書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

Hallelujah(最初だけ)

Hallelujah

 治療室から戻ってくると、エアコンから送られる暖かな空調にSは感動するものを覚えた。個人経営の小さなクリニックの歯医者はSの知っている限りでは東京の最先端の歯学を完璧に習得し、洗練された治療と「居心地の良い実に快適な」空間のを提供していたので、患者の予約が常に殺到しているのだった。ただどういう訳かその日は空いていて、Sの他にはくたびれたスーツに包まれた若いサラリーマン男性が仕事の合間を縫って診察を待っているだけだった。待合室は空色がかったすっきりした印象を与える壁で、ピンク色のソファが置いてあった。「お疲れ様でした」と先生の声が治療室の方から聞こえ、Sは半ば自動的に頭を下げるとソファにゆっくり腰を降ろした。
 右の奥歯の痛みがとれている。それはSにとって実に爽快な出来事だった。あれほど肉や魚料理を食べる度に苦労し、イライラと神経はすり減っていく日々とはお別れだ。ハレルヤ!なんて思わず口ずさんでしまう気持ちだった。
 Sの斜め横には受付カウンターがあって、Sがくつろいでいる間に先生の奥さんでもあり助手をしている夫人が戻ってきた。彼女はマスクを着けたままSに笑みを向けると事務仕事をはじめた。そこで私はふと尿意を感じはじめた。トイレはどこにあるのだろうか。Sはあたりを見回したが、それらしき表示は見当たらない。Sはソファから立ちあがると、夫人に尋ねた。「すみません、トイレはどこでしたっけね」夫人は顔を上げると横髪を華麗に揺らしながら「トイレは実はこの下の階にあるんですが、ちょっと分かりづらいんです。私がご案内します」と言った。ここは地上なので、下の階があるとは要するに地下ということだ。果たしてここにそんなものがあったか、とSは疑問に思ったが、それは口に出さずに「いえ案内なんて。道筋を教えて頂ければ」と言った。
 「いいですよ、本当に分かりにくいですし。ご案内します。どうぞ」夫人はそう言って受付から出てきた。Sは申し訳なさそうに「じゃあお願いしますね」とだけ言って夫人の後についた。
 夫人は待合室の横の、普段はカウンセリングルーム――インプラント治療の事前説明や、持続的な歯の治療計画を患者に説明する際などに使われていた――として使っている奥まった部屋を横切って、さらに奥の非常階段に続いた。緑の暗いランポプが下へと続く階段を照らす中、夫人はSの二歩先を歩いて誘導した。Sと歯医者夫人の二人分の靴の音が異様なまでに寂しくコツンコツン……と響く。「お母様は」と夫人はにこやかな表情を浮かべてSの方を振り返った。「お母様は元気にしていらっしゃいますか。最近お見えになられないようなので……」Sの母親も同じこの歯医者にかかっているのだ。Sの母親は医者という人種が特に好きで、よく「お医者先生、先生」と親しげな関係を彼らと交わしていた。Sの母親はその「歯医者先生」にSの私生活のことまでべらべらと話すし、先生の奥さんである夫人にSの普段の生活模様が筒抜けになっているのだった。Sはどちらかといえば治療室の中では寡黙な方なのだが。「ええ、元気ですよ、ただ腰の方がね……」「ああ、奥さまは腰をだいぶ痛められていましたよね!」「はい、その後結局入院しちゃったんです」
 「そうなんですか? 入院?」とその時になって夫人は下っていく階段から眼を転じてびっくりしたようにSの方を向いた。Sは軽く弁解するように、「でも、もう退院しました。一週間くらいの……そう、一週間で退院ですね。ええ。今も週に一回外来診察に通ってます」
 「そうだったんですね……大変でしたね」
階段はある所までくると百八十度向きを変えて再び下降し、以前として非常階段であることを示す白と緑の妖しい光が二人を照らしていた。すると地下の踊り場のような場所に着いた。そこの地面はゴツゴツしたコンクリートで足場が不安定で、おまけに雨が何かの水でびしょびしょに濡れていた。広い空間には、天井には眩い白色灯が吊るされてあってその光の強さは下からでは直視できない程だった。まさに地下室というべき場所で、非常に危ない場所だと咄嗟にSには思われた。Sと夫人が階段から到着した場の奥の方に、男性トイレ・女性トイレを示す黒と赤で塗られた人形のマーク印が見えた。最も男性トイレは半ば開放されており――女性トイレは堅牢の如く扉に閉ざされていた――、二人が立っている位置からでも内部が見えた。Sはそこで「それじゃあありがとうございました」と言ったが、夫人は柔らかい表情を変えずにただ頷くだけだった。……