書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

隣人について――断片の哲学(1)

*隣人について

 

 隣人はすでに、異世界だ。隣人がすでに奥深きワンダーランドなのである。二人といった人間関係(夫婦、兄弟、友人、恋人、医者と患者……)はすでに多様性の世界の可能性を秘めている。ただ、多様性の世界へのベクトルと、それと反対の、一極化、全体化(一/全)へのベクトルの二つは、常に拮抗していて、その闘争の場を静的/動的に繰り広げている。基本的には、権威やイデオロギーの一極集中化の原理的働きなどは、この後者のベクトルの勝利に他ならない。医師がいつまでも権威的であり、患者を従属させるようなケースでは、医師と患者の間から多様性の関係などは絶対に発生しない。

 だから、隣人が、たとえどれほどの可能性、わずかな可能性ほどしかもっていないと仮定しても、そこに多様性の原理があるということを、私たちは大きく主張する。二面関係はすでに、支配ー被支配の関係や法律上の契約関係に見られるような対等の関係性だけでなく、もっと深遠で複雑な世界構成がある。ミクロ的視点。

 隣人を愛することは、いつも難しい。別に愛する必要などない。ただ、愛への欲求と欲望が、この狂った世界をいつも混乱させ、その欲求/欲望たちが、たくさんのリストカットする女性や、現実に残る自殺者、恋愛関係のもつれ、人間関係の退廃を生み出すのに違いないのである。それは欲望の仕方のない面なのだ。欲望は善でもあると同時に理性的な人間像を危険に迷わせる悪でもあるのだから。隣人の、人々の、奥深さを知ったとき、それは多くの場合、長くて価値のある会話などによってもたらされるのだが、人はそのとき最高限に人を愛することができる。もちろん、最高の愛、至高の愛は、恋愛でもなく、家族愛でもなく、原理的、原理的な人間そのものへの愛なのである。それを、私たちは知っている。どこかで知って、かつて、そしてこれからも知っている。

 隣人を愛する必要はない。ただ、隣人はあまりにおもしろすぎるのである。

 

(misty)