書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

ハッキング分子――インフルエンザ、天候、物流

 社会の〈流れ〉(進行、過程)を停滞させるものがこの世にはありとあらゆるほどある。すぐに思いつくのは悪天候だ。たとえば人間の社会によって雨はあまり好ましくない(本当は恵みの雨なのだが)。大雨が降った日には交通システムに甚大な影響を与える。というのも、現代における人・モノの移動はあまりにも速いからだ(速度の問題)。
 7時に起きて8時に家を出発しても大雨に降られたり渋滞に巻き込まれたりしてしまえばその人は「遅刻」というサンクションを与えられるかもしれない。こうしたあまりに「速度」に重きをおいてしまう現代の交通システムは、どうしても自然の驚異たる悪天候を計算内におさめることができない。自然の剥き出しの力(ゲヴァルト)がリスク risk に変わったところで、結局それは社会設計、全体としての交通体系での段階にすぎず、システムの駒である私たち個人個人はリスク計算からはじかれ「不条理な結果」に甘んじて耐えていくしかないのだから。
 最近(2018年1月22日にこれを書いている)、日本ではインフルエンザが大流行しており、筆者の周りでも友人・知人が何人も臥せっている。インフルエンザも雨や雲などの悪天候と同じく、速度重視社会の立派な障壁である。インフルエンザにかかると最低でも平均一週間は隔離される必要があるので、会社勤めの人にとっては、いやむしろその会社側が大痛手なのである。そのインフルエンザの大流行は東京にも等しく猛威をふるっている。しかも、関東では厳しい寒さと雪の降る日々が重なって社会を停滞させている。悪天候やインフルエンザ、これは私がこれから〈ハッキング分子〉とでも呼びたくなるものの、ほんのささいな一例である。
 〈ハッキング分子〉は、システムとしての制度化されている社会を停滞させる。「分子」と呼称したのは、社会を停滞させる度合いが微細であるからだ。しかし微細といえども簡単に見過ごすことはできない。なぜならインフルエンザの流行や悪天候は確実にそして現実的に社会にショックをもたらしている。
 私たちがその内で存在しているシステムとしての社会は、まさにこのシステム=体系化された自動装置のような組織そのものに生命が備わっているかのようである。システムに命があるみたいだと想像することには意味がある。事例が違うが、日本の芸能界という〈場〉では、不倫スキャンダルとその後の処理に関する報道が喧しくなって久しい。あれで、当事者は誰も得をしない結末になった、しかし唯システム=芸能界を経済的に回している、基軸たる側の人たちを除いて、というのがある。システムだけが一人(?)勝ち誇っているように思えてならないのだ。

 さて、現代社会における大きなシステムの別名はもちろん資本主義制度である。資本主義制度においては、確かにマルクスエンゲルスの言うように富める者たちと貧しい者たちとの二項対立が成立しているように現象する。しかし、俗流化されたマルクス主義においては、そのような二項対立の状況において貧しい者たち、すなわちプロレタリアートブルジョワ階級をうち倒し、プロレタリアートによる独裁政権を奪取せねばならないと説かれた。資本主義制度において対立しているのは人間同士なのだろうか? どうも私には、ある種の生命力を持った巨大システムが一人勝ちしているように思えるのだ。本稿ではそうした疑似生命力を有したシステムとしての資本主義を、経済的=有機的リヴァイアサンとひとまず呼ぼうと思う。
 ところで話を〈ハッキング分子〉のほうに戻すと、この〈ハッキング分子〉は経済的=有機的リヴァイアサンに対する攪乱分子のことなのである。順調に「のさばりますます肥えていく」怪物リヴァイアサンの内部に住み着いて、ウイルスのようにリヴァイアサンに攻撃を仕掛けるのが〈ハッキング分子〉の役目だ。〈ハッキング分子〉はガタリ的な攪乱分子のことである。
 もう一つ、現在の複雑に膨れ上がった物流のシステムを例にとってみよう。昨今は大手企業のAmazonに象徴されるようなネットショッピングが、人々の消費生活の中心をなすまでに至っている。しかし同時に、その体制の問題やほころびも現在進行形で頻出しているというのが現状だ。物流は交通システムと同じかそれ以上の〈事故〉の現場でもある。速度(荷物を届けるに際しての)を重視するあまりに大量の荷物を抱えたトラックの運転手は安い賃金でほとんど疲弊している。ここでも優れてAmazonは経済的=有機体リヴァイアサンの象徴例なのである。Amazonはシステムとして労働者を疲弊させながら悠々とのさばっているというわけだ。
 そのような物流システムに打撃を加えるのは何だろうか。もちろん集団インフルエンザ感染や悪天候は間違いないだろう。また、交通システムの障害(渋滞、事故など)も同様である。それに加えて、もっと内在的な原因、すなわち誤送や誤配というのもある。「誤配」という概念は実は日本の哲学者である東浩紀はデビュー作の『存在論的、郵便的』において提出されたものである。「でもそもそも郵便は届かないかもしれない」。現在の完璧なまでに整えられた物流システムでは、郵便物や宅配物が届かないことなどそもそもありえないかもしれない。しかし、遅延や人身事故、商品の配送途中での損壊といった事柄はどうしても起こりうるのである。それはそもそも隔たった距離間におけるA地点からB地点への(なにものかの)受け渡しが理論上/実践上100%保証されることはない、そのような意味においてはコミュニケーション理論にも似通ってくる。私がここで強調したいのは、物流システムや郵便システムにはそもそも内在的に誤送、誤配が起こる可能性がインプットされているのである。としたら物流もそれ自体で非常にfragileな〈ハッキング分子〉であるのだ。
 〈ハッキング分子〉は「健康で便利で安全な社会」という欺瞞に満ちたイデオロギーを掲げた経済的=有機的リヴァイアサンをたとえ微細にしても断続的に揺るがすのである。それは小刻みに人々を不安の底に陥れる地震大国の日本の状況に酷似している。ハッキング分子は危険で、そして安定した状況やシステムに対して攪乱的だ。資本主義制度を克明に批判するためにも、この〈ハッキング分子〉の更なる探求が私たちには欠かせないだろう。(了)