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書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

人間の無価値性とキリスト教について

今回の記事はダークで論争を呼ぶような内容になっているので、心に余裕のあるときにお読みください。
ダークなこともこの世界にあふれかえっているので、それらを取り扱わないことには世界の真理に近づく哲学(ジジェク)は不可能となってしまうから。

 東京や大阪の超巨大な街で溢れかえる人々、群集と呼ばれるものを仔細に見ていくと、感覚が鈍くなり、人々の特徴にパターンがあることに気がつく。そして、とびきり綺麗だったり、変わっていると思えた人も、そのパターンに回収され、つまるところ人々の個性なんてものはほとんどあって無いようなものだと思うときがあるのです。

 多くの人々を見ると、ここまで要らない、「半分の人々は要らない」と思えてくる。しかし、これはけっこう合理的なことだと思うのです。何が合理的か。

 数にも調和というものがあると思います。東京や大阪の街を歩く大量の人々に、「ちゃんとひとりひとり対面」することは不可能です。人間の力の限界を超えている。鷲田清一の本で紹介されていたのですが、あるお婆さんが、どうやら道歩く人の表情を自分で真似て、微笑を作ったり皺をつくったり、それらを一人一人がすれ違うたびにパッパッと表情を変えていくという病的な症候にかかっていたことがあったそうです。大量の数は、人間の身体面にも精神面にも狂気を落とす。安定を得るために、人は限界値の中で友人関係を築いたり、効果的な仕事の関係を結んだりするのです。

 大量の人々を見ていると、半分、いや半分以上の人々の存在が要らない…… これは反道徳的であり、人間倫理に反するものだろうか。
 生命体としての人間は、生きるのも死ぬのもほとんど必然性は無く、いつか生まれいつか死んでいく、それが(現段階の)生命の真理だと、僕は思っています。

 論争的に言えば、「絶対的な人権」という価値観が、どこかで間違っている、とも思うのです。人権は尊ばれるべきだが、絶対というものがあるわけがない。絶対的人権は、論理的に間違っている。

 なぜなら生命体としての人間は、死んでいく、存在を消去するという道もまた十分に開かれているからです。

 人間には、価値があり、同時に無価値性ももっている。 これは二律背反では無いと僕は考えています。

このことを歴史的に早くから顕したのは、ユダヤ=キリスト教のこの世の終末思想とそれに続く「最期の審判の日」ではないでしょうか。

 この世界にはいつか終わりがやってくる(それが具体的にいつなのかを争うのが終末論思想)。そのとき、人々は審判にかけられ、ダンテが荘厳な作品『神曲』の世界であらわしたように、地獄に堕ちるべき人間と、救済されるべき人間とを選別する。

その最期の日がくるのに備えて、ルターやカルヴァンの宗教思想などがあったのです。

 この、救済され永遠の世界=天国に行ける人と、地獄や煉獄に堕ちる人とに分かれるという発想は、こうではないでしょうか。救われるべき人々には何らかの価値があり、逆に地獄に堕ちる人はそれが無かった、と。

 「人々には、価値のある人と、無価値な人がある」 これは言いすぎだと思います。ここまでは言えない(言ってる人もたくさんいるだろうけど)  人間の価値など、最初から決まっているわけではない。

 しかし、人間は無価値にもなり、価値があるという状態にもなる、ということはいえると思います。
この曖昧な状態を、人間=Xと仮に書いておきます。

 人間はX。
それを絶対的に審判できるのが、1である神なのではないでしょうか。ここに神の必然性が(キリスト教という宗教文化において)ある気がします。 価値は 0<a<1 であり、無価値がマイナスの値。

まとまりに欠けるので、このあたりでやめます。しかし、ひとつ言える事は、人間の権利や生命は確かに尊ばれるべきだが、それが絶対的なものであるとは、僕は歴史を振り返っても言えないと思います。 うーん…… 「だからこそ生きる」という発想が一番好きなのですが。  人間は常に曖昧な存在でしかない。しかし充実した存在に近づくことはできる。そのために生きようと思えば、誰でも救われる=自由に、すばらしい生を送れるのではないか、例えそれが具体的な生死を問わないとしても。