書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

私とショパンの夢(小説)

私とショパンの夢
misty

 私はショパンが好きだ。そのことを彼女に話すと、()は「あだなるパンは天空から降ってきたものではない。それはパン屋が労力をかけて作ったものだ」とひねくれたことを言ってきた。あだなるパン、と聞いた私は、それが諸―パン、つまり音楽家であるところのショパンの文字遊びであるということに漸く気が付いた。「そのパン屋では」おい、話はまだ続くのか? ()もクスクスと笑った。しかし私は()の話を遮った。「ショパンの何が好きかと言ったら勿論曲のことだけど、僕が今ハマっているのはピアノ・ソナタさ。こいつはいいよ! なんせ全てのスケール、全ての時間、全ての包括―世界をたった一つの楽器で聞けるのだからね! だけどね、とりあえずこれは置いておこう……僕はショパン夜想曲ポロネーズが好きさ。夜想曲でも一番有名なのはOp9-2、そしてポロネーズにも有名なのは軍隊ポロネーズ英雄ポロネーズ、この二つだな。それにしても英雄ポロネーズの華々しいこと! ねえ、()、聞いてる?」
 「私はお前のその饒舌が気に食わないんだな」もはや代数学的観念であるところの()は方程式に数値を代入しながら私がショパンショパンと語り終えるのを自ずと待っていた。私はしょげた。その中に、えい、()の奴、許せねぇ! という気持ちもあったので、暖かい冬の部屋の静寂を紅く誘惑するCDコンポより流れるピアノ・ソナタの「第二番 変ロ長調 作品35」の音量を、ぐいと上げた。第三楽章だったので曲の中でも一段と小さく、哀しく、そして優しき場面でもあった、私と()をめぐる空間は奇しくも柔らかく丸くなって落ち着いていった。(私は演出家でもあった!) ()はまた話を再開した……諸々のパンを作るパン製造業者の仕事量。別のライバル店の仕事量。それを仕事算で計算する。小学生でできる計算だ。実にシンプルな式、美しい式。()は言った。あたしは日本的女。つまり閉じているの。内に閉じている、鎖国状態の、閉塞した女。私の式はそれで完結しているの。仕事算のようにね! あぁ、あなたのように開放的になれたら! ねぇ、ショパンって人、あなたの大好きな人は、開放的であったの? 私はそこだけが気になるの! 僕は……ショパンは……ショパンは開放的であったか? もちろん、彼の音楽には開放的なところを感じさせる曲もある。しかし、()の質問はそういう次元の話ではなかった。彼女はいったい何を言っている? 私は閉じた女だと? 私、私、私。そう言えば、()の本名を聞いたことが無かった。その時私は初めて気がついた。()は人間ではなかったかもしれなかった。でも私の大事な存在だ。そう、今や()は確固たるものとして存在していた。()は実在するのだ! 私はそう叫びたかった。私は、()に、今や月を代入しようとしていた。そして私もまた何かを代入し、何かに向けて応答しようと画策していた……。

 (月は沈む、それでも月は存在をやめない)
 (存在の不幸。存在するとは、重力を持たされることなのだ)
 (月も、太陽でさえも、重力は知っている)
 (でも、私たちは、重力を否定することができる)
 (月は昇る、太陽は昇る、何処からだろう)
 (地上の果てから、果てへと、私は、だから、極限なるものを肯定する)
 (極限なるもの、極限なるもの! そして私はそれを、内包する)
 (ああ、お前はやっとそこに至ることができたか)
 (私はお前の月になろう。そしてお前をずっと愛そう)
 (私はずっと月を見ているだろう。そこに存在の幸福があるだろう)

                                  了