書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

キャントユーセレブレイト?(短編)

 エッセイと小説の中間のような書き物です。ご感想、批判、ぜひお待ちしています!


CAN’T YOU CELEBRATE?
misty

 僕と安室奈美恵の人生は一ミリたりとも交わらなかった。僕は安室奈美恵という輝ける実在から何一つ影響を受けなかったし、何物も授かることもなかった。一九九〇年代の彼女の活躍は、ブラウン管を通して僕の生活圏にもちょこちょこ入っていた。あれは僕が何歳の頃だろう、安室奈美恵NHK紅白歌合戦に出場していて、大ヒット曲の「CAN YOU CELEBRATE?」を披露する番になって、花嫁と花婿が歩くウェンディングロードを模した豪華なセットの舞台に立ちながら、彼女は涙をこぼしていた……「こいつ、歌わんで泣いとる! はよ歌え!」と皮肉交じりに僕の親父が怒っているのか嘲笑しているのかどちらとも取れない乱れた情緒を放っていた。僕と親父と妹はちんまりとした食卓を囲み、親父の得意料理の「アジの開き、揚げと大根の味噌汁、白飯」という貧祖だけれど温かみのある食事を取っていたと思う。母親は精神を崩し入院したっきりだった。金髪の安室奈美恵。僕にとって当時の彼女はそれ以上でもそれ以下でもなかった。
 むしろ、二〇〇〇年代に入って彼女が音楽活動を再開してからのほうが、安室奈美恵という実在をよく知れるきっかけにはなった。圧倒的な支持を得た当時の浜崎あゆみ中島美嘉の「歌姫バラード」路線からは一線を画し、MVもスタイリッシュでダンスビートの効いたR&Bなど、クールなカッコよさが目立つ楽曲をリリースしていた。しかし、高校生や大学生の頃の僕はロック・ミュージック一筋、幅が広がったところでアイドルソングという元々が陳腐な領域の中での趣味で、安室奈美恵やプラチナ期のモーニング娘。の良さに気付けるほど聡明でも貪欲でもなかった。
 僕にとって安室奈美恵は、地球の反対側よりも遠い存在だ。彼女が美しくスタイリッシュでカリスマ的であることは分かるのだが、それだけだった。だから彼女の存在は、惑星とか土星とかいったものに近いのかもしれない。地球外=宇宙の事物。しかし、日本人は安室奈美恵を愛してきたとして、いやいやそれは間違いだ! と声を大にして言える人もなかなかいないだろう。僕は安室奈美恵という存在をいつも損なってきた。
 仮に、人ひとりが生きる上での世界の総価値を100とおいてみよう。厳密な意味合いにおいて、たとえば「私は酒とタバコと女によって構成されている」という人がいるのだとすれば、その人(100)=酒(33)+タバコ(33)+女(34)といった定式が仮に導き出される。これは極端な例だが、要するに「私/僕の人生はこの瞬間に凝縮されていると言っていい」とまで言えるほど幸福の中に至れる体験、趣味、嗜好の比重によって100の構成の仕方が変わってくるということだ。
 僕の趣味嗜好、幸福や勝利感の中に至れる体験は……と語るよりまず何より、僕は安室奈美恵という輝ける存在を完璧に損なっている、という出発点を大事にしたい。そういう意味では、僕の人生の総価値は、(100―安室奈美恵)と上限が決定されてしまっているのだ。たとえば「私は安室ちゃんの為に生きている!」と純粋に言えるファンが居たとしよう。その人にとっては、人生の総価値(100)=安室奈美恵、したがって安室奈美恵の数値化された価値は100なのだ。安室ちゃんが全て! という価値表明を取っている人は、安室奈美恵の良さが一ミリも共有できない僕の事なんか、まさにゼロなのだ! なぜなら僕の人生の総価値は、(100―安室奈美恵)、ここで安室奈美恵の数値化された価値を100とすれば僕の人生の総価値は計算通り100―100=0、となるわけなのだから。
 安室奈美恵は本当に客観的に個人一人の人生の総価値の上限を低めるほどの価値なのか?という反論もあるだろう。しかし、僕は自分の直観において、自分の人生に足りていないもの、自分というちっぽけな存在がちっぽけな存在のままであり、低い理解力、低い人間性のままの自分なのは、要するに安室奈美恵という人を全く理解できていない例に現れているのではないか、と考えているのだ。前述の通り、僕にとって安室奈美恵は地球の反対側よりも遠い存在だ。でも、その彼女の美しさや輝きの理由は何となく分かる気がする。それでもピンとこない。ここに、僕という人間性の徹底的なまでの限界があらわれているような気がするのだ。そこまで気付いて僕は必死に仮に得られた定式をノートに書き込む。
   僕の人生の総量=100―安室奈美恵
すると猫のきーちゃんが現れた。きーちゃん、ないしきーは僕の実家のペットである。毛並みが黄色だから「きー」という単純な理由だが、この猫は少し体重が重く、オスなのだが、のんびりというかぷっくりしていて可愛らしい。僕はきーのふさふさした喉を撫でた。ニャーと鳴く。ちなみに、我が家の猫たちはちょっとした秘密があって、みんな化け猫なのだ。だからという訳でもないが、化け猫のきーちゃんたちとはたまに会話を交わすことができる。今は僕がノートに色濃く書きつけた「僕の人生の総量=100―安室奈美恵」という文字をじーっと見て、何か言いたげな様子。僕は仕方ないのでこの定式の意味を簡単に説明することにした。
 「あのね、きーちゃん、自分の人生の幸せな部分、良いと思える部分の全てを足したものを100だと考えるの。例えば僕は、お寿司を食べるといつも幸せな気持ちになれる。僕の彼女は焼き肉を食べるのがいつも幸せだと言うけれど、僕はあまり賛成じゃないな。こういうとき、お寿司は20ぐらいの価値があって、焼き肉は0、つまり人生の総量には貢献してないというわけ」
 ニャーンと小さく喉を鳴らしたあと、きーは少しだけ眼を見開いて(僕はいつもこの瞬間が怖い)、喉から言葉が喋ることができる状態にまで素早く変態をとげた。まぁただの顔が大きい不気味な猫なのだが。
 「うーん、分かるような分からないような……それで、この『100-安室奈美恵』っていうのはなぁに?」
 「あぁそれはねぇ、つまり僕は安室奈美恵という人の価値が全然分かってないんだ。でもそのことで僕は人生そのものを少し失っている気がする。それで、僕の人生の総価値が100だとして、僕は安室奈美恵という絶対的な人の価値を全く共有できない、損なっているわけだから、僕の人生はもともと100から安室奈美恵を引いたものなんだ」
 「……ますます分からない。初郎兄ちゃん頭おかしい」
 「そりゃあひどいよ」
 「安室奈美恵って人が誰だか分からない。あれ、お兄ちゃんが最近うるさい、テレビの広瀬すずって人?」
 「うぅん、まぁそうだね、テレビの人だよ」猫はテレビに興味はない。
 「ぼくは広瀬すず安室奈美恵も全く興味ないな。猫はねぇ、人間にはほとんど興味ないんだよ。分かる?」
 「知ってる」
 「ぼくはねぇ、カツオブシと牛乳が大好き。魚! 魚魚魚!! 大好きだよ。あとお母さんも大好きだね。あとはねぇ、お昼寝だね。雨は嫌いだよ。お風呂なんて大嫌いだよ。まぁ、そんな感じで言うと、僕の人生は、カツオブシと牛乳と魚とお母さんとお昼寝でできているのかな」
 「じゃあ、

きーの人生の総量(100)=カツオブシ(20)+牛乳(10)+魚(30)+死んだお母さん(20)+お昼寝(20)

って感じなのかな? きーは本当にお母さんが大好きだもんねぇ」
 「今でもね、お昼寝でよく見るんだよ、お母さんがいた頃のぼくたち兄弟が競ってお母さんのお乳を飲んでいた頃」
 きーはそう言うと、また一つ幸せそうな顔をし、ちょっとあくびをしたあと、くたびれたらしく元の顔の大きさに戻って僕の手を離れた。(僕はお昼寝をしてくるよ)と多分言っている。きーは元の可愛いぽってりとした普通の猫のサイズになって、長くはない尻尾を振って、部屋を出ていった。

後日談。
 僕が自分の人生と安室奈美恵と猫(きーちゃん)の猫生についての話を僕の彼女の桃にしたところ、だいたい次のような話になった。私(桃)は安室ちゃんが好きだけど、そこまで世代でもないしな。でも良さは分かる。そういう意味では、うーんどうだろ、安室ちゃんは私の人生に含まれているのかな……含まれていないのかな……。でもね、話を聞いてやっぱり一番に思うのは、自分の人生から大切な存在みたいな人を引き算なんてすること、あまり正しくないと思うよ。きーちゃんのように、自分の好きなものをたくさん挙げていってそれを足し算するって考え方そのままでいいじゃない! 初郎は無駄に多趣味なんだしさぁ。そういえば、あんたは最近広瀬すずにぞっこんだけど、すずちゃんは初郎の人生に含まれているの? 含まれているの?! どれくらい? 5? 10? 20? 私は入ってるの、当然入ってるよね? すずちゃんが入ってて私が入ってないなんて考えてたら、もうしらないからね。はい、安室奈美恵問題はお終い! 早くお風呂にでも入ってきなさい。
……(了)