書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

上野俊哉『四つのエコロジー』 ガタリの思考、機械状、氾心論

上野俊哉さんの『四つのエコロジー フェリックス・ガタリの思考』(2016、河出書房新社)があまりに素晴らしいので、メモ書きをします。
哲学書というのは、もちろん素晴らしい概念や、見事な論証に息を巻くから面白いんだけど、どんな結論やテーマや論証過程であれ「面白い哲学書」の共通点は、読んでいると非常に脳に刺激を受け、全く違った視点を得たり、想像や思考が広がっていく、その爆発的なきっかえをもらえることにあると思います。頭の回転のエネルギーになるんですね。そういう意味でも哲学は、頭のまったく思いもよらぬトレーニング、使用法だと思います。
四つのエコロジー: フェリックス・ガタリの思考

 本書は全部で370頁くらいあって、僕はまだ110頁を読んだところだけど、読みやすさにも配慮されているし、次々と面白いことが書かれているのでメモさせて頂きます。
 タイトルの”四つのエコロジー”というのは、精神分析家にして社会活動家であったフェリックス・ガタリの『三つのエコロジー』の自然環境・社会・精神の3つのエコロジーに加え、「情報」という全く違った概念/観点に基づいてガタリの思想を補強ないし変奏する試みみたいです。詳しくは最後まで読んでみないと分からない。
 それでは今まで読んできたところで幾つか引用をします。

 そもそもガタリにとって、「実存的なもの」existential はすでに機械状、マシニックなものであり、決して機械論的な因果関係や決定論には左右されない。なぜ実存が機械状(マシニック)であるかと言えば、それはあらかじめ決定されたルールやコードからはみだして、様々な選択や決定を異質な要素の結合の可能性に開いていくのは、人間の意志や選択ではなく、機械状の組み合わせであるからだ。その担い手は人間のみならず、バクテリアや細菌、電子回路や工学機械、視聴覚装置にいたるまで何でも機械状の仕組みにはまりこんだものとしてとらえられる。機械が決定し、人間がしたがうと言ってるのではない。
(『四つのエコロジー』pp.95 赤字強調はみすてぃ)


 「実存」というと実存主義哲学のサルトルですが、上野はドゥルーズガタリサルトル実存主義的な哲学をもちろん尊敬はしていたものの、彼らの哲学的プロジェクトはそういった実存主義の問題点、限界を乗り越えることにあったとし、ガタリが使う「実存的(実在的)領土」を一般の意味=サルトル哲学的な意味の実存とは違うところに着目します。

 ガタリの思想においては、実存は決して人間の生(生きること)だけに特有のものではない。そもそも、ここで例に出されているように、人間の生も、バクテリアや細菌の生、さらには電子回路や工学機械の「存在」も、機械状 machinic なものであると捉えられます。普通、「機械」という概念は、機械(操られるもの)/人間(操るもの)、さらには機械(人工のもの)/自然(非人工)といった大きな二項対立で捉えられますが、ガタリはこの二項対立を拒絶し、例えば赤ん坊の口が母親の乳首を捉え、その乳は赤ん坊の尻の穴から出て便となり、その便は農夫によって畑にまかれて農作物の栄養になる、といった、人間や動物や自然や機械がつぎつぎにつながったり、切られたりといった円環の中で見えてくる、大きなシシステマティックなつながりのようなものを、「機械状」と捉えます。その観点からすると、人間の生も機械状の一つなのです。しかしこれは、補足されているように、決して機械状という一つの「神」のようなものが全ての意志を無視して必然的に支配し、したがって人間もその支配下に置かれているからすべて運命であるみたいな議論には全く関係ないということです。

 僕が例を出しましたが、赤ん坊の口が母親の乳首を含み~といった例は、ドゥルーズガタリの『アンチ・オイディプス』第一章に鮮烈な形で出てきます。とすると、このアイデアガタリの方にあったと言えるかもしれないですね(ガタリが多めにアイデアを出して、それをドゥルーズが哲学的にまとめ上げた)。

 ガタリがブラジルと日本に特別な愛着と関心を抱いていた理由の一つに、現代資本主義の文脈においてアミニズムを陰に陽に温存している社会という視点がある。日本には昔から「針供養」のように、普段慣れ親しみ、ときに酷使することのある道具を年に一度ねぎらうという仏教の儀礼がある。友人で写真家の港千尋に聞いたところでは「カメラ供養」まであるというのだから驚く。アニミズムに対する距離や親近性は、そのような普段のテクノロジーのつきあいのなかにも影を落としている。たとえば……(中略)……日々のメンテナンスや丁寧な扱いをしていないPCのハードディスクは壊れやすい、といった「ジンクス」を聞いたことがないだろうか?
(『四つのエコロジー』pp.101-102)

 たとえば、様々な表現文化(映画、小説、音楽……)においては、鑑賞者による一種の融即=分有 participation 、つまりは一種の「参加」が生じうる。そこで表象されるイメージや内容を前にしてはもはや受動的な観衆(オーディエンス)でいることはできない。受け手は鑑賞や読解によってすでに言表行為の集団的な仕組みの中に巻き込まれており、その受容のプロセスがまた作品やテクストを捕捉する。しかし、この代補こそが見かけ上の全体性、作者の権威を保証している。つまり作者もまた最終的な主権、権威を一つの「全体」としてはもちえない。
(『四つのエコロジー』pp.108)


 まず前者の引用について。アニミズムというのは、人間や動物、植物や鉱物に限らず全ての存在者に魂(アニマ)が備わっているという発想です。そして、大事なことは、人間が人間独自の思考様式や感情を持っているように、動物たちも、人間のようには考えておらず、彼ら独自の魂(アニマ)の様式を持っていると想定することで、”人間”という捉え方を安易に他の存在者に直接適用しないことです。これは他者をどう考えるか、他者とは誰か、他者を尊重するとは何か、という共生の問題につながってくる。
 しかし、上野さんがお話に出す、カメラ供養とかパソコンに愛着を覚えるとか、僕はバシッときました。僕は、今まで持っていたPCや愛用の自転車に勝手に名前をつけたりしていたのですが笑、アメリカやヨーロッパではまずそんなことはないそうです。 本当どうでもいいですが福岡で愛用していたママチャリにはAKB48の高橋みなみさんのシールを貼っていたので、「たかみな号」と命名していました笑

 後者の引用も、まさにそうと頷きました。例えばお笑いのM-1のネタ披露などは、観客の態度がとても大事です。松本仁志がよく「会場、もっと盛り上がったってぇ~」「めちゃめちゃ会場冷えきっとるやん!」と、決勝の舞台に入るお客さんの態度を気にしているように、芸人たちのネタの披露は、リアルタイムで観客のウケに反応し、盛りあがったら芸人たちも勢いづくし、なかなか笑ってくれなかったら芸人は焦って噛んだりするんです。それでますます面白くなくなってしまう。
 引用の例でいえば、たとえば笑い飯の「鳥人」というネタ(分からなかったらYoutubeで調べてくださいめちゃくちゃ面白いです)は観客の圧倒的なウケもあって、「100点」という最高点をもらったけど、決勝ネタの「チンポジ」で期待値を上げていた観客の心を台無しにしてしまって、その年の受賞を逃しました。
 また僕は良くテニスやサッカー観戦をするのですが、熱いサポーターの応援のあるなし、ホームの地での戦いかアウェーかということは、選手たちにとっても本当に非常に大事な要素になります。そういう意味で、芸人のネタや、プロ選手たちのスポーツも、観客の反応と融合して、一つの「場」を作り上げているのであり、決して観客なしには成立しえないのです。

 
 ちょっと最後は雑談めいた向きにもなってしまいましたが、この上野俊哉さんの『四つのエコロジー フェリックス・ガタリの思考』は本当にオススメです。是非買ったり、図書館にリクエストしてみてください。