書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

不透明さという苦しみ――鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』

六〇〇〇度の愛 (新潮文庫)

六〇〇〇度の愛 (新潮文庫)

 鹿島田真希さんは僕の好きな作家なのだが、色々苦労が多いみたいで、「六〇〇〇度の愛」では三島由紀夫賞を受賞しているが、これが出た年に芥川賞を受賞していないということはよっぽどの強作がその年の受賞作だったのだろうと推測している(調べてもいないが)。これよりも「冥途めぐり」の方がより水準が高いとは僕にはあまり思えないが、それほど素晴らしい作品だと僕は思った。

 鹿島田真希さんはある種の男性的な作家に毛嫌いされている気がする。ここでその作家の名前を挙げる気は毛頭ないが、Amazonのレビューを見るにしても的外れな低評価ばっかりでこれには本当にびっくりする。芥川賞を取ってもこの調子だからなおさらびっくりだ。
 しかしそんなことは作品に関係ない。僕は「六〇〇〇度の愛」が素晴らしいと思ったからこの作品を取り上げる。

 女は混沌を見つめている。なにか深刻で抽象的なことを思いついてしまいそうになり急いでそれを中止する。やがて我に返る。彼女は努力する。正気に返ろうとして。その努力は並大抵のものではない。表面に細かい泡ができては割れていく。
 ステンレス製の鍋の中ではカレーのルーが沸騰寸前にまで温められている。鍋はあと五分温めればいい。ルーは甘口になっている。子供のためだ。女と、健康で善良な夫と、できのいい人材になるのか、まだ将来が約束されていないほどの小さな子供。そんな三人のカレーだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 子供が女のスカートをつかむ。ママ、お腹空いたよ、そう言って。もうすぐできあがるわ、女は答える。お腹空いたよ、再び子供が言う。女は子供にゼリー、一口で食べられるほどの小さなゼリーを与える。子供はそれを吸い込む。
――鹿島田真希『六〇〇〇度の愛』(新潮社、単行本2005、文庫版2009)pp.6-7

 この作品では会話中においてすら一切のかぎかっこはない。地の文に台詞が回収されていく。冒頭から漂う緊張感は、この小説の終わりまでずっと続いていく。

冒頭の一文、「女は混沌を見つめている。」 それは視覚的にはカレーのルーなのだが、鍋の中でルーはふつふつと不機嫌に煮えていく。それが「混沌」という言葉で換喩されている。
 「六〇〇〇度の愛」は、「女」と呼ばれる主人公が逃避行で長崎に行き、そこで若い青年と出会ってしばしのラヴ・ロマンスを繰り広げる、戯曲めいた作品である。しかし、「女」の頭の中は兄の死をめぐる過去や、キリスト教をめぐる思考でまさに「混沌」としており、しかも会話文だろうが回想だろうがとにかく地の文と一体化して綴られていくので、この文章全体が「混沌」と化していくのだ。
 人間の思考はしばしば愚鈍である。愚鈍でありながら、断片的に幾つかの事物を想起していく。まるでのろまな亀のように、しかし重々しく、「女」は兄の死をめぐる出来事、自身の宗教体験、読んだ本の宗教的な場面などを巡っていく。

 「六〇〇〇度」というのはズバリ長崎に落とされた原爆の温度のことである。すべてが混沌としている中で、生活の中でギラギラと煮立つカレーのルーのようにか、あるいは長崎に落とされた原爆のように、夥しい熱と爆発が「女」の思考を愚鈍に取り巻く。「女」は青年と性交し、彼を愛し、彼に愛想を尽かしたりしながら、この不透明な苦しみの意味を引き延ばしていく。

たとえば「女」がドストエフスキーの作品を挙げて思考するのはこんな場面だ。

 ドストエフスキーの『白痴』。この白痴という言葉はユローディヴィのことを示しているといわれている。彼の作品には必ずユローディヴィが登場するようだ。例えば『罪と罰』ではラスコーリニコフの罪を被ってニコライという男が自首する。予審判事ポルフィーリイはこのことに対して、熱狂的な霊感を得る。『悪霊』では乞食のような修道僧チホンがあたかも聖人であるかのように一目おかれている。最後にはスタヴローギンですら彼の目の前で自らの罪を告白するが、この男は彼の中に未だ眠る傲慢を見抜く。
 東京復活大聖堂には佯狂者のイコンが一つだけある。聖アレクシイという。イコンを説明する古い地図にそう書いてあった。しかし一人の聖人を佯狂者と認定するのは、極めてナーヴァスな問題らしい。……(中略)……
 女の無意識のなかに悪意がわきあがる。愚か者がくれる赦し。その美的な価値を女は見極めてみたいと思う。
――『六〇〇〇度の愛』pp.114-5

 このように、ドストエフスキーのことを語ったり、「女」が過去に訪れた教会についての執拗な記述を巡りながら、「女」は煮え切らない、混沌とした苦しみから救済されたいと考えていく。

 物語の後半から、「女」と青年は長崎の大浦天主堂に訪れる。現実に原爆を落とされた長崎と、「女」の抽象的な思考が重なってより面白くなる。
最初の最初から始まった異様な緊張感を保ち続けていくというのは作品を書く上で非常に難しい事柄だ。しかし、鹿島田さんは一つも妥協していない。会話や回想を織り交ぜた文体にはまったく隙がない。

 そんなうえで、たとえばこんな一節が不意に出てきて、なんて美しいんだろう、て思わされる。この小説を読むことが、不透明な苦しみを生きることでもあり、答えの出ない日常からそっと抜け出して違う世界を体験することなのかもな、と思いました。

 河を照らすのは太陽。直視できないもの。その光線は黒い。兄が、世界が、凝固せず流れていくことの哀しみ。しらけてしまって涙すら出ない。発狂も、幻覚も、暴力もない。ただ漠然と憂鬱であるだけだ。そのあまりにも黒くまばゆい輝きを私は直視できずにいる。言葉。それは流れて私の手の届かないところへ行ってしまうもの。感情。それは直視できない光。生きることに必要なものは皆、私の前で否認されてしまう。私は考える。この河と光を抱えながらなにを話そう。誰を愛そう。だけど私は話しもするし、恋愛もする。狂ったり、死んだりするなんてもってのほかだ。臆病という日常。その生活は支離滅裂だ。思ってもいないことを言ってみたり、好きでもない男に告白してみたり。毎日がオペラ。荒唐無稽だ。
 私は時々、シーツの中に潜る。怖いのだ。いつか自分の日常を後悔することが。オペラのように生きてきた自分に軽蔑することが。そんな私を見て、誰かが、優しい人が心配する。シーツごしに私に触れる。私はその人のことを傷つけたくなる。
――『六〇〇〇度の愛』pp.108-9