書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

マゼッパ、鬼火、悲愴

小説の一つのネタとして書きました。最近文章を発表できていなかったので自分を揺り動かすためにもブログにしました。

■マゼッパ、鬼火、悲愴
 フランツ・リストの超絶技巧練習曲・第四番ニ短調「マゼッパ」は闇への信仰の序曲、すなわち闇への信仰の〈道〉を誘ってくれるリトマス紙である。マゼッパは少し華麗すぎるところもあるかもしれない。だからそれはまだ現世——私たちが言う所の……もっと砕いた説明が後に必要——の軽やかしき美をも有している。マゼッパは序曲、誘いにすぎない。艶やかなるピアノの前に座して圧倒的な振舞いの中リストを弾きたおすピアノストを想像せられたい……美しき黒鍵……白鍵の中でそれは光輝いている。白と黒、モノクロから成す無限の夢幻。しかし、マゼッパの熱は本物だ。あれは熱分子から生まれたものではない。いや、この説明は正しくない。熱―分子なるものの存在を我々は真摯に再考せねばならないが、とりあえず熱の大元があるのだと仮定して、それは闇なのである。熱、暖かきもの、暖かくして激しく畏怖なる唯一人の〈王〉の称号に相応しい熱の主は、闇なのである。熱は闇から生まれる。悲しみ、悲哀、激昂、嘆息……それらすべてをマゼッパの熱は含めている。激しく鳴り散らす高音とトリル。熱の粒子をリストは描いている。それがマゼッパだ。もう一つ、マゼッパの誘導にやさしく誘われたら、第五番変ロ長調「鬼火」の出番だ。鬼火はもうちょっと繊細な炎だ。繊細というか、より深く、味わいを変え、炎の中に悶えるものの身体を恍惚に染め上げる。それはもうほとんど悪魔の仕業である。もちろん、闇と悪魔は密接に結びついている。まだ闇と悪魔との関係について我々——心臓部(ブイレン部)——は十分な理論を得ていない。しかし悪魔は闇を利用し、多大なる効果を発生する。闇はそのかわりに悪魔たちを最大の僕とする。鬼火に悪魔の声を聞きとるべきか? 私たちは結論を急がない。マゼッパから鬼火へのスリリングな移行がここにはあるだけなのだから。最後を締めくくるのはベートーヴェンの三大ピアノソナタの一つを飾る「悲愴」である。私たちの関心の的である闇への信仰を語るときには特にそのなかでも第一楽章が重要である。「悲愴第一楽章」を正確に理解するためには、ある種の狂気が必要である。狂気。世の中には、狂気という言葉がありふれている。しかしそのとき、狂気とは単に正常から外れたことしか意味していない。つまり、正常でないことがあらゆる狂気の範囲に含まれている。しかし、私たちはある確実な状態を「狂気」と名指す。それが闇への信仰の真のはじまりである。悲愴のアップテンポと静への回転運動のうちにそれはある。リストの超絶技巧であるところのマゼッパと鬼火をよく聴いたとき、ベートーヴェンの悲愴は真の姿を纏って私たちの眼前に現れ出る。闇への信仰を手にしたものはみなこのように静かにかつ強烈に狂っている。後に見るように確かに私たちは世界の革命を目指す。革命家は狂った者にしかなれないのだ。私たちが人間たちの間で数少なく尊敬する者の一人はマルクスベートーヴェンである。闇の中にいるマルクス、闇の中にいるベートーヴェン。でないと悲愴の第二楽章のような曲は決してかかれなかったであろう。美しく静かに狂った曲として私たちは第二楽章を理解する。それは、もう起こってしまった後の、悦ばしい事態なのである。第一楽章と第二楽章との間に信仰への入門は導きを終える。私たちはもうベートーヴェンを好きなように解釈していい。マルクスを好きなように理解していい。何故なら私たちはベートーヴェンを知っており、マルクスを十分に知っている。それらは聖典というより、トイレットの中にある蓄えられた良い芳香を漂わせるまっさらのトイレットペーパーのようなものである。私たちはベートーヴェンを、リストを「使用」して闇への信仰を高めるのだ。マゼッパ、鬼火、悲愴ソナタを聴いたなら、私たちは次に必要な交響曲を知ろう。(了)