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世の中には、矛盾律(カント)に陥る命題をもっている概念や事物がたくさん存在する。
たとえば、愛。
愛は、人を救済する。 あまりに自明すぎて、これを出発点(原因)とするのは馬鹿げているようにすら見える。
そして同じように、愛は人を傷つける。これも自明すぎる。
これを論理レベルに持ち込むと、愛は人を救済するのか破壊させるのか分からなくなり、曖昧なものとなってしまう。
アウフヘーベン(止揚)というのはカント―ヘーゲルの哲学の概念だが、このアウフヘーベンを少し考えてみよう。
愛は、人を救済する。 反対に、愛は人を破壊する。 論理レベルでは解決できない。
しかし、これらはいずれも真であることを、私たちは知っている。 愛は人の最大の慰めにもなれば、たった一つの愛の過ちが人の死を招くことすらありうることを、小説を通して、実経験を通して、知っている。
ここから帰結できるのは、愛は異常なものである、ということである。愛は法外なものである。愛はとんでもないものである。分かるようで、分からない。
しかし、これを私は、結論のまま放置しない。 愛が法外である、ということを、前提にして、さらに思考を続けてみたいのである。
論理レベルでは矛盾に陥ったが、感得レベルで、別の角度の帰結を引き出し、そしてそれをさらに再出発点とおく。
これらの操作を、私は矛盾律の前提的感得として、アウフヘーベンの一種類として概念規定しておきたい。
もっとも、こんなことはすでに別の用語で考えられていそうだが(笑)
愛が法外なものであるから、愛は確かに論理学や論理を応用した学問の考察対象には向かなそうである。しかし、愛が法外なものである、という強い認識を出発点(原因)として、そこから様々なことがまた新たに帰結できるに違いない。
もうひとつ、例に出したいのは、いわゆる(日本の)お笑いである。
お笑い。笑い。
まず、矛盾となるような論理レベルで記述する。
(1)お笑いは、人を感動させる。
(2)お笑いは、人を異常に傷つけ、その差別構造を温存し、ツッコミがボケを叩いたり、あるいは空気を作っては「和の強制力」とでもいうようなものを規範化したり、あるいは笑いとは嘲笑や嘲りをどうしても保持している、などなど、人を破壊する。
(3)矛盾律が導かれる。
ここから感得レベル(感覚レベル)にスライドすると、笑いもまた、人の生にとって何かとてつもなく尋常でないもの、法外なものなのである。 お笑いは爆発だ。革命だ。地獄だ。そして、神だ。
これを強い再認識として措呈し、笑いについて新たな角度でまた思考したり体験したりする。これで、「笑いとは何か」と考え出して結局陥ってしまう以上の矛盾を止揚して、「お笑いは何か法外である」ということからお笑いをさらに人の生と結びつけて思考したりパフォーマンスしたりすることができると思うのである。
非常に雑記。