認めていました。それはゲーテのこの作品のすばらしさからくる伝統でもありますね。

11、ダンテ『神曲

神曲 地獄篇 (角川ソフィア文庫)

神曲 地獄篇 (角川ソフィア文庫)

地獄 > 煉獄 <<<<<天国 の相関関係(笑) はじめは煉獄のほうが地獄より重いのかと思っていましたが生前の行いを見たら確かに地獄の方がキツい。

12、トルストイアンナ・カレーニナ

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

アンナ・カレーニナ〈上〉 (新潮文庫)

ロシアの大地にしびれました。アンナ夫人の不倫劇よりも、ロシヤの農地であくせく汗を流したり苦労したりする(主人公の名前忘れる)のが好きな描写でした。圧巻。

13、ソルジェニーツィン煉獄のなかで

煉獄のなかで (1969年) (タイムライフブックス)

煉獄のなかで (1969年) (タイムライフブックス)

収容所での囚人たちの厳しく和やかな暮らし。スターリン。悲しい別れ。激しい時代。忍び寄る不穏。いつまでも読んでいたい。

14、大江健三郎万延元年のフットボール

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

説明省きます(笑)

15、大江健三郎『死者の奢り・飼育』

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

死者の奢り・飼育 (新潮文庫)

大江健三郎はここから入門しました。今でも完膚なきまでに文章の凄みに叩きのめされたその衝撃が脳裏にそっくり残っているみたいです……。

16、川端康成『雪国』

雪国

雪国

静謐なる川端作品の中でも一番好きです。

17、森鴎外舞姫

現代語訳 舞姫 (ちくま文庫)

現代語訳 舞姫 (ちくま文庫)

高校の授業の時に読んで以来わしはこの作品に病みつきなんじゃ~!

18、村上春樹ねじまき鳥クロニクル

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

説明省略します笑

19、村上春樹ノルウェイの森

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

結局この作品がかなり好きだ。語りの手法がどことなくカズオ・イシグロ作品に似ていると思います。

20、江国香織『抱擁、あるいはライスには塩を』

抱擁、あるいはライスには塩を

抱擁、あるいはライスには塩を

江國さんは人気作家だけではなく、あくまで日本の前衛的な作家として今もずっと記録を更新しているような野心的な作家です。

以上、ありがとうございました!