書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

晩年の晦渋さ――大江健三郎『晩年様式集』

晩年様式集 (講談社文庫)

晩年様式集 (講談社文庫)

 大江健三郎が2013年に発表した今のところの最新作『晩年様式集』がどんな小説であるか。冒頭部分の一節と、この小説の目次を引用してみよう。


 

 私は東京でも相当のものだった揺れに崩壊した書庫をノロノロ整頓しながら見つけていた、数年前店頭に積んであるのをひとまとめに購入した「丸善のダックノート」の残り一冊を膝に乗せて(それはダックという呼び名どおり無地のズック地で堅固に作られていて、いかにも老年の手仕事にふさわしい)、どうにも切実な徒然なるひまに、思い立つことを書き始めた。友人の遺書は"On Late Style"つまり「晩年の様式について」だが、私の方は「晩年の様式を生きるなかで」書き記す文章となるので、"In Late Stale"それもゆっくり方針を立ててではないから、幾つものスタイルの間を動いてのものになるだろう。そこで、「晩年様式集」として、ルビをふることにした。
――大江健三郎『晩年様式集』「前口上として」 文庫版(講談社、2017)pp.10


『晩年様式集』目次

前口上として
余震の続くなかで
三人の女たちによる別の話(一)
空の怪物が降りて来る
三人の女たちによる別の話(二)
アサが動き始める
三人の女たちによる別の話(三)
サンチョ・パンサの灰毛驢馬
三人の女たちによる別の話(四)
カタストロフィー委員会
死んだ者らの影が色濃くなる
「三人の女たち」がもう時はないと言い始める
溺死者を出したプレイ・チキン
魂たちの集まりに自殺者は加われるか?
五十年ぶりの「森のフシギ」の音楽
私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。


 さて、大江健三郎は1994年にノーベル文学賞を受賞してから自身の文芸活動をいったん休止した後に復活し、それらの仕事をレイト・ワークすなわち晩年の仕事として自ら位置づけた。『晩年様式集』はそんな「レイト・ワーク」の総決算的な作品だとも言える。引用で示した冒頭部分に『晩年様式集』と銘うった作品がどのような経緯で書かれていったかがいきなり明らかにされ、その名前の付け方を見るにしてもいちいちカッコいいというか、大江健三郎は作品の名前を付けるのが異様にカッコよい。それは哲学者が自分の著作の中で独自の概念を命名しゆっくり練り上げていく過程とそっくりなのである。
 僕は、大江健三郎氏がある種の言葉づくりにこだわるのは、そういった哲学者による哲学概念の創出と同じであると思う。大江氏はしばしば自身の小説の中でまったく新しい世界や新しい視点を提示する。『晩年様式集』自体がそんなこれまでとは異なった視点や世界観の提示への挑戦だと言ってもよいのだ。

 さて、まずは冒頭の引用文章である。

「私は東京でも相当のものだった揺れに崩壊した書庫をノロノロ整頓しながら見つけていた、……」

 この「相当なものだった揺れ」というのは2011年に起こった東日本大震災であり、まさにこの地震原発被災に他の文芸人と同じくしてか独自にか、大江氏が非常に影響を受けたことが窺い知れる。ちなみに、『晩年様式集』での主人公は「長江古義人(チョウコウ・コギト)」という非常に面白い名前で、大江の「江」と長江の「江」がリンクしていることからも推測できるように、作家としての大江健三郎自身に非常に良く似た人物が語っているという程になる。

 実際、物語は自分自身を諧謔するというか、大江氏自身の人生を自らパロディ化して、現実と仮想をめちゃくちゃに融合させるといった非常に難解なものになっている。目次の「三人の女たちによる話」というのは長江古義人の妻や近親者(オセッチャン、アサチャン等という、大江文学に馴染みのある人なら分かるあの人たちである)が長江に向けて直接非難や批判をする文章をそのまま載せるという、一見意味の分からないパートだ。三人の女たちによる厳しい批判・非難は作品上の長江を超えて、現実の大江氏自身を厳しく揶揄したものだとも受け取れる。

 先ほども言ったように長江古義人の人生は大江健三郎の人生に酷似しており、「空の怪物アグイー」や「万延元年のフットボール」といった大江健三郎が現実に出した小説をそっくりそのまま過去に出しているのだ。 そして、「空の怪物が降りて来る」という章はそのまま小説「空の怪物アグイー」をめぐって長江と長江の長男の光が対立をする話である。「三人の女」のパートも、長江が過去に発表してきた私小説群をめぐって、「あの小説では私を揶揄してこんな登場人物を出しましたけれども……」といった、身内の喧嘩話みたいなものを延々と聞かされる。

 実際、晦渋に晦渋を極めた構成ともなっており、いったい大江は何がしたいんだととてもイライラする小説でもある(笑) それくらい話は込み合っており、大江健三郎の小説を読んだことのない人には絶対にオススメできない。少なくとも彼の代表作を一つか二つか読まないとついていくことすら辛い、まさに『晩年様式集』なのである。

と、ストーリーを追いかけているうちは非常に辛いものもあるのだが、たとえば「空の怪物アグイー」を読んだことのある人はこの短編集の裏話を知れる、もしくはあの世界観の延長戦を見ているようで非常に面白いところもある。大江のファンならではの楽しみ方といったところだろうか。

そして、『晩年様式集』はなんといっても文体=styleが新しい。

「……数年前店頭に積んであるのをひとまとめに購入した「丸善のダックノート」の残り一冊を膝に乗せて(それはダックという呼び名どおり無地のズック地で堅固に作られていて、いかにも老年の手仕事にふさわしい)、どうにも切実な徒然なるひまに、思い立つことを書き始めた。友人の遺書は"On Late Style"つまり「晩年の様式について」だが、私の方は「晩年の様式を生きるなかで」書き記す文章となるので、"In Late Stale"それもゆっくり方針を立ててではないから、幾つものスタイルの間を動いてのものになるだろう。そこで、「晩年様式集」として、ルビをふることにした。」

 カッコ付け、英語やラテン語、ルビ降り、引用など様々な文学上の手法を総集めにしたもの、「言葉そのもの」を大江氏の手際によって味わっているかのような感覚に陥る。 ここで、ストーリー上の晦渋さと文体上の晦渋さがリンクし、いったい何が本の中で起こってるのか容易には把握できない、というか大江さん自身も把握していないんじゃないかという位の現象が起こっているのだ。

 書店で見かけたら一度手に取ってパラパラめくってみてほしい。「何か惹かれるものがある」と感じた人は、彼の晦渋さの極みに挑戦意欲を覚える野心溢れる読者に違いない。

P.S. 最終章の「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」 という章。この文章だけで感動を覚えないだろうか。実際物語は感動的に締めくくられる。私は再開できない。しかし、「私ら」ならば……。 この章の意味を読み解くことが、大江が大震災以降にたどり着いた答えの一つである。こういう所にも僕は拍手を送りたい。