書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

潮騒(1)

 Eは海岸沿いを歩いていた。海を眺めに来ていた。
海上はきらめく。時刻は昼下がりで、太陽は完璧にも似た灯を放って水上の銀波を操っていた。Eはしかし物思いに耽っていた。Eは一つの絵画のことを考えていた。エドワルド・ムンクのかの有名な「叫び」についてだ。それは「叫び」についての学術的な考察といったものではなく、何年か前に東京の美術館で開催されていたムンク展にEが行ったときの実際の「叫び」の生の絵がEに与える反省についてのものだった。「叫び」の絵画で読み取れる要素はそんなに多くない。鑑賞者はまず両手を頭のそれぞれの側面にぴっとりつけている奇妙な男性えあしき人物に注意がいく。これは私だ、と鑑賞者自身の意識に強く訴えかけるほどの衝撃である。この人物は絵の中心にあるわけではない。中心から少し右に逸れた位置にいる。この人物は橋の上にいて、橋の向こうにはこの発狂する人物に向かって歩いてくる二人組、帽子をかぶった紳士の連れか夫婦の影が見える。空は赤く染まり、強いうねりを形成している。湖面はゴッホの色遣いのように黄色く光っている。Eは何よりも素直にこの絵と対峙し、この発狂しかかっている人物は私だと「仮定の上で」思いこんだ。何よりも、この人物が右にずれていることで鑑賞者は「発狂しかかる人物」から他の景色へと注意がいくので、いわば「私が発狂しかかっている」のは他の景色の「影響を受けて」かあるいは「発狂しかかる私」が見る景色はこのように(二人組の棒のような影、赤い空のうねり、黄色く光る湖面)映るのだという風に、発狂しかかる私と景色との強い関連性があることに気付くのだ。Eはとりあえずこの人物の心中を一言で答えよと問われたら「実存的不安」か「狂気」以外のなにものでもないと思った。しかし、「叫び」のテーマが「実存的不安」であるわけではないだろう、とEは考えた。つまり、この人物はもうすでに狂っているのであり、橋と湖面も自然にこのように見えてしまう。「実存的狂気から眺めた橋と湖」としての景色を「叫び」は描いているのではないだろうか。理性から狂気に陥る過程としての不安ではなく、すでに狂気に陥った者としての日常風景……Eはもうこのときすでに絵の中にいた。十分長く居座っていたのだ。
 Eが東京に居た頃長く付き合っていた女性がいる。その女性は一緒に訪れたムンク展の目玉の「叫び」の絵の前で丹念に何分も時間をかけて鑑賞しているEを見て、興ざめした。なぜならその女性にとっては「叫び」は得体のしれない気味の悪い絵としか映らなかったからである。Eは「叫び」を堪能しながらにやにやと微笑することすらあった。冷めた女性の視線に気付いてEははっとした。ムンク展を出たあと、二人はこざっぱりとした喫茶店に入ったが、二人の会話はおのずと重く、口数も少なく、やがて怠惰なだけのものに成り下がっていった。女性との決定的な亀裂が生じたのはあのときだったとEは思った。僕が「叫び」を見てあの人物は僕だと思ったこと、そして狂気の中にいるならば景色はこんな風に感じられて当然で、理性の介在することのないこの心地は何とも自由で美しくあるか、と思ったこと。