書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

外れていくもの

外れていくもの
misty

 外れていくもの、中心から逸れていくもの。それらは端的に、美しい。はっきりこう言いたい。外れていくものは、確かに私自身であり、かつての私、もちろん現在の私である可能性も否めないが、とかく寒々とした過去の私への憧憬がひきずられていく。私は愛にも似た感情を覚える。外れていくもの、外れていく者! 彼らにはしかし、道がある、その道は、確実に彼らに帰属している。円の描く弧とは別の、楕円線のなんと美しいこと! そこには音楽の調べがある。大胆であり、不敵であり、哀しくもある、悲調の行進曲である。外れていく! 中心はもうない。中心とは堕落のことだ。人生において唯一つの中心とは、何と単調なことか。単調と言うには安い、安くて簡単で低俗なもの。外れていくものとは高貴なものである。高貴であるとは、別の意識を持ち、anotherへの感覚を持ち、anotherへの生や世界への飛び込みを覚悟することだ。世界をひらくこと、これが高貴の条件の一つである。
 反対に、正円とは詰まらないものである。それは大衆的であり、迎合的であり、規律的なものであり、規則であり、したがって正社会的なものである。社会は一つの力を持つ。それは人民=個を集中させ、一つの方向にまとめあげてしまう。正しい社会は、個を殺し、一つの奴隷機械へと仕立て、元来は動的な人民をオートマティックなものに変えてしまうものなのである。外れていくものは、ある意味でこの正しい社会に反抗している。反している。外れたものは、正しい社会の否定であり、ルサンチマンであり、格闘である。外れたものは、再び個を獲得する。それは動的な生を獲得するのである! 正しい社会からは外れ、大胆に逸れていき、全く違う線を形成する。その力強いこと。それは芸術的であり、したがって美的であり、さらには反抗的である。反抗とは優れて美的なものだ。
 道とは何だろうか。それは、楕円線のように、「規定されえない、未来への方向性をもった生―線」のことである。正円は、唯一つの姿に固定されており、甚だしく詰まらない。それは唯一つの方向を持ち、内側の閉塞へと拘束されており、中心点から常に監視されている。水槽の中の金魚。毒を水中にたらされた金魚鉢。正円から放たれた、外れていくものはそれに否! をつきつけ、行進曲をかけ、大胆にanotherなる線を形成していくのである。その生―線は未知であり、したがって道であり、潜勢力のほとばしる塊である。
 私は過去を見る。私自身の過去。それは正円に規定された奴隷機械としての私である。たしかに私はその中で輝いていた。私は外れていくものであり、外れていくものと外れていく者を肯定するものである。私に現在は無い=否。私は過去と未来を綜合するものである。過去と未来に懸け橋をつなげるものである。外れていくものは、未来へと投げかける。私には見えなかった未来が、外れたものには獲得されている。その何と貴重なこと! 私ははじめから外れていくものを予感していた。私はこの予感の内に、外れていくものへの讃美歌を聴き取り、それを世の中へと伝えていくであろう。(了)