書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

仮面の太陽(小説)

仮面の太陽
作:光枝 初郎

しらいちゃんへ


 最初に太陽があった。真っ赤な太陽が南下して炎天の地獄を作りあげた後には、文句を言う奴など一人もいるはずはなかった。天気は蛇行し、気が付けば空には夕暮れが漂い、海辺には真っ赤だったはずの太陽も頭を垂れて夜の静寂に懺悔していた。ロードサイドには真っ赤なポルシェが徐々にスピードを緩めて走り、きらめく海辺と砂浜を横目に溜息をつく二人の女の姿があった。やがて車は停まり、女の一人が煙草の火を消すと沈黙していた潮の香りが一気に広がった。
「太陽が眩しい」金髪の、鋭い眼光を放つ女性が言った。
アルベール・カミュならさしずめ『世界を望む家』とでも呼んだところかしら……ここにハウスはないし、ただの海岸沿いだけど」
「ねえ、ビートルズはやめてくれる。クラシックか、あるいは無音が好みだわ」助手席に座っていた黒髪の女が言った。彼女はサングラスをとると、きらびやかな青色の瞳を隣の席に座っている女に向けた。
金髪の女はゴールドのマリア、あるいは単にマリアといった。マリアは小さく溜息を吐くと、車内のラジオの音を切った。
「少し外に出ましょう。散歩したいわ」黒髪の女はアンジェリカといった。アンジェリカには程の良い空想癖がある。彼女の空想の中では、彼女が目前としている光景は過去の残酷なる思い出と想像上の生き物(ユニコーン、人の夢を喰うバク、双頭の蛇……)なんかが混合されるのだ。そういったアンジェリカの空想はやがて彼女の思考を離れて大空に跨る雲の一つになる。ゴールドのマリアは軽薄な、あるいは実に素っ気ない恰好をしていた。セックス・ピストルズのジャケットがプリントされた白地のTシャツに、デニム生地のショートパンツを履いていていかにも寒そうだった。腰に巻いているベルトは本物の蛇の皮でできていた。彼女はそれでいて純粋に美しいところがあり、おまけに世の中の何事も信じがたかった。彼女が与えるものは愛。受け取った後に、人は無言で返したり、名誉を棄損したり、あるいはお礼にとシルバーアクセサリーを返礼してくれたりもする。愛がそのようなどうしようもない性格であることは、ゴールドのマリアには経験上よく分かっているつもりだった。
黒髪のアンジェリカはいつでも過去の追憶に囚われる。ついこないだはマリアと一緒に農村の丘陵地帯までドライヴした。見晴らしの良さそうな場所で車を停めると、遠くにはのんびり広がる牧草地が彼女たちの心を和ませた。タンポポシロツメクサ(これは春?それとも初夏?)が生い茂った草地の上に寝そべりながらマリアとアンジェリカは優しく愛し合った。二人とも口づけが好きだった。草の匂いが服に絡みついて充満していた。傍には大きな広葉樹がたっていて、やがて南下を極める太陽にも飽き飽きするとアンジェリカたちは木陰に逃げて夢の続きを見た。アンジェリカはそこで白い立派な鬣をしたライオンを見たのだ。ライオンは静かな瞳を据えて、言葉を口にした(!)。「そなたは目覚めるべきではない。記憶にひきずられたまま生の沼地にのめりこんでいくことになる」
アンジェリカはそれを聞いて真っ青になった。
「どうぞ、私にお導きを」
白い鬣のライオンはこう言い放った。
「そなたの隣人の血を渡すのだ」
アンジェリカは横で未だ夢を見ているマリアの柔らかい寝顔を見つめた。彼女はあまりに静かだ。そして美しい。
振り返ると、もうそこには誰も居なかった。アンジェリカの思い出。
「ねえ、聞いてるの」
ふいにマリアの声がした。ここは海岸。波は次第に打ち寄せ、アンジェリカとゴールドのマリアは海岸沿いをあてもなく歩いている。
「えぇ、大丈夫」アンジェリカは言った。
「あなた、“本体”っていう言葉、あるいはその概念の響きを考えたことはある?」とアンジェリカ。
「ホンタイ? また哲学の議論ね。いいわよ……ソクラテスは死に向かって生きていた。人は死を恐れる。ゆえにソクラテスは非人なり……それで、本体って何?」とゴールドのマリア。
「世界の真理のことを、世界の本体っていう言葉に置き換えてみるの。哲学の共通の出発点、『私とは何か?』そして『世界とは何か?』という問いは全て、世界の真理ないし本体めがけて発されるものよね。世界に本体のようなものがあると前提して、その探求をちまちまとやってきたのが哲学の営みなわけ」
「それはごく自然に頷ける話ね。本体の議論のポイントは何?」
「哲学者たちは真理=世界の本体は何かという問いに対して、火であると答えたり、水であると答えたり、あるときは意味、あるときは言語、あるときは『存在』、または『真理は存在しない』という答えも流行したけど、最近の哲学者はそうした答えを見直して、たとえばカントに注目するの。カントの哲学って、まぁ一番俗流に言っちゃえば、主体的人間は色眼鏡のようなものをかけて世界を認識しているってことね。カントは人間の掛ける色眼鏡(感性―悟性―理性)に統一を求めたけど、色眼鏡は一つではなかった、それが現代の理性主義の崩壊。」
「それもありがちな話ね。それで?」と退屈そうにマリア。
「話はここからよ。つまり、私たち人間は何らかの色眼鏡を掛けることによってしか世界を認識できない。そこからしかも世界の真理=本体があるかどうかを議論している。でもね、私たちは色眼鏡を外すときだってやってくるかもしれない。あるいは色眼鏡が外れてしまうときが」とアンジェリカ。
「色眼鏡は人間に特有の形式ないしは内容ね。それはつまり、私たち人間の視点からすれば、人間は人間以外の事物の認識(視覚、感性、思考……)ができるか、つまり人間は非人間に「生成」れるか?という問いでもある。一方、世界(宇宙、地球、社会……)の側からすると、そもそも世界は存在するのかしないのかという存在論的な問い……。『私たちにとっての世界』ではない限りでの世界。もしくは、存在するとして、人間は今までと全く違うありかたでの世界と関わって生きていくことができるか、という真摯な問い……」とマリア。
「あれ、私“本体”なんて言って、自分の議論の筋道が分からなくなってしまったわ」と急に屈託なく笑うアンジェリカ。
「……でも確かに『本体』が真理っていう古典哲学の話が新鮮な風に整理できるみたいね。真理問題が別次元に移行し、アップデートされるような」とマリア。
「もう少し歩きましょう」とアンジェリカ。アンジェリカは紺色のワンピースを着ている。アンジェリカは小鹿のように細いのに、サラブレッドの馬のように背が高いのだ。
二人の会話は「本体」の周辺をめぐってさらに錯綜していく。
「ねぇ、アンジェリカ。それでも『本体』が『実在』するのだとしたら。いえ、本体や真理があるのなら、あなたにね、私はあなたを本体として愛すわ」そうゴールドのマリアは言った。二人の言葉はどれも実体として頑ななものがなく、さながら中身は空虚なサボテンのように委縮し、枯れ果てて、闇の中の藻屑へと消えていった。そう、次第に雄大であったはずの夕日は立ち消え、あの漆黒の闇がマリアとアンジェリカの背中に忍び寄った。夜はやさし。果たしてそう言えるだろうか? なぜなら二人は唯一つの「夜への多大なる信仰心」を持っていたのだから。
「……あなたを本体として愛すわ」もう一度ゴールドのマリアは言った。今度こそは自身の言葉は確かな光を帯び、暖かみのあるものとして闇夜の黒を中和した。
「……私たちには美の中を生きる理由がある。美として生きる宿世よ。私たちは揃って美の中に溺れるわ」アンジェリカの思い出の中の会話。現実と空想の境目。
「うつくしいという響きが好きよ。美しさそのものよりも」とゴールドのマリア。
「それは見かけを愛しているということにならないかしら。私たちはどこまでいっても本体にたどりつかないんだわ」と思い出の中のアンジェリカ。
「美しさの中に歪みがある。あなたは歪んだ音をも必死に聞きとならなくてはならない。それはどんなに怖ろしい?」
「分からない、分からない。歪みは醜く、私のすべてを残酷に貶めるわ。私はそうやって生きてきた」
白い息が二つ。
「信仰の上にあるものは虚無。教義は気休めにしかならないから」とゴールドのマリカ。
「人間はいつしか死ぬものね」と思い出の中のアンジェリカ。
「でも……私たちは『夜への信仰』を共にしている。夜はいつだって私たちを裏切らない。夜は偉大よ。光は夜から生まれるの。いいえ、すべての日と生きとし生けるものは夜の時間のなかからやってくるの。夜が朝を生み、そして昼は夜へと絶えず帰っていく。夜は全てのもの、生命と非生命の母よ。そして私たちは夜が訪れる時だけ愛しく結ばれるの」
思い出の中のアンジェリカはマリアの手をそっと握った。マリアの手の中は信じがたいほど冷たく、アンジェリカはたまらなく愛しい気持ちになった。
「私も同意するわ」ゴールドのマリアもアンジェリカの手を強く握り返した。「私たちは『夜の果てへの信仰者』よ。闇を求め、その中で彷徨し、またいつかは闇の中心に戻っていくことでしょう」
どれくらい歩いたろう。やがて二人が乗ってきた車も遥か彼方に見えなくなった。気持ちいい海岸通りには全くといっていいほど人通りがなくなった。そのうち、向こうから大きな花束を抱えて静かに歩いてくる少女の姿が見えた。マリアは顔をしかめた。花束を抱えた少女は日本人か、少なくとも東洋人の顔立ちをしていた。深紅に染まった薔薇の花をいっぱいに抱えた日本人の少女は白い大ぶりのワンピースを着て、両耳には目につきやすい美しい金のイヤリングをつけていた。花束の少女は狂おしくなるような真っ直ぐな瞳でやがて二人を見つめかえした。三人はしばし沈黙した。
「……あなたは誰?」と、最初にしびれを切らしたゴールドのマリアが少し苛立った表情で花束の少女を睨み返した。花束の少女はすぐには応えず、相変わらず大ぶりの薔薇の花束を愛しそうに両手で抱えながら、やがて口をひらいた。
「私の名前。そうね、私は『ライ』と言うの」
「ライ?」よく聞き取れなかったアンジェリカが同じ言葉を口にした。
「lie. A lie. 嘘。虚無。私は〈lie〉です」
その時花束の少女は笑ったのだ。薔薇の花は少しだけ揺れていた。
「全く分からないわね。どうしてあなたはこんな所にいるの?」
「それはあなたたちだってそうよ。さてどうしてでしょう?」
花束の少女は全く臆することなく二人の前に立ちはだかり、暗闇に包まれていくこの状況を明らかに楽しんでいた。これにはマリアもアンジェリカも苦笑するしかなかった。
「私たちはね……。『夜の果てへの信仰者』なの。単に『夜の信仰者』でもいいけど」思い出の中のアンジェリカがそう言うと、今度は花束の少女は目の色を変えて二人の方に歩み寄った。
「それは素晴らしいことだわ。それは素晴らしい。それじゃああなた方はきっと私の仲間ね? 会えて嬉しいわ。代わりに、いいものを見せてあげる」
花束の少女はそう言うと、右耳のイヤリングをおもむろに外して、沈黙しているマリアとアンジェリカに向けて見せて、そしてそっと道路のアスファルト上に落とした。心地よい金属音がしてイヤリングは下に転がった。
「太陽の誕生よ」
間もなく金のイヤリングは音を立てて、真っ赤に発光した。それはまるで燃える小さな鉄球のようだった。燃える鉄球は周辺の闇をことごとく溶かし、アスファルトは次第にひび割れて、次第に鉄球が放つ光量は凄まじいほどまでになっていった。
「まあ、何と! あなたは闇を光に変えることのできる天使なのね!」
思い出の中のアンジェリカが顔をほころばせると、花束の少女も満足したようにふわりと笑った。
「嘘も真実も全て、暗闇の中でただ一つの姿を現すの。それは闇の色。Lie.そして私はこの世に光と朝を作りし者」
やがて道路の中に落ちていった〈太陽〉はひどい大きさになり、熱量を高めて、三人もろとも海岸通りの景色を全て飲み込んでいった。その間も〈太陽〉は燃えることを忘れず、ますます大きくなって、暗闇を喰らいつくし、大地も、大いなる海も全てそこに投げ込まれていった。
気がつくと、新たなる一日が始まりを告げようとしていた。(了)