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書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

性と社会――AV女優について

■性と社会――AV女優について

 最近、AV女優が「強制を迫られ企画に参加させられた」等と告発し、業界を震撼させている風潮がある。AV女優ほど男権社会――この用語の取り扱いには説明を要するが今は省く――において知られている存在もないが、もしそのような彼女らの発言が強制わいせつ罪などを構成し、ビデオ制作などに関わった人々に慰謝料を請求できることにでもなったら、それこそ社会は一変する。性と社会は明らかな形でも結びついている。
 しかし、AV女優こそ秘匿された存在もない。それは男権社会の中で、性に奉仕する従属者として、男からは性的相手、そして女性からは隠ぺいされた存在として、確立されてしまうだろう。もちろん、AV女優は仕事的側面=消費の対象となる商品でもあるから、そのような商品である時間を外せば、彼女たちは一個人なのである。しかし、AVはイメージを付与させる/させられる世界でもあるため、ビデオやDVDは長らく市場に出続け、彼女たちには「AV女優であった」という根深い過去がつきまとうことになる。そこで彼女たちは自分たち自身をも隠匿、忘却しようとするだろう――二重の隠ぺい。すなわち、周りの男/女から違った論理/見方で隠ぺいされ、そのことで自分の主体性も失ってしまう。AV女優の周りには、いつも悲劇的だったり否定的な噂、実存が転がっている。

 だからこそ、近年見られる、AV女優であることを主体的に/肯定的に捉えて活動しようという新しい面は、狂おしいほど美しく見えるのである。例えば私はそれを、割と著名なテレビ番組「徳井義実のチャックおろさせて〜や」で知った。もともと、暗い影や、「生活の為に仕方なく性奉仕をしている」――そういう苦役性が男性の精神的優越による悦楽(サディズム)に限りなく貢献している――側面を持つのが、AV女優という職業の特徴であった。しかし近年は少しだけ違う気もする。それは彼女たちの内面だ。
 同番組の、スカパー!アダルト放送大賞密着ドキュメントという企画では、芸人のレイザーラモンRGが毎回スカパーで行われるその年のAV新人賞や、大賞グランプリを選出し栄誉を授かる一日に潜入取材して、ノミネートに入っている女優におもしろおかしく取材している。そこで映し出されるのは、彼女たちがグランプリ受賞に涙したり、感動したり、感謝の辞をまじまじと述べたりする、本気の姿だ。私が本当に驚いたのは、そのような彼女たちの真摯さでもあったが、それを我が事のように共鳴し、好きな女優が賞を取ったら大喜びし、逃したら女優と同じようにガッカリする、RGの姿なのだ。AV女優を本心から応援する弱き男性――これは間違いなく新しい兆候、斬新な概念であると私は思う。

 自身が性的奉仕を演ずることを肯定的に捉える、だからこそ最近のAV女優がより美しく見える、という男性である私のこの目線は、まちがいなく批判されるべきだ。何故ならそのロジックには、性的奉仕を演ずることは否定性に結びついているという前提を取りはらえておらず、その否定と内面の肯定性(つまり、否定の否定、否定的であることをありのままに受け止める)の逆説が含まれているからだ。つまり私は、彼女たちの性的奉仕はやはりどこかで苦しいものがあると思っているからである。
 世の中の、AV女優を応援する弱き男性たちはどうなのだろうか? 彼女たちが画面の中でAV男性と交わったり辱められたりしているとき、苦しさを感じているのだろうか? それとも何か性的悦楽以外の違う感性を抱いているのだろうか?

 昨今のAV女優は、DVDリリースイベントを各地で行い、その弱き男性=ファン(別に男性だけとは限らないだろうが、圧倒的に男性ばかりである)と握手をしたりする。実に活動的である。その意味では、冒頭に述べた、彼女たちの隠ぺい性、社会から隠されてしまっているという側面は、跳ね返されていきつつあると言ってもいいかもしれない。何より彼女たちがより前向きになっている。しかし結果としての現実はどうだろうか。AV女優はあくまで否定的なものとして、つまり暗いものや、男性に従属するもの、つまり未だ隠ぺいされ続けているのではなかろうか。AV女優という職業が無くならない限り、そのことは常に問いとして提出されるべきなのである。