書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

Dark Side Of The Moon(現代への批判)

Dark Side Of The Moon(現代への批判)

 ……がない。理念がない。パトスがない。遊びがない。希望がない。「僕らは今度こそ、希望の虚しい氾濫の中で溺死しそうです。」*1 溢れすぎているようで、内容がない。中身がない。総じて、「無い」ことが当たり前になりすぎている。平気な顔で無が存在をする。たとえば理念がないことは恥ずべきことだ。なのに人々は平気で表を練り歩く。「理念をお持ちですか?」「知ったことか、あぁ?」こんなことはもう八十年も前から、いや二千年か、いや世界が始まってこのかた永遠に続いているのかもしれない。第二次世界大戦はいい例だった。椎名麟三の「深夜の酒宴」を見よ。あれと現代の何が違うというのか。酩酊でもしないとやっていられないのだ。世界はあるべき内容を欠いた。人間は人間たる規定を失った。動物的と呼ぶことすら動物に失敬だ。人間の時代などとっくに終わった。「……が無い」の時代か。



第一章 理念の喪失

第一節 規範としての理念

……理念が無い。私たちの理念。規範としての理念。ところで規範と法は違う。ここでは特に〈法〉を現実に制度化されたものとしての法律や社会ルール(条例、マナー)などと捉えてみよう。我々が獲得すべき〈規範〉とは目指すべき理念、カントやヘーゲルが試みた近代の人間像である。〈法〉は一般に「……してはならない」という禁止の形式で書かれる。禁止が〈法〉の本質である。人間には自由がゆるされており、〈法〉の定める範囲内において不自由と罰が課されることになっているが、それは端的に嘘だ。あるいは戯言である。人間が自由であったことなど一度もない。人間は不自由の中で自らの不自由を暴れさせ、人間社会は不自由という名前の監獄であるのだから。
 ところで周知のように、ここでいわれる自由とは、「勝手に何でもしてよい自由」のことではもちろんない。自由とは創造的な権利であり、~することができる、というものだ。許可証である。禁止の反対。まずもって我々人間は何も知らない、無知な存在である。無知な存在は許可証を獲得することで創造的な生を享受することができる。生を行使する。しかし〈法〉たる禁止のバリケードに張り巡らされると、人間は悪心を起こす。〈法〉の網目のほつれを探すのだ。〈法〉の設計の恐ろしいところは、〈法〉というのがひとたび整備されると人知をもってしてもその停止やあるいは撤廃を行うことがなかなかできずにいるということである。この観点からして〈法〉、あるいは法治主義というものも堕落した人間のコントロールの範囲を超えているところがある。法治主義はシステムによって「統治されてしまう」人間社会を呼び覚ますのだ・
 そのような古臭くて堅牢やつ〈法〉の社会に対して、しばしば革命という〈力〉が対抗してきた。革命の概念は我々が求めるべき〈規範〉により近い。こんな状態ではいけない、もっとマシになりたい、そういう声が求めるべき理念を呼び起こす。そして革命は狼煙をあげるのだ。
 それにしても〈法〉に対置されるべき〈規範〉というのは、何を原動力とするのだろうか? それは意志である。理性と良き感性に基づいた意志である。この意志を備えた人間だけを我らは人間と呼ぶべきであった。そしてこの真の人間の時代というものはついぞ来ることがなかったのである。

(つづく)

*1:大江健三郎「死者の奢り」より引用。