書も積もりし

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サルトル『方法の問題』を読み終えての雑感

実存主義とは人間学そのものである。
――『方法の問題』pp.178

 

サルトル全集〈第25巻〉方法の問題 弁証法的理性批判序説(1962年)

サルトル全集〈第25巻〉方法の問題 弁証法的理性批判序説(1962年)

今回はジャン・ポール・サルトルの『方法の問題 弁証法的理性批判序説』(1966、人文書院平井啓之訳)である。ガチガチの哲学書である。
 まず、『方法の問題』という本がどのような立ち位置であるかを説明しておきたい。これは、後の『弁証法的理性批判』という浩瀚な書物につながる、いわば序論を果たす論文である。しかしあまりの長さのため、「方法の問題」と銘打って単著として出されることになっている。
弁証法的理性批判』がどのような本なのかというのもとても説明が難しいのだが、僕個人の考えでは、たとえばマルクス主義といった哲学上の思想が理論面において、そして実践面(じっさいにマルクス主義共産主義社会主義として結びついて典型的な例としてはソビエト連邦という国家を作り上げたという歴史がある)においてどのように作動=過程をへていったか、といったことが、マルクス主義だけでなくサルトルの掲げる「実存主義」という哲学の立場から語られることになるのだろう。

 なので、『方法の問題』においてはズバリ 実存主義 vs マルクス主義 である。
実存主義」を打ち出したサルトルは、マルクス主義に一定程度の評価を与えているし、影響もされている。というより、マルクス主義をある面では称賛しつつも、ある面で手厳しく批判しているのがこの『方法の問題』だ。
 なぜ手厳しく批判されているかというと、マルクス哲学ならぬ「マルクス主義」とされる様々な哲学者の理論には様々な欠陥があった。現実の歴史的事象をうまく説明できていないのに、彼らは理論修正を行わずに、実践へと足ばやく赴いたのだ。おそらくそのようなことがサルトルの心情にあってこの本の第二章で長ったらしく書かれている。特にルカーチへの批判は凄まじい。一回も褒めてない(笑)

 マルクス主義には理論面にも実践面にも欠陥がある。だからそれを補おう、私の「実存主義」によって、みたいな態度が『方法の問題』の基本的な姿勢である(と思われる)。

それで、肝心の「実存主義」なのであるが、訳者解説やwikipedeiaなどで軽くおさらいはしたのだが、「実存主義とは何か」を簡単に語るのはとても難しい。ちなみに、「実存」の訳語を与えたのは日本の哲学者・九鬼修造であるらしく(訳者解説による)、もともと「現実存在」という言葉がちじまって「実存」という風に訳語としても定着した。 実存主義は、うーん、現実存在主義、である。 現実に、今ここに(私が)存在して生きているということ! その地盤の揺ぎなさを根拠にして、人間や社会や世界のあらゆる問題に立ち向かっていくのがサルトル的な「実存主義」=「現実存在主義」である。

 もちろん、サルトルはそう簡単に実存主義について定義をしたりしない。読んでいる最中でいくつも印象的だったりアッと思わされるフレーズがあったが、ここでは二つを紹介しておく。

つまり欲求とはつねに「……に向かって」自己の外部にある、ということである。これこそわれわれが実存と名付けるものであり、この言葉によってわれわれは自己のうちに落ち着いている堅個な実体を意味せず、たえざる不均衡、あらゆる物体の自己からの脱出を意味している。この客観化への躍動は個人によって種々な形をとり、可能性の分野を通ってわれわれに投企を行わせるものであるが、われわれは数ある可能性のうちのいくつかを他の可能性を拒否することにおいて実現するので、われわれはこの躍動をまた選択、あるいは自由と呼ぶのである。
――『方法の問題』pp.156

 〈投企〉という言葉は語源的にはある一つの人間的態度を示し(人が投企を行うのである)、それは実存的構造としてのprojetをその基盤として予想している。そしてその言葉はそれ自体、言葉として、人間的現実が〈前への投出〉projet である限りにおいてその人間的現実の個々の実現化としてはじめて可能になる。
――『方法の問題』pp.181

 1番目の引用では、これだけではよく分からないが、自己の欲求(たとえば食欲)は……(一枚のパン)に向かっているという点で自己の外部にある、つまり欲求は自分の欲求のように思えて自分の外にある、欲求に支配されないような主体=私のことを「実存」と呼びたいのだろうか。後続の、「あらゆる物体の自己からの脱出を意味している」というのは僕にはまだ分からない。

 2番目の引用では、「投企」が語られている。「投企」は『方法の問題』においてのキー概念であり、これはまたハイデガー哲学などによっても有名だ。この投企が「実存的構造」としてある限り、投企というのは前へ投げ出すことなのであるから、なんかよく分からないけど自己を前へと、未来へと投げ出すことによって「人間的現実の」「実現化」が可能になるのだという。

 まぁこれどころじゃないほど難解な記述のオンパレードなのだけれど、フローベールについてねちっこく語ったり、フランス革命ジロンド派がーロベスピエールがーとか(第二章)とかも延々と語っていて、まったく一筋縄じゃない書物でした。

 実存主義マルクス主義、投企、フランス革命フローベールやサド文学、などがキーワードです。

とにかくこの序論たる本書において実存主義マルクス主義よりも優位に立っているという事を証明して、いよいよ続刊の『弁証法的理性批判』でマルクス主義が勝ち取れなかったもろもろの未解決問題を分析し解析していこうというのが主な内容なんじゃないかと推測しています。『方法の問題』はこれで終わり。

ありがとうございました。