書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

法学から見た世界#1 憲法1

今回は僕が大学のとき法律学をかじっていたにも関わらず当時買っていた教科書はいまや散乱し、勿体ないままだと思ったのでもう一度教科書を読みながら復習したり法学を通して論理的な思考を鍛え、他の学問知識からのアプローチも少しできたらいいなと思ってはじめます。
 といっても気ままやっていきたいので学問的な厳密さにはキビしいところがあると思いますがもしひどいことを言っていたら忌憚なくコメントなどで指摘をくださればありがたいです。

 二日前から実家に散乱していた教科書群を整理し(笑)、とりあえず憲法民事訴訟法の教科書最初から最後までいちおう読み直してみようかなあと思っているところです。

#1は憲法学。
テキストは

 長谷部恭男憲法』(第四版)
憲法 (新法学ライブラリ)

 これは今現在第六版まで出ているのですね。さすがに研究者に近しい大学の関係者とかじゃないと、今回はこの部分の記述が大幅に追加されたからとかいう情報は全然分からないですが、基本的に版がたしょう古くても憲法の本質をきっちり掴んでおきたい程度なので、第四版だろうがきちんと勉強させて頂きます。

 憲法の教科書と呼ばれる書籍はそれこそ何冊もあり、学生としては何を選んだらよいかというのが一つの悩ましいところ。僕は憲法講義では3つか4つくらいの教科書の中から選ぶとよいと先生に言われたのが、まぁまずは芦部本、それから二冊のガッツリしたものとしての四人本(以下参照)、

憲法1 第5版

憲法1 第5版

それから樋口陽一先生の本でした。
憲法

 講義の先生(の名前は伏せさせてもらいますが)の説明いわく樋口先生の教科書はとてもいい意味でクラシカルであり、読みごたえがある。決して詳しくないかもしれないが本質的なことが随所に書いてあるみたいな紹介のされ方で直感でこの人の教科書が良さそうだなと思って選んでました。もう今はボロボロとなっていますがまたいつでも読み直したいなぁ。


 さて長谷部本、今日は序盤の序盤、「憲法とは何か」的なところ(pp.22、章立てだと1-1-4)くらいまでのところしか読んでいません。

しかしのっけのところから長谷部節が全開、他の教科書では見られないような論理付けが視点があると思いました。それは憲法のいちおうの正統性の記述です。

 通常の理解、あるいは定説とされてきた芦部先生の本では、憲法が政府を縛り国民の権利と義務の基本を制定するというのは自由民主主義政治との関連から理論づけていたと思います。しかし長谷部先生はその民主主義うんぬんは使わない。
 自由民主主義は第二次世界大戦を経て日本のみならずアメリカや西洋など広範にわたる諸国の基本原理となったきらいがありますが、やはりそれでも政治体制としては一つの立場というところがあり、もし今後日本が違う原理にもとづく政治体制にすすんでいった場合、芦部先生の理論づけでは対応ができません。実際に現在の安倍政権は自由民主主義からみると甚だしく逸脱している動きがあるので、それもあって憲法改正がこれまでになく国政の大きな争点になっているのでしょうが。

 長谷部先生は、憲法憲法であるためのポイントを3つに分けて説明していました。

(1) 公共財のサービス&徴収  

 つまるところ政府は国民に電気や社会保障、その他もろもろのライフラインを最低限確保しなければならない。これは基本的人権の尊重という条文からも内在的に強く論理づけられていますが…… そのライフラインを支給するために、税金という形で必要経費を国民から平等に徴収する必要がある、というものです。
 もし政府という存在がなくても日本の社会状態を想定することはできますが、そのような社会契約(ホッブズ、ルソー、カント、ヒュームなど)以前の状態ではひとりひとりの経済状態や生命の危機などにおいて的確に守ることは不可能であろう。 よって社会契約をなして、最低限のライフラインを国民全員に支給し、そのためのお金を国民から徴収してサイクルを回す、といった感じでしょうか。この説明だと、ルソーの社会契約の概念に依拠しているのかなとおもいます。

(2) 公共財のサービス以外にも政府がやることがある、それは調整問題だ、というものです。道路は左側通行にするか、右側通行にするか、それ自体はどっちでもよいのだがどっちか一つに決めておかないと道路状況がむちゃくちゃになるから、あえて政府がこれ!と決めておいて、あとはみんなに守ってもらえれば社会が回る、というものです。そのために道路交通法という法律を制定しなければならず、それには政府の授権、法律を制定するパワーが与えられる/認めてもよい、という考え方になると思います。

そして
(3) 政府の力の限界、個人の尊厳

 (1)(2)の仕事のために政府はその力量を発揮するわけですが、それが無制限だといけない。なぜいけないかというと、われわれ個人には何人たりにも侵害されてはならない自由で不可侵な、つまり大切な領域があるからです。 いくら政府が国政管理のために土地を収用するからといってその土地に住んでいた人たちのその後の生活はぜったいに侵害されてはなりません。そのようなことが簡単にできないようにしておくことと、仮にやむをえない理由で政府が土地収用に踏み切ったとしても、たとえばその土地を立ち退かなければならない人は損失補償という形で直接政府に請求できる(国家賠償法、損失補償)という制度にしておけばいちおう安心だろう。

 ということで政府の力には限界があり、それは歴史の流れが到達した立憲自由主義的な思想、すなわち個人の尊厳という最大の原理があるからだ、といえます。(3)が大事です。

 まとめると、政府は(2)調整問題や(1)公共財のサービスのために費用を国民から徴収したり権威的に法律を制定したりすることがあるけれども、(3)しかしそれは個人の尊厳を決して損なわない限りにおいてなされなければならない、ということです。このことを長谷部先生は憲法の本質とみています。

 憲法憲法たるゆえん、つまり「憲法の本質」という問題でしたが、民主主義制度の理論を見事に回避し、すごくスッキリした説明で見事だな~と思いました。長谷部先生の調整問題の話はいつも好きです(笑)

#1はここまで。