書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

〈平等〉の考察

 「平等」にまつわる考察として、ある具体例をとりたい。僕自身の経験(体験)した範囲である。
僕の小学校では、一学年上にあたる人に、女性で、頭髪が全くない人がいた。そして、全校集会などで、当人を指すものとして、彼女を見た目や身体的な特徴で差別してはならない、うちの立派な生徒で、その人を侮蔑するようなことはあってはならないと、教頭にあたる熱血先生がしきりに叫んでいたのである。

 もしかしたら、ここに、「教養をわきまえていない」子供/分別を有する大人、という一方から一方への移り変わりを図式としてみてもよいのかもしれない。それが「成長」とまことしやかに(大多数の人々に)信じられている事柄である。すなわち、人が成長するのは、子供から大人になるといった字義的な意味だけではなく、分別を有さないものから分別を有するものとしての、「理性の獲得」を、そのメルクマークとみなす、といった、理念的な〈成長〉である。

 分別を有さない子供は、時に(というか僕の目からしたら常に)容赦ない。僕自身、その頭髪が全くない女子生徒が「ハゲ」とか色々言われていることは知っていた。
 しかし、僕は、熱血先生が全校集会でそのような理念めいたことを熱をもってまくしたてる、そのことに何故か異様なものを見る気がする。

 分別をもっていたら、その人をハゲとは呼ばないのだろうか?(このような暴力的な言い方になることを敢えて書かせて頂くことをお断りする)

 もちろん、そうは呼ばないだろう。もっと配慮する。彼女がどう傷つき、どのような感性で、生活や社会の中で立ちまわっていくかに、知らなくても想像力を及ばせることができるだろう。
 
 しかし、立派な〈子供〉の代弁者たる小学生はどうなのだろうか?? そうやって、頭ごなしに「女子生徒にハゲと呼ぶのは差別的なことで、差別はダメだ、だからハゲと呼ぶのはけしからんことなのだ」という三段論法は、伝わるべきなのだろうか?

 どうして彼女をそう揶揄することが差別的な事柄なのだろうか。それは、本人たちが一人一人で考えてみないと、理解しえないことなのではなかろうか。
 その全校集会はおそらく緊急的な意味合いで開かれたものであったのだろう。彼女が実際的に困っているケースに鑑み、学校側としても対策をしたと、むしろ褒められるべき、いい学校であったと思う。

 僕は差別主義者ではない。しかし、差別がいかなる根拠に寄るのか、どうしてそれをしたら差別になるのか、ひるがえって差別とは何なのか、こういった事柄を、自分の頭の中でしっかり考え、思いを馳せないことには、およそ差別は遠ざけられないことは、今の日本社会を見たら明らかなのではなかろうか。

 子供は簡単に、身体的特徴を例えばその人のあだ名にしたりする(ブタ、眼鏡、デブ……)。それはもちろん分別を大人程度には有していないからである。しかし、その子供たちに、頭ごなしに「あの人をそういった言い方で差別するのはダメだ!分かったね!」と叱りつけることは、有効なのだろうか。

 一方で、子供たちが容易な言い方で自分たちのコミュニケーションを図る、図ろうとする、時には暴力的・差別的な言説をもってして、ということをもう少し広く考える。なぜなら、「デブ」や「メガネ」といった言い方もまた社会の常識に照らせば「差別」ではあり、しかもそうした言いようを大人自身が(例えばお笑い芸人と呼ばれる人々はむしろ率先して)広めているのである。
 被害を浴びせられた人が、「これは立派な暴力だ」と訴えるのは、もう立派な差別が行われている。

 僕は、熱血先生の背後に在るのは、表――透明で明るい空間、裏――汚い空間、という表裏の二つの領域による秩序形成であって、表空間が裏空間をそれこそ強制的(暴力的)な仕方で隠ぺい、抑圧してしまう社会のシステムを見た気がした。表の空間では一方的に差別が廃止され、しかしその代わりに抑圧された人々の暗い欲望は、もっと大きな代償として社会の間隙を突くのである。オモテの理念性に固執すると、それがかえってウラの方で暴力が肥大化し止まない、というもっとひどい有様に気付けないだろう。

 だが多くの日本人は、こうしたオモテのクリーンで明るい社会作りのみに目を向けようとし、その代わりに押し殺された欲望や無意識がもっとひどい形で回帰されるということに思いを致さないのが、普通なのである。

 平等は遥かなる〈理念〉であり、この影はあまりに揺らぎすぎている――。