書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

知の細分化


 知の細分化。学知が、どんどん細かくなり、専門領域はなし崩し的に増え、隣の研究所が何をやっているのかが分からない状態、それが現代の大学や科学。例えば、私は一つのフィルム映画を見たあと、それにまつわるレビューを読み、そのレビューを書いた著者はフランス文学の専門の教授であったから、映画にまつわるフランス文学者などについても、思いを馳せて、夕方図書館に立ち寄った。何でもフランス文学史の中で、十九世紀から二十世紀にかけて、ロマン主義象徴主義自然主義、等々と呼ばれる流派もしくはグループ付けがあったのだと初めて知る。象徴主義の代表者はマラルメボードレール。映画の中ではラテンアメリカのアマゾンの植生が印象的に映し出され、植物の図鑑を見ていると、隣に文化人類学の本がずらりと並び、エドヴァルド・デ・カストロの『インディオの気まぐれな魂』などが見つかった。そういえばラテンの植生を印象的に描いた作品には、マリオ・バルガス=リョサなどのラテン作家たちがいたっけな……。
 これを、いちいち、フランス映画史、フランス文学史、十九世紀史、植物学、文化人類学、ラテン文学、などと区別をつけてそれに特化しても、何かを見失うだけであろう。現実はこれらをすぐに横断するのだ、特に私のような曖昧な思考の持ち主の人間は。知の細分化は、学問が発達するにつれて半ば必然的に起きた状況であるが、それと同時に、区分化された様々な知の領域を横断する、自由に横断して、総合知とでも呼べるような、ものへと向かわなければならない。知の細分化と求心化はセットなのだ。しかし後者の方はあまり叫ばれない。知はますますニッチなものになっていく。何のために研究するか分からない。何のための研究か分からない。知は今や犯されている。