『アンナ・カレーニナ』ノート(4)
「アンナ・カレーニナ」に関するメモはこれでお終いです。遂に読んでしまいました。
深い喜びと、もうこの物語の続きを味わえないということに、妙な寂しさを覚えます。
まず、アンナとウロンスキイの悲哀めいた一シーン。
「アンナ! ぼくの愛の問題がここに何の関係があるんだ……」
「そうよ、わたしと同じくらい愛していてくれたら、わたしと同じくらい苦しんでくれたら……」とおびえた目で彼を見つめながら、彼女は言った。
レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』(集英社;世界文学全集22)pp515 第六部に入る直前
アンナのこの台詞にはぞっとしました。アンナはもともとどこか狂気じみた精神を持っているきらいがあって、それは本書のところどころ、そして大事な所にもあらわれるのですが、そんなアンナを受け止めることのできないウロンスキイが居て、切ないですね。
その数行後には「二人はすっかり仲直りして……」とあるけど、そうなのか、仲直りできたのか!? と疑ってしまうほどです笑
[アンナの心中]『あの人に許しを哀願したりして。あの人に屈服したんだわ。自分の非を認めたんだわ。どうして? わたしは、あの人から離れては生きていけないのかしら?』そして、彼から離れたらどうなるだろうという、その問いには答えずに、彼女は店々の看板を読みはじめた。『事務所。倉庫。歯医者。そうだ、ドリイにすっかり打ち明けよう。ドリイはウロンスキイが嫌いだから。恥ずかしいし、心が痛むだろうけど、でもすっかり言ってしまおう。ドリイはわたしを愛してるから、ドリイの忠告にしたがうことだわ。誰が屈服などするものか。わたしを教育するようなことは、許さないわ。フィリッポフの店、巻パン。この店はこね粉をペテルブルグに出してるそうだわ。モスクワの水はそれほどいいのね。ムイチーシチ井戸店。ブリン』すると彼女は、遠い遠い音、まだ十七歳だったころ、叔母に連れられてトロイツァ大寺院に行ったときのことを思い出した。……
『アンナ・カレーニナ』pp706
ここは馬車の移動中でのアンナの心中ですが、店の看板を眺めながら自由に動く心の描写は、イギリス流「意識の流れ」の手法の先駆的なバージョンとも言えると思います。ここだけでなく、他にも「意識の流れ」に近いスタイルでの描写がありました。
あとせめて二つくらいは引用したいのですが、結局『アンナ・カレーニナ』という大作を読むという行為には何も及びません。
こういう小説体験は僕にとって初めてだったかもしれません。まだうまく言語化できない。素晴らしい映画を10本まとめて見たような、本当に深い余韻があります。こういう本が読めて良かった。
これからも、大作を読んでいくときにメモ書きにして引用をつけていきたいと思います。