書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

レーニン『国家と革命』の途中までのまとめ&哲学について

図書館に立てこもっていたら割と急な雨に降られたので、時間の許す限りブログを書きます。

昨日から、レーニンの『国家と革命』という比較的読みやすい本をよみはじめました。

国家と革命 (ちくま学芸文庫)

国家と革命 (ちくま学芸文庫)


 昨日まで読んだところで気になるところをカンタンに整理したいと思います。

 そもそも、ある友人と話していて、「共産主義社会を夢見た者、共産主義社会を実現させるはずだった人たち」、つまりレーニンの死後のスターリンや、中国の毛沢東フィデル・カストロなどは、国家政権を掌握したとたん、みな独裁政治をはじめてしまいます。これはむちゃむちゃ問題です。だから共産主義マルクス主義などほとんど信用を失ったといってもいい。僕のように今からマルクスを読み始めるバカ者はおいといて笑、今でもマルクスエンゲルスの研究はずっと続いていますが、やはりマルクスマルクス主義哲学を勉強するからには、

革命→社会主義国家の誕生→共産主義社会の実現→世界平和 となるはずだったこの図式の理論のいったいどこがどういう風に間違えているのかを真剣に探求しなくてはなりません。
 最近では、日本やアメリカ、フランスなどの先進国においては政治体制の右傾化がすすんでいます。特にいまあげた三つの国は、ちょっと過剰なまでの右傾化の危機をはらんでいる。過剰はよくありません。 右傾化が過剰になった場合は、やはり左翼からの適切な批判によってバランスを取り戻しながら、政治は動いていったほうがいいと思うのですが、最近の左翼は今も言ったように弱体化してますね。

左翼的な考え、哲学、思想が弱体化したからこそ、このような右傾化の進行が用意されたとも言える。だとすれば、これは左翼の責任でもあるわけです。
そのためにはどうするか。
僕は、左翼につながるとされている、マルクスエンゲルスアルチュセール、レーニンなどをこれから勉強していきます。

 僕自身はドゥルーズをはじめとしてフランス現代思想を勉強したのが哲学のきっかけだったのですが、そろそろもうひとつ上の時代、19世紀の哲学をしっかり勉強する段階にきたようです。

 まぁそれで話をレーニンの『国家と革命』に戻します。
この本は、どうやらマルクスエンゲルスを誰よりも愛している!レーニンが、マルクスの考えを曲解したり悪用したりする同時代の連中の解釈や行動に我慢がならない、みたいなレーニンの心情が随所にうかがえます笑  レーニンはそうした連中のことを「日和見」主義者、とか、エセ社会主義者、とか呼んでねちっこく批判しています。

 さて、レーニンが第一章第二章でとりあげたのは、プロレタリア階級(労働者階級)が、敵陣たるブルジョワ階級(資本家、大地主、あとは権威に守られた政治家なども含むと思われる)とどう闘うか、その戦いを「国家と革命」という観点から、マルクスエンゲルスの著作の解釈をすることで考察していきます。
 ちなみに昨日の読書でもこれくらいまとめられるくらい、これは読みやすいです。

 本論です。 まず、現状把握として、おなじみのプロレタリアはブルジョアに搾取されている(少しの賃金とひきかえに、時間と人生そのものを)という話がでてきます。マルクスエンゲルスの一番有名な『共産党宣言』の第一文はまさしく「全ての歴史は、階級闘争の歴史である」ですからね。 この「階級」、つまり弱きプロレタリアートと強きブルジョワ階級という構図はマルクス哲学の一番基本的な図式です。

 そして、さらにレーニンによると、マルクスは、ブルジョワプロレタリアートを搾取し、さらにそのことによって国家を運営する、という視点に立ちます。大量の工場などで労働者を働かせ、資本家(ブルジョワ)は自らは超え、そして得られた資本(お金)で国家運営に自分たちに有利なように動かしていく。まさにブルジョワによる国家の支配です。

 まさに、このために、プロレタリアートは連帯して戦わなければならない。ブルジョワによる国家の支配をおいだし、「プロレタリアートによる国家運営」をうちたてなければならないのだとマルクス=レーニンは強く言います。

 ここで問題が発生します。 プロレタリアートブルジョワ階級を相手に闘争し、「革命」を起こさなければならない。そして、自分たちの「プロレタリアートによる独裁、集中国家」を設立するのだと。

 ここは? を入れていいでしょう。 「プロレタリアートの独裁」。冒頭に記事で書いた問題意識と結びつきます。プロレタリーアトは闘争に打ち勝った後、自分たちは独裁政権を指揮するのか? これは大いになぞです。あやしい。
 そのことの理由説明はいちおうレーニンはしていますが、まだ僕が全部『国家と革命』を読んだわけではないし、ここでは省略してこの「プロレタリアート独裁」という用語には注意を要することを明記しておきます。

もう1点。 どうやらレーニンによると、マルクスエンゲルスは著作で、「プロレタリーアトによる国家の奪取=革命は、暴力の使用を不可避とする」という趣旨を述べているらしいのです。
こうも言ってます。 「旧い社会から、新しい社会が産み出されるのに、暴力はちょうど助産婦のような役割だ、と。
 ? こんなにカンタンに暴力の使用を認めていいのでしょうか。

 昨日まで読んだところでは、この「暴力は不可避だ」というテーゼの説明はレーニンは掘り下げていませんでした。後半のほうにしてあるのかもしれませんが・・・・・・。

とりあえず、あと6割くらいで『国家と革命』を読み終えますので、また全体を通して読んだら残りのまとめをしたいと思います。