書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

美しい不穏 ロベルト・ボラーニョ『チリ夜想曲』

 一緒にしなくていい、とピノチェト軍人が言った。一緒に来たまえ。あとについていくと、屋敷の裏の庭園を望むことができる大きな窓があった。満月の光がプールの滑らかな水面できらめいていた。将軍は窓を開けた。我々の背後から他の将軍たちがマルタ・ハーネッカーについて話すくぐもった声が聞こえてきた。花壇からは実に芳しい香りが立ち上り、庭園中に漂っていた。一羽の鳥が鳴き、すぐに同じ庭園あるいは隣の庭から、同じ種類の別の鳥がそれに応えた。そのあと、夜のしじまを破るような羽ばたきが聞こえ、やがて何事もなかったかのように深い静けさが戻ってきた。歩こう、と将軍が言った。まるで彼が魔法使いであるかのように、我々が大窓を通って魔法の庭に足を踏み入れるやいなや庭園の照明が点り、四方八方にちらばる明かりは趣味がよく美しかった。(『チリ夜想曲』pp.105)


 今回紹介したいのは、ロベルト・ボラーニョ『チリ夜想曲』(白水社、2017)だ。

チリ夜想曲 (ボラーニョ・コレクション)

チリ夜想曲 (ボラーニョ・コレクション)

 パラパラとめくれば分かるように、この中篇作品ははじめから終わりまで「改行が一度もない」。だから、場面転換や、主人公の妄想や錯覚に近い幻覚がたびたび起こっても、どこでそれが入ったのか、気付きにくい。一人の主人公の半生が語られているだけに、場面は展開していくが、そのことを文章レベルではあまり教えてくれない。
 作中には、エルンスト・ユンガーなどの実在の小説家も登場する。おそらく仮想の人物と、こうした実在の人物が混ざった、ボラーニョ特別の手法だ。

 主人公は、「死」の予感にまさに立ち会おうとしている。だから死ぬ前の「告白」を行っているのだが、それだけに不穏な緊迫感がいつも漂っている(改行がないのもそれを手伝っている)。解説の小野正嗣さんが書くように、一体どんな過ちを犯して告白しようとしているのか、というかどんな罪の意識があって告白をしようとしているのか、本作のストーリーを読むだけではよく分からない。だけど、いっつも不穏な空気が流れている。語られていることに、何かとんでもなく不吉なことがあるんだと読者は思わされる。それがすごく心地よい(集中が切れない)。
 文章も美しいものが多かったので、幾つか引用しました。 祖国チリに向けた、ボラーニョ自身の最後の愛情みたいなものがあるのかもしれません。

 それから、彼女なりに落ち着き、穏やかで勇敢な面持ちで辺りを見回すと、自分の家と玄関、かつて何台もの車が停めてあった場所、赤い自転車、木立、舗装されていない道、フェンス、わたしが開けた以外は閉ざされている窓、遠くに瞬く星を見、そして、チリではこうやって文学が作られていくんだわ、と言った。わたしは軽く頭を下げると、そこをあとにした。サンティアゴに帰る道を車で走りながら、彼女の言ったことを考えた。チリではこうやって文学が作られていく、だがそれはチリだけでなく、アルゼンチンでも、メキシコでも、グアテマラでも、ウルグアイでも、スペインでも、フランスでも、ドイツでも、緑濃いイギリスでも、陽気なイタリアでも同じことなのだ。文学はこうやって作られる。文学、あるいは我々がゴミ捨て場に落ち込んでしまわないために文学と呼ぶものが。(『チリ夜想曲』pp.143)

 そのあとには、糞の嵐が始まるのだ。(『チリ夜想曲』pp.146)