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書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

ジョイス「ユリシーズⅠ」を読んで

ユリシーズ〈1〉

犬の吠え声が彼に駆け寄り、立ち止まり、駆け戻った。わが敵の犬。ぼくはなすすべもなく立っていた。青ざめて、黙って、追いつめられて。《恐ロシキ物ヲ思イナガラ》。薄黄いろのチョッキが、運命に使える従僕が、ぼくの恐れるさまを見てにやりと笑った。おまえはあれで欲しくてたまらないんだろ、みんなの喝采という吠え声が? 王位をねらう者よ、生きたいように生きるがいいさ。ブルースの弟。トマス・フィツジェラルド、絹の騎士。パーキン・ウォーペック、白薔薇象牙いろの絹のズボンをはいたヨーク家の偽世継ぎ、たった一日だけの脅威。ランバート・シムネル、女中や下僕をぞろぞろ引きつれて王位についた皿洗い。みんなが王たちの子さ。むかしもいまも王位をねらうやつらの天国だよ。やつは溺れて死にかけた簾中を助けたけれど、おまえは駄犬に吠えつかれてふるえている。でも、オル・サン・ミゲーレでグイドをからかった宮廷人どもは自分たちの家にいたんだぜ。その家ってのは……。おまえの中世ふう難解考証癖はもううんざりだよ。やつがやったことをやる気があるのかい? ボートは近くにあると思うぜ、救命ブイも。《もちろん》、おまえのために置いてあるのさ。やるの、やらないの? 九日前にメイドン岩の沖で溺れた男。みんなはその死体があがるのを待ってるんだ。本音を吐けよ。やりたい。クロンゴーズの学校で、洗面器の水に顔をひたしたときのこと。見えないよ! 後ろにいるのは誰? 早く出してくれよう、早く! 見えるだろう、四方から潮がすみやかに流れこみ、すみやかに砂地の窪みを覆い隠し、殻まじりココアの色にかえていくのが? 足が地についていればなあ。彼には長生きしてほしいけど、ぼくだって命は惜しい。溺れかけた男。その人間の目が恐怖のなかから、ぼくに向かって金切り声をあげる。ぼくは……いっしょに沈むのは……母を救うこともできなかったし。水、苦い死、消えた。

 ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズⅠ』を読みました。これから『Ⅱ』『Ⅲ』も読むつもりですが、全体で感想を述べようとするときっとうまくいかないに違いない、それほど複雑で広大だし、ちょうど『Ⅰ』を読む中で考えたことを吐きだすのが区切りが良いだろうと思ったので、書いておきます。

 引用文のように、捉えどころのない文、だれがだれに対して喋ってるのか明瞭でない会話文(方言つきの)、ダブリンの細かい地理、登場人物の自由な回想(これを「意識の流れ」と言うのだと知りました)など、かなりの部分で破格的な作品だと思います。

 だから、はっきり言ってこの登場人物がどういう特徴の持ち主だったか分からなくなるし、地の文と心の声と音声もいっしょくだになるし、「どういう風に進行しているのか分からないから読むのに大変」だったこともあります。それは、一生懸命全体を理解しようと努めようとするから疲れるのではなく、全体のまとまりはない、しかしジョイスは確かに「何か斬新なものを書いている」から疲れたのだと思いました。

 例えば、ジョイスはびっくりするような登場人物の内心の声を細々と書き連ねます。しかしこれは普通のことではありません。例えば、現実的な会話で、

 「なあ、A子、マックでも食べに行かない? え? ごっほん(咳) 分かったよ、とりあえずドライブにでも行こう」

このようなのがあったとします。途中で咳をしたんですね。この咳、僕が自分の小説を書いていて、本筋に関わりがない限り(たとえば、その人物が風邪を引いていることを強調したい場合だったり、ということです)、省くと思います。

 「なあ、A子、マックでも食べに行かない? とりあえずドライヴにでも行こう」

このように訂正、処理すると思います。それは文学上の自働処理と呼んでもいいのかもしれません。
しかし、ジョイスの小説は、「ウアー!とあくびした。ウアアアアアアアアアムム」などと、ことごとく事細かく、仔細に、自分の音声を聞きわけ、そしてそれを書くのです。  さきほどの文学上の自働処理では、心や口にされた音声を、一部編集して、別の形に(咳を消去するなどして)変換するわけですが、ジョイスは積極的にあくびや咳、わけのわからない考え、意識の流れを拾おうとするのです。

 人間、頭の中で考えていることは常に流動的です。失恋の事で悩んでいたか思えば、あ、お腹減った、もう六時か……と思い、それからお母さんに昨日ひどい事言っちゃったな……と思う次には、また失恋に関心が移る。 文学は登場人物の心理や会話のやり取りを表しますが、それもまた一つの「文学上の(何らかの形での)自働処理」なんですね。ジョイスらの「意識の流れ」の手法は、そういう暗黙のルールに対して違う切り口を提示していると言えると思います。

 あと、わけがわからないけど、文章が美しい。体言止めやリズム感覚などにも秀でています。
だからといって、『ユリシーズⅠ』が面白かったかと言われれば、「うーん? あんまり面白くなかった」というのが正直な感想です(苦笑)。 だって、途中で考えさせられましたもん。こんな無意味に思える記述をずっと続けて、それを読まされることの心痛といったら。

 あと、ところどころでギリシャ神話などの対応関係や、文学世界のワードも散りばめられているみたいですが、それは僕にとってはどうでもいいことでした。 ギリシャ神話と対応しているから教養小説だ、分かるのは楽しい、というのは理解できるんですけれども、ギリシャ神話に匹敵するような世界の始まりの物語を日本人である僕は知ってますし、他にも世界各地にたくさんころがってます。西洋文化だけを特別視することはできません。だからジョイスの「ユリシーズ」は決して教養小説でも普遍小説でもない。それはジョイスの地元アイルランドに根差した文学だと僕は思いました。

 これから『Ⅱ』『Ⅲ』を読むのが楽しみです。