書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

2016年上半期読書ベスト(前篇)

 バルガス=リョサが、最近発売された『水を得た魚』(2016,水声社)の自伝的な叙述の中で、「一九五五年の一番の読書はナンシー・フレイザーの『金枝篇』だった」みたいなことを書いていたので、僕も読書メーターという素晴らしい管理ツールの情報を元に、だいたい2016年の上半期に読んだ本の中から、ベスト15を選んで勝手に記事にします! 

 この本読んだな、とか、この本面白そう、とか思っていただければ幸いです
 小説と哲学とが入り混じっておりまする


15位 志賀直哉『暗夜行路』

暗夜行路 (新潮文庫)

暗夜行路 (新潮文庫)


 友人が志賀の中でこれはあまりオススメでないと聞いていたので、長らく躊躇していたが、「暗夜行路」と夏目漱石の『明暗』は絶対に読みたいと思っていたので文庫を購入。すると、たぶん二週間くらいで読めました。
 最初の出だしがすごいんですね。怖ろしく不穏な、断片的なイメージ。私小説では書けなかったんだろうか。主人公に名前を与えて三人称的な書き方にしているから、主人公の内面がはんぶんしか伝わってこない。しかし、後半にいくにつれてよくなる。鎌倉とかいろいろ移動を経る。
 「和解」も読まないと、「暗夜行路」と「和解」を読んだ状態だともっと志賀について語れる、と思って買って、はい積読(パチパチ)

14位 戸田山和久『恐怖の哲学』

 戸田山さんは『論文の教室』とかで有名な人で、とにかく分かりやすいし読者に親身。『論文の教室』には大学一年生の時からお世話になりましたが、この人はもともと科学哲学を専門にしておられる。以前の著書で、ちくま新書から『哲学入門』という本を出されていて、その分量がすごいこと。しかも、ミリカンとか、僕が全く知らなかった現代のアメリカやイングランドの哲学者の議論を引き合いに出す、というスタイルの、画期的な本だったと思います。
 『恐怖の哲学』は、基本的に「スクリーム」や「テキサス・チェーンソー」などのホラー映画を体験していて、「怖がるのに楽しい、なぜ怖いのに楽しいんだろう、怖いってなんだろう」ということを、先ほどのミリカンだったりという戸田山さんが専門にされている哲学者の議論を引っ張って、論理的に説明していこうみたいなスタイルです。
 ①まず、この本で紹介されているホラー映画も全部は見ていなかったので、へーこの映画ってそういう観点からも楽しめるのか、みたいなホラー映画ガイドにもなっていると思います(笑) 実際、この本読んで、2,3日後には「スクリーム」シリーズ借りて観ました(笑)

 ②戸田山さんは、非常に「論理」が強い哲学者だ、という印象を改めて受けました。納得できなかったら、納得できるまでとことん追求できる理論を探す。あてはめる。OKだったら次の課題にクリア、みたいな所が、非常に明晰で、面白いなぁと実感しました。

13位 中上健次水の女』『岬』

岬 (文春文庫 な 4-1)

岬 (文春文庫 な 4-1)

水の女 (講談社文芸文庫)

水の女 (講談社文芸文庫)

 『岬』についてはここでは省きます(笑 また別の機会にでも……) 『水の女』についてはやっぱり一言二言は残しておきたい。すさまじい作品でした。被差別部落的な世界観の中に、最高度の即物的な性描写がクローズアップされ、ただただ圧倒される。エロティックなだけか?と思ったら、どうもなんか肉と肉のぶつかり合いが、エロとしてだけで読めないような、頁を嫌でも捲らされるような、そんな体験でした。柄谷行人がこの作品をどこかで褒めていたと思います。「水の女」とか「赫い髪」とか、視覚的なイメージで構成された女性が多い。あと、中上の独特の物質性、文体そのものが重く、沼地のようにぬめっとしているような。この短編集が実家から見つかってよかったです笑

12位 三島由紀夫『花ざかりの森・憂国

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 めっちゃ面白かった。旅行の行きと帰りに読んだんだけど、三島って短篇うま!!! 長篇作品、どんどん積読されていくな~と思った所へ、ふと旅行のバスに乗る前に本屋で「またミシマ作品を手に取ってしまった」感があったけど、短編集がこれほど面白いとは思わなかった。三島は天才です。面白い話を面白く書く才がある。素直にそう思いました。「憂国」も好きだし、「橋渡し」(たぶん。うろ覚え)とかも大好きです。これを読んでさらにまたミシマ作品が積読としてのこるのは哀しいから、はやめにもう一冊、もう一冊と読んでいこう……
 次は、、、大長篇かな(笑)

11位 堀江有里『レズビアンアイデンティティーズ』

レズビアン・アイデンティティーズ

レズビアン・アイデンティティーズ

 この本には様々な意匠や刺激を受けました。僕としては、レズビアンやゲイといって「括られる」人たちは、そのありのままの存在を肯定する/されることは中々難しく、特に日本のようなムラ社会が強く残る場所ではまだまだ課題が山積みだと思っています。そういう意味では、二重の困難(最初の被傷と、その被傷が認めてもらえないことによる痛み)があるが、この特異体である個人の身体に刻まれた具体的な事象を、自らのアイデンティティとすることができるのだ、と思いました。存在には、存在の核がある。その核がある限り、存在は常に肯定されるものとして、生きるのだと思います。ということを、この本を読んでからしばらく考えていました。


10位からは次の記事で!




 

ライヴDVDのこと

一か月ぶりの更新。

 ライヴDVDというものがある。アーティスト、お笑い、もっと言うと映画とかドラマとか。
DVDやブルーレイは高いという捨てきれない意識があって、最近まであまり買いませんでした。

思い返せば、ミスチル絡みでDVDの良さを知ったときがありました。高校生のころ僕はMr.Childrenの大ファンだったのですが、同じく好きだった友達が当時のツアーDVDを買っていて、①高いのにすげぇ②ライヴDVDを買うのか! という衝撃を受けました。

 定期考査の一週間か二週間くらい前に借りて、勉強も忘れてミスチルに見惚れていました。「youthful days」の歌詞をトバして舌を出す桜井さん萌え~とか思ってたな(笑)

 僕は借りたCDを聴きまくるというところから邦楽洋楽に入っていき、高校大学を通して自分で演奏したりもしたけど、ライヴによく行くようになったのは大学生からです。ミスチルのようなドームツアーから、地元の古くさいハコライヴまで、思い出がたくさんあるけど、(ライヴ)DVDの思い出は指折りで数えるほどしかない。

 自分で初めて買ったライヴDVDは宇多田ヒカルの武道館5日間ツアー、「ヒカルの5」。

宇多田ヒカル Utada Hikaru in BudoKan 2004

宇多田ヒカル Utada Hikaru in BudoKan 2004 "ヒカルの5" [DVD]


 これは、日本ではなく韓国へ一人で旅行したとき時間を持て余して、大学通りを巡ったついでに立ち寄ったCD屋で購入しました。めちゃくちゃ暑い日だった。RadioheadのジャズカヴァーのCDも買ったんだけど、すっごい良かったのに誰かにあげてしまったので、同じのもう一枚買っとけばよかった。

それからだいぶ時を経て、去年のクリスマスにゲットしたのがこれ。

自分が一番大好きなバンドの、バンド10周年を記念した初のDVDで、これは本当に欲しかった。。そして未だに観続けている。最高の1枚です。
 これを買ってから、あぁライヴDVDっていいなぁって思っちゃって、、3,4000円はするけどその価値あるなぁって思って……。

 しばらくしてEvery Little ThingのDVDも(中古で)購入。 

もっちーが28歳、29歳くらいのときのツアー。いいです(笑)「きみのて」とか、「かぜもよう」とか。どんどん優しさが増していくお二人。


 これ以外にも、お笑いのDVD(チュートリアル)とかもってたりはしたんだよね、、。 でも、やっぱりお高いので中々DVDは集まらず。 BABY METALとか、Radioheadとか、ART-SCHOOLの自主レーベルのやつとか、あとPeople In The BoxのDVDも欲しい! 金銭欲が絶えず。。。 そんなDVD来歴でした

インリズム(新)……断詩

 人間が好きだ。私は人間が好きだ。人間はつまらないし、よく裏切るし、何も分かっていないし、傲慢だし、情緒不安定だし、頭が固いし、何より無理解で、他者存在をあまり尊ばないのに、それでも何故か、私は人間を好きになってしまう。いや、人間が好きだと思ってしまう。私は、人間から離れることはできないのだ。かつてのヒューマニズムの過剰は昔の話だ。だからこそ危険でもある。しかし、人間は自信を取り戻してもよい。どうでもよい、くだらない存在だからこそ、このくだらない世界に生きる理由と大地が存立するのだ。生きよう。生きるために、生き延びるために、何かを創造するために、もう一度人間主義を回帰させよう。

産業革命が進展する中で、経済=資本体制が次第に人々の生のほとんどを占めるようになった。貨幣を持っていないと暮らせないのである。思い返せば、十八、九世紀までの文学は、お金のある人によってほとんど支えられていた。二十世紀の文学ときたら! 凶暴なランボー、言葉の魔術師のようなマラルメ、そして奇跡の泥棒、ジャン・ジュネ……みんなどれも似たり寄ったり激しさを極める貧乏だ。貧乏という最高に困った状況は文学を一変させた。プロレタリア文学とは何もマルクス主義のことだけではない。階級が、社会構造が、人々の意識を規定するのだ。ドイツでは、文学作品が、国の統一に大きな影響を果たしたと言われている。同じ作品を読み、それを共有することで、「精神の共同体」を彼らは作り上げたのだ……それがどこまで真実かはさておくとしても、かつては文学はまとまりとしての人々、国民、民族に揺さぶりをかけた。今の日本ではあまり絵が思いがけないのではないだろうか。文学は意識の共同体にもつながるものだった……政治、文学。それらの軌跡、そしてもう一つの歴史といったもの……。

知の細分化


 知の細分化。学知が、どんどん細かくなり、専門領域はなし崩し的に増え、隣の研究所が何をやっているのかが分からない状態、それが現代の大学や科学。例えば、私は一つのフィルム映画を見たあと、それにまつわるレビューを読み、そのレビューを書いた著者はフランス文学の専門の教授であったから、映画にまつわるフランス文学者などについても、思いを馳せて、夕方図書館に立ち寄った。何でもフランス文学史の中で、十九世紀から二十世紀にかけて、ロマン主義象徴主義自然主義、等々と呼ばれる流派もしくはグループ付けがあったのだと初めて知る。象徴主義の代表者はマラルメボードレール。映画の中ではラテンアメリカのアマゾンの植生が印象的に映し出され、植物の図鑑を見ていると、隣に文化人類学の本がずらりと並び、エドヴァルド・デ・カストロの『インディオの気まぐれな魂』などが見つかった。そういえばラテンの植生を印象的に描いた作品には、マリオ・バルガス=リョサなどのラテン作家たちがいたっけな……。
 これを、いちいち、フランス映画史、フランス文学史、十九世紀史、植物学、文化人類学、ラテン文学、などと区別をつけてそれに特化しても、何かを見失うだけであろう。現実はこれらをすぐに横断するのだ、特に私のような曖昧な思考の持ち主の人間は。知の細分化は、学問が発達するにつれて半ば必然的に起きた状況であるが、それと同時に、区分化された様々な知の領域を横断する、自由に横断して、総合知とでも呼べるような、ものへと向かわなければならない。知の細分化と求心化はセットなのだ。しかし後者の方はあまり叫ばれない。知はますますニッチなものになっていく。何のために研究するか分からない。何のための研究か分からない。知は今や犯されている。

川端文学における「芸者」の位置づけ

 川端康成の小説には、芸者(芸子、舞妓、旅芸人など)がよく出てくる。代表作に限っても「雪国」や「伊豆の踊子」など。殊に壱位二位を争う有名作である「伊豆の踊子」におけるそれは特別だ。そこには川端康成の芸者たちへの深い愛情といったものが感じられる。

 芸者は、当時の日本にあって、「そうなく生活を余儀なくされている」といった位置づけをなしている。階級的に貧しい人々。基本的に乏しい金銭的状況であり、だいたいはその生活圏内から離れないといったパターンが川端作品の中では多い。むしろ、川端の設定した男主人公の方が、場所をうつろい、どこか現実逃避的で、彼らの元を「訪ねる」「訪問する」といった趣きが強くなっている。

 川端の設定する主人公は明らかに「芸者」の人たちの世界に惹かれているのだが、「なぜ自分は此処にいるのだろう」といった内省を川端が記述することは稀だ。むしろ、主人公と芸者たちの会話や心のやり取りを静かに描くことで、かえって私たち読者にその淡くて儚げな関係性を強調する。

 主人公たちは、決して芸者たちを身分の低い者→貶められる者というロジック、感覚で見ない。そこには、おそろしいほど深遠な態度がある。一言では表せないのだ。ただ寄り添うといった態度でもない。筆者には、川端の描く主人公たちは、芸者たちの世界に「何故か、いつも引き寄せられている」とでもいった受動性、事後性のもとに動いている/動かされている心情をかんじる。

 「伊豆の踊子」では14,5歳くらいの踊子に、「雪国」では葉子や、さらには駒子に恋心、むしろ多大で不思議なほどの淡い好意を寄せている(この恋心もまた一考を要するほど不思議で深遠なものであるのだが)のだが、彼らに愛の告白をするでもない。「一緒に生きよう」と娶るわけでもない。むしろ、主人公たちは一人二人の女性を娶るほどの経済的状況にはあるはずなのである(それがなければ「雪国」のような放蕩な生活はまさか送れまい)。そして、その愛の告白や「決意」に満ちた言葉を、彼女/彼らも、待っているわけでもないし、しかし待っていないわけでもないのである。常に彼らの関係は不安定なものとなる。しかもその不安定さは、否定的・ネガティヴなものではなく、常に物語の円軸を揺り動かし、周りの世界に動も精もあたえるような、根本的で人間的な、そういった意味での不安定な関係なのである。

 「偶々、いきつくところによって彼らと一緒に居る――」。このような態度、もしくは心情が、川端の描く主人公たちには在る様な気がする。それは、川端自身が経験したことが決定的に影響しているのかもしれないし(彼自身の「伊豆」の度々の訪問など)、あまり影響していないのかもしれない。しかし、そのことに対して主人公たちは「即断」をしない。矢張り「寄り添う」といったことばが一番適切なのだろうか。芸者たちに、芸者たちの必死の毎日に、告白を迫るでもなく、去るわけでもなく、ほんのひと時のささやかな祝福を共にするために、寄り添う――そのような愛情に近い、不思議な感覚が川端作品には横たわっている。それを言語化するのは非常に難しいのだが。

 こういった川端作品における芸者たちの世界の描き方、描かれ方は独特であり、それは川端文学の必要不可欠で根本的な要素をなしていると筆者には思われるのである。

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misty.

過去の駄作の話

 そういえば、昔、とてもつまらない小説、名前ははっきりと覚えているが、「ユメナという〈存在〉」という短編小説を書いたことがある。短い話だった。深夜の1日で書き上げて、恥ずかしいことに書き終えると高揚ととても満たされた幸福感に包まれた。だからその時点ではその作品はとても自分にとって――そういう事を言うのも憚られるけども――大切な作品だった、当時の未熟な自分なりに。
 当時の私は同人誌団体のようなものに入っていて、意気揚々として、みんなに読んでもらって感想を待ったのだが、ほとんどすべての人に酷評された。酷評され尽くした。あれほど恥ずかしいことは無かった。ただ一人の優しい年配の方がなぐさめてくれたことすら情けなかった。激しく批判されて、嘲笑されて、一日たっても二日たってももやもやと落ち込んでいた時、「ユメナという〈存在〉」がどういう悪点を持っていたかは理性的に受け止められるようになっていた。その中で、つまり酷評した方々はユメナを一瞬で抹殺したが、私はかろうじてユメナを救えないかとそればかり諦め悪く考えていた……。
 「貴方は、こういう小説は書いちゃだめですよ」と言われたことは一番落ち込まされた。書いちゃだめと言われることは、全否定そのものだからだ。それでも僕はユメナの言わば蘇生方法の様なものを探そうとした……ほとんど無駄な足掻き以下に過ぎないものだったけれども。
 何が一番悪いかというと、その書いた作品をあまりに私が愛しすぎていて、ちっとも作者から手放されていないということだ。そのような、読んでもらうからこその作品を作者が抱え込んだままで、どうして作品が作品たりえようか。そのようなことを当時の私は学ぶにあたり、今では良かったと無論思っている。失敗は常に前進の要素になりうるからだ。
 しかし、その作品としてではない、ただの一人の雑記としてのユメナ……これは、私だけのものだ。永久に世に出されることはない。私だけの、私の為の文章。そんなよく分からないエゴイズムめいた心理方法で、ユメナは焼き捨てられたとでも言っておこうか。
 それでも、やはりあの作品を、一晩の熱情だけで書き上げたこと、その後の幸福感だけは、忘れることもできない。

※ 「ユメナ」の原稿はなにがあろうとも世には出ません(笑)

 

セリーヌ、フランス文学

フェルディナン・セリーヌへの愛が止まらないこの頃である。
 去年の冬~春ごろに頑張って?「夜の果てへの旅」を読んで、以来すっかり魅了されてしまっている。それより前に愛好していたヘンリー・ミラーの、長大な文章と自伝的な構成という類似点もあって、長らくこの二人の作家が僕の心の中心をしめるようになったが、ミラーもセリーヌも魅力のありあまる存在だ。

 今、「なしくずしの死」を読んでいる。客観的に面白さを伝えるのが難しいかもしれないが、とにかくこの本は面白い。ギャグセンスもしかり、文章もますます畳みかけるような呻き、罵声、猥雑さに満ちていて、これ以上に自由な文学作品があろうかと思うくらいだ。

 でも、二十世紀のフランス文学は、プルーストセリーヌだけでなく、実に様々で豊富な内容を抱えているな、と気付いたのが最近だから、僕はいけない。
 もともとフランス文学は一筋でも二筋でもいかないところがあるが、二十世紀のフランス文学に限ってみても、シュルレアリスム文学、実存主義ヌーヴォー・ロマンと流行も多岐に渡る。

 そして日本への紹介も非常に豊かになされている。澁澤龍彦などが主軸だったのだろうと思うのだが、ブルトンやクノー、ジャン・コクトー、哲学者でもあるバタイユや遡ってマルキド・サドやなど、フランス国内でもあまり評価のされていなかった小説家もいっしょくたにして輸入しているところが面白い。

 僕は生田耕作さん訳の「夜の果てへの旅」が好きで、ジャン・ジュネの訳も幾つかされているし、まだレーモン・クノーの「地下鉄のザジ」を読んでいないので生田耕作訳をさっそく図書館に予約した。読むのが待ち遠しい。

 二十世紀のフランスの哲学は、いま現象学のミシェル・アンリの本なども読んだりして、ここ一、二年でやっと概要を掴めた、という気もするのだが、文学はまだまだこれから。というか全体を見渡せそうもない。フランス文学、入門、案内などと検索してみると、幾つもそれらしき入門書や概説書が出てくるが、どれを読めばいいのか分からない……(がとりあえずどれか一冊を読んでみるつもりである)。

 野崎歓さんの『フランス文学と愛』で、モリエールやディドロなどの「近代の前半」の古典作家、劇作家や小説家などの名前を知ることはできたのだが、十九世紀~二十世紀がまだ良く分からない。外国人が書いたフランス文学論などを読んでみても、知らない名前がけっこう出てくる。作品は無限の宝庫のようにあるようだ。

 ただ、一つ思うのは、二十世紀のフランス文化は、ほぼ中心点の50年代に、サルトルが君臨しているということだ。サルトルは小説も戯曲も書いたし、もちろん哲学的にも多大な影響を与えた。その人以前と、以後で、様相は大きく異なっている。文学者・哲学者サルトルが誕生するまでの流れと、サルトルが亜流になってからの文学界/哲学界の流れという図式で整理するのが、一つ、フランス文学をより深く理解するうえでも重要かもしれないなどと思いはじめる。

 そもそも、サルトル現象学は非常に小説チックなところがある。だからというわけではないが、ミシェル・アンリも小説を三冊か四冊書いているし、他者論のレヴィナスなども実は小説の構想があったということだ(『現代思想 増刊号 レヴィナス』のエッセイによる)。現象学は文学に似ているのである。現象学を理解することで、フランス文学をもっと違う面から見ることができるかもしれない。ただ現象学は異常にむずかしい……。

 最近の日本はますます翻訳文化が進み、特にアメリカ文学とラテン文学がものすごい勢いでその魅力を伝えているように思われるが、僕は逆にもっと過去を遡って、先人が探し当てた作品の光を後追いしたいと思う。

 これから自分の愛読書をドゥルーズの『差異と反復』とセリーヌの『夜の果てへの旅』ですということにしよう。それでは。