【哲学】竹田青嗣の哲学について——ニーチェ論
昨年(2017年10月あたりだろうか)、哲学者であり評論家の竹田青嗣さんの主著と呼ばれるであろう様な大作が書店に登場した。
- 作者: 竹田青嗣
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/10/17
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- 作者: 竹田青嗣,吉増剛造
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2017/10/17
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一冊が600頁を超えるほどの大作の、二巻本である。タイトルは『欲望論 第1巻「意味」の原理論』、そして『欲望論 第2巻「価値」の原理論』。非常にシンプルなタイトル付で、そして「意味の原理論」と「価値の原理論」というサブタイトルからも分かるようにかなり体系立てられて章目構成をなしている。これは、竹田先生、ある種の真理に到達=解脱しちゃったのか!? と思うくらいの、大々的な事件であるように僕は思った。が、世間の反応はイマイチというか、数少ない評者が褒めたたえているが、あとはこんな大作を誰が真面目に読むものかと腹を決めているのか、これだけの「真面目な」哲学体系書に対する著名批評家の反応はあまり聞かれてこない。
さて、僕は現在第1巻の500頁くらいのところまでちまちま読んでいるのだが、叙述がニーチェのアフォリズム形式を意識されているのかワンセンテンスで区切れていて非常に読みやすい。だけど、言っていることは大まじめにすごいことだよなぁと思わされる、何より著者の「覚悟の具合」を生で体感できるかのような作りである。
細かい議論については省く。というのも、竹田さんは繰り返しが多いので、その繰り返されている記述こそがキモであることが一目瞭然だから分かりやすい。
竹田青嗣の『欲望論』の(少なくとも第1巻)骨子は、ニーチェの救いだし=掬い出しとフッサール批判と継受の2つにあると僕には思われる。
竹田青嗣が現象学、ことにフッサールとハイデガーの現象学に対して敏感なのは、彼が出しているたくさんの新著内容からも伺える。
しかし、フッサール批判と発展という課題以上に大事なのがニーチェなのである。 僕は、恥ずかしながら竹田青嗣がニーチェを(古代から近代のあらゆる哲学者の中で唯一”救う”に値する哲学者であると)推していることを、僕は『欲望論』を読むまで知らなかった。
こんな偶然もあろうかという具合で、さきほどチェーンの古本屋に行ったら、なんとこの本が100円を切る値段で売られているのではないか。なんということだ。
- 作者: 竹田青嗣
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1994/09/01
- メディア: 新書
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僕は、ニーチェを『ツァラトゥストラ』の名訳で読むことでなんとか入門したつもりで、その後ちくま文庫から出ているニーチェ全集の幾つかの本を頑張って買ったのだが、これがこれが本当にむずかしい。 『人間的な、あまりに人間的なⅠ』、Ⅱ、『曙光』など。難しさの感じというのが、フーコーの博覧強記のようで難しいというより、使ってある言葉や単語はそこまで難しくもないのに、文章として読むといったい何をいわんとしているのかサッパリ伝わってこないのである。だから僕は半ばあきらめて『人間的な』などの著作をある種の散文詩として怠惰に読むことすらしていたのだが、この竹田先生の『ニーチェ入門』をぱらっとめくっただけでもなかなか適切な位置まで連れて行ってくれそうな本である。
竹田青嗣は日本現代思想界隈の中でも脇役のようになってしまっているんだと思うけど、一人のにほんの哲学者の出した本をある程度まとまって読むと、たとえばドゥルーズだとか、カントだとか、なじみのある日本語で新鮮なアプローチをすることにつながるのではないか、と実体験からも思うこの頃です。とりあえず、ニーチェ全集いったんやめて、また入門レベルに戻ります笑
misty