書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

 矛盾律の前提的感得――アウフヘーベンの更新


 世の中には、矛盾律(カント)に陥る命題をもっている概念や事物がたくさん存在する。

 たとえば、愛。

愛は、人を救済する。  あまりに自明すぎて、これを出発点(原因)とするのは馬鹿げているようにすら見える。

そして同じように、愛は人を傷つける。これも自明すぎる。

 これを論理レベルに持ち込むと、愛は人を救済するのか破壊させるのか分からなくなり、曖昧なものとなってしまう。

 アウフヘーベン止揚)というのはカント―ヘーゲルの哲学の概念だが、このアウフヘーベンを少し考えてみよう。

 愛は、人を救済する。 反対に、愛は人を破壊する。 論理レベルでは解決できない。

 しかし、これらはいずれも真であることを、私たちは知っている。 愛は人の最大の慰めにもなれば、たった一つの愛の過ちが人の死を招くことすらありうることを、小説を通して、実経験を通して、知っている。

 ここから帰結できるのは、愛は異常なものである、ということである。愛は法外なものである。愛はとんでもないものである。分かるようで、分からない。

 しかし、これを私は、結論のまま放置しない。 愛が法外である、ということを、前提にして、さらに思考を続けてみたいのである。
論理レベルでは矛盾に陥ったが、感得レベルで、別の角度の帰結を引き出し、そしてそれをさらに再出発点とおく。

 これらの操作を、私は矛盾律の前提的感得として、アウフヘーベンの一種類として概念規定しておきたい。
もっとも、こんなことはすでに別の用語で考えられていそうだが(笑)

 愛が法外なものであるから、愛は確かに論理学や論理を応用した学問の考察対象には向かなそうである。しかし、愛が法外なものである、という強い認識を出発点(原因)として、そこから様々なことがまた新たに帰結できるに違いない。

 もうひとつ、例に出したいのは、いわゆる(日本の)お笑いである。

 お笑い。笑い。

まず、矛盾となるような論理レベルで記述する。

(1)お笑いは、人を感動させる。

(2)お笑いは、人を異常に傷つけ、その差別構造を温存し、ツッコミがボケを叩いたり、あるいは空気を作っては「和の強制力」とでもいうようなものを規範化したり、あるいは笑いとは嘲笑や嘲りをどうしても保持している、などなど、人を破壊する。

 (3)矛盾律が導かれる。

 ここから感得レベル(感覚レベル)にスライドすると、笑いもまた、人の生にとって何かとてつもなく尋常でないもの、法外なものなのである。  お笑いは爆発だ。革命だ。地獄だ。そして、神だ。

 これを強い再認識として措呈し、笑いについて新たな角度でまた思考したり体験したりする。これで、「笑いとは何か」と考え出して結局陥ってしまう以上の矛盾を止揚して、「お笑いは何か法外である」ということからお笑いをさらに人の生と結びつけて思考したりパフォーマンスしたりすることができると思うのである。

 非常に雑記。

ジョイス「ユリシーズⅠ」を読んで

ユリシーズ〈1〉

犬の吠え声が彼に駆け寄り、立ち止まり、駆け戻った。わが敵の犬。ぼくはなすすべもなく立っていた。青ざめて、黙って、追いつめられて。《恐ロシキ物ヲ思イナガラ》。薄黄いろのチョッキが、運命に使える従僕が、ぼくの恐れるさまを見てにやりと笑った。おまえはあれで欲しくてたまらないんだろ、みんなの喝采という吠え声が? 王位をねらう者よ、生きたいように生きるがいいさ。ブルースの弟。トマス・フィツジェラルド、絹の騎士。パーキン・ウォーペック、白薔薇象牙いろの絹のズボンをはいたヨーク家の偽世継ぎ、たった一日だけの脅威。ランバート・シムネル、女中や下僕をぞろぞろ引きつれて王位についた皿洗い。みんなが王たちの子さ。むかしもいまも王位をねらうやつらの天国だよ。やつは溺れて死にかけた簾中を助けたけれど、おまえは駄犬に吠えつかれてふるえている。でも、オル・サン・ミゲーレでグイドをからかった宮廷人どもは自分たちの家にいたんだぜ。その家ってのは……。おまえの中世ふう難解考証癖はもううんざりだよ。やつがやったことをやる気があるのかい? ボートは近くにあると思うぜ、救命ブイも。《もちろん》、おまえのために置いてあるのさ。やるの、やらないの? 九日前にメイドン岩の沖で溺れた男。みんなはその死体があがるのを待ってるんだ。本音を吐けよ。やりたい。クロンゴーズの学校で、洗面器の水に顔をひたしたときのこと。見えないよ! 後ろにいるのは誰? 早く出してくれよう、早く! 見えるだろう、四方から潮がすみやかに流れこみ、すみやかに砂地の窪みを覆い隠し、殻まじりココアの色にかえていくのが? 足が地についていればなあ。彼には長生きしてほしいけど、ぼくだって命は惜しい。溺れかけた男。その人間の目が恐怖のなかから、ぼくに向かって金切り声をあげる。ぼくは……いっしょに沈むのは……母を救うこともできなかったし。水、苦い死、消えた。

 ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズⅠ』を読みました。これから『Ⅱ』『Ⅲ』も読むつもりですが、全体で感想を述べようとするときっとうまくいかないに違いない、それほど複雑で広大だし、ちょうど『Ⅰ』を読む中で考えたことを吐きだすのが区切りが良いだろうと思ったので、書いておきます。

 引用文のように、捉えどころのない文、だれがだれに対して喋ってるのか明瞭でない会話文(方言つきの)、ダブリンの細かい地理、登場人物の自由な回想(これを「意識の流れ」と言うのだと知りました)など、かなりの部分で破格的な作品だと思います。

 だから、はっきり言ってこの登場人物がどういう特徴の持ち主だったか分からなくなるし、地の文と心の声と音声もいっしょくだになるし、「どういう風に進行しているのか分からないから読むのに大変」だったこともあります。それは、一生懸命全体を理解しようと努めようとするから疲れるのではなく、全体のまとまりはない、しかしジョイスは確かに「何か斬新なものを書いている」から疲れたのだと思いました。

 例えば、ジョイスはびっくりするような登場人物の内心の声を細々と書き連ねます。しかしこれは普通のことではありません。例えば、現実的な会話で、

 「なあ、A子、マックでも食べに行かない? え? ごっほん(咳) 分かったよ、とりあえずドライブにでも行こう」

このようなのがあったとします。途中で咳をしたんですね。この咳、僕が自分の小説を書いていて、本筋に関わりがない限り(たとえば、その人物が風邪を引いていることを強調したい場合だったり、ということです)、省くと思います。

 「なあ、A子、マックでも食べに行かない? とりあえずドライヴにでも行こう」

このように訂正、処理すると思います。それは文学上の自働処理と呼んでもいいのかもしれません。
しかし、ジョイスの小説は、「ウアー!とあくびした。ウアアアアアアアアアムム」などと、ことごとく事細かく、仔細に、自分の音声を聞きわけ、そしてそれを書くのです。  さきほどの文学上の自働処理では、心や口にされた音声を、一部編集して、別の形に(咳を消去するなどして)変換するわけですが、ジョイスは積極的にあくびや咳、わけのわからない考え、意識の流れを拾おうとするのです。

 人間、頭の中で考えていることは常に流動的です。失恋の事で悩んでいたか思えば、あ、お腹減った、もう六時か……と思い、それからお母さんに昨日ひどい事言っちゃったな……と思う次には、また失恋に関心が移る。 文学は登場人物の心理や会話のやり取りを表しますが、それもまた一つの「文学上の(何らかの形での)自働処理」なんですね。ジョイスらの「意識の流れ」の手法は、そういう暗黙のルールに対して違う切り口を提示していると言えると思います。

 あと、わけがわからないけど、文章が美しい。体言止めやリズム感覚などにも秀でています。
だからといって、『ユリシーズⅠ』が面白かったかと言われれば、「うーん? あんまり面白くなかった」というのが正直な感想です(苦笑)。 だって、途中で考えさせられましたもん。こんな無意味に思える記述をずっと続けて、それを読まされることの心痛といったら。

 あと、ところどころでギリシャ神話などの対応関係や、文学世界のワードも散りばめられているみたいですが、それは僕にとってはどうでもいいことでした。 ギリシャ神話と対応しているから教養小説だ、分かるのは楽しい、というのは理解できるんですけれども、ギリシャ神話に匹敵するような世界の始まりの物語を日本人である僕は知ってますし、他にも世界各地にたくさんころがってます。西洋文化だけを特別視することはできません。だからジョイスの「ユリシーズ」は決して教養小説でも普遍小説でもない。それはジョイスの地元アイルランドに根差した文学だと僕は思いました。

 これから『Ⅱ』『Ⅲ』を読むのが楽しみです。

〈平等〉の考察

 「平等」にまつわる考察として、ある具体例をとりたい。僕自身の経験(体験)した範囲である。
僕の小学校では、一学年上にあたる人に、女性で、頭髪が全くない人がいた。そして、全校集会などで、当人を指すものとして、彼女を見た目や身体的な特徴で差別してはならない、うちの立派な生徒で、その人を侮蔑するようなことはあってはならないと、教頭にあたる熱血先生がしきりに叫んでいたのである。

 もしかしたら、ここに、「教養をわきまえていない」子供/分別を有する大人、という一方から一方への移り変わりを図式としてみてもよいのかもしれない。それが「成長」とまことしやかに(大多数の人々に)信じられている事柄である。すなわち、人が成長するのは、子供から大人になるといった字義的な意味だけではなく、分別を有さないものから分別を有するものとしての、「理性の獲得」を、そのメルクマークとみなす、といった、理念的な〈成長〉である。

 分別を有さない子供は、時に(というか僕の目からしたら常に)容赦ない。僕自身、その頭髪が全くない女子生徒が「ハゲ」とか色々言われていることは知っていた。
 しかし、僕は、熱血先生が全校集会でそのような理念めいたことを熱をもってまくしたてる、そのことに何故か異様なものを見る気がする。

 分別をもっていたら、その人をハゲとは呼ばないのだろうか?(このような暴力的な言い方になることを敢えて書かせて頂くことをお断りする)

 もちろん、そうは呼ばないだろう。もっと配慮する。彼女がどう傷つき、どのような感性で、生活や社会の中で立ちまわっていくかに、知らなくても想像力を及ばせることができるだろう。
 
 しかし、立派な〈子供〉の代弁者たる小学生はどうなのだろうか?? そうやって、頭ごなしに「女子生徒にハゲと呼ぶのは差別的なことで、差別はダメだ、だからハゲと呼ぶのはけしからんことなのだ」という三段論法は、伝わるべきなのだろうか?

 どうして彼女をそう揶揄することが差別的な事柄なのだろうか。それは、本人たちが一人一人で考えてみないと、理解しえないことなのではなかろうか。
 その全校集会はおそらく緊急的な意味合いで開かれたものであったのだろう。彼女が実際的に困っているケースに鑑み、学校側としても対策をしたと、むしろ褒められるべき、いい学校であったと思う。

 僕は差別主義者ではない。しかし、差別がいかなる根拠に寄るのか、どうしてそれをしたら差別になるのか、ひるがえって差別とは何なのか、こういった事柄を、自分の頭の中でしっかり考え、思いを馳せないことには、およそ差別は遠ざけられないことは、今の日本社会を見たら明らかなのではなかろうか。

 子供は簡単に、身体的特徴を例えばその人のあだ名にしたりする(ブタ、眼鏡、デブ……)。それはもちろん分別を大人程度には有していないからである。しかし、その子供たちに、頭ごなしに「あの人をそういった言い方で差別するのはダメだ!分かったね!」と叱りつけることは、有効なのだろうか。

 一方で、子供たちが容易な言い方で自分たちのコミュニケーションを図る、図ろうとする、時には暴力的・差別的な言説をもってして、ということをもう少し広く考える。なぜなら、「デブ」や「メガネ」といった言い方もまた社会の常識に照らせば「差別」ではあり、しかもそうした言いようを大人自身が(例えばお笑い芸人と呼ばれる人々はむしろ率先して)広めているのである。
 被害を浴びせられた人が、「これは立派な暴力だ」と訴えるのは、もう立派な差別が行われている。

 僕は、熱血先生の背後に在るのは、表――透明で明るい空間、裏――汚い空間、という表裏の二つの領域による秩序形成であって、表空間が裏空間をそれこそ強制的(暴力的)な仕方で隠ぺい、抑圧してしまう社会のシステムを見た気がした。表の空間では一方的に差別が廃止され、しかしその代わりに抑圧された人々の暗い欲望は、もっと大きな代償として社会の間隙を突くのである。オモテの理念性に固執すると、それがかえってウラの方で暴力が肥大化し止まない、というもっとひどい有様に気付けないだろう。

 だが多くの日本人は、こうしたオモテのクリーンで明るい社会作りのみに目を向けようとし、その代わりに押し殺された欲望や無意識がもっとひどい形で回帰されるということに思いを致さないのが、普通なのである。

 平等は遥かなる〈理念〉であり、この影はあまりに揺らぎすぎている――。

(掌小説)虹を描く

 これだけでも掌篇として成立しているかな、と思い、載せました(続きを書いています)。

虹を描く 光枝初郎

 飛鳥は黒板に夢を描く。
 早朝。誰も居ない。このひと時、本当の朝一番に忍びこむようにして学校に入り、自分のクラスの教室に入ったとき、奥に座っている体格のいい寺尾くんや、目の細い西田さんも居ない、勿論担任だって先生だって居ない、零度の空気に包まれた椅子やゴミ箱が好きだ。教室に入りしな、よく目を閉じる。透明さが澄み渡っている気がする。これからの行為にもっと集中して取り組める、という気がする。飛鳥は自分の席につき、鞄を置くと、もう黒板の前に向かっている。今日は何を描こうか。
 獣人ルダの物語のつづきだ。
飛鳥が幼少の頃にほとんど何の理由もなく誕生し、ノートや教科書の端、プリントの裏、スケッチブック、広告、カレンダー紙などにその都度描かれてきた、半分が人間で半分が獣の獣人ルダは、ウシ科のバイソンをモチーフにしている。頭は左半分が逞しい角を持ったバイソンで、右半分がアメリカのインディアンをモデルにした優しい男性だ。男性の目は透明で、澄んだ輝きを持っている。上半身が人間で、尻尾も備えた下半身がバイソン。何故バイソンと人間が融合するに至ったかは、飛鳥の気ままで緻密な妄想力が後に伝えることだろう。
 獣人ルダは、自然と人間が織りなす――といってもほとんど暴力をけしかけるのは人間の方だが――悲劇の中、アメリカの森に生まれた。ルダは自身の出生に懸けられた役割を実行し、後にアメリカを離れてラテンアメリカの方まで旅をすることになっている。その完成図は飛鳥の頭の中にだけある。ルダは悲しい生き物だ。晩年に彼を待ち受けているのは、アメリカに帰ったとき、同族のバイソンたちが彼の故郷でほぼ絶滅しかかっているという現状だ。バイソンは昔から人間の食料や嗜好品として利用されてきたが、アメリカが国家として発展するに従い、乱獲や大量虐殺の数が膨れ上がったのである。獣人ルダはそんな世界を憂い、失意のままにこの世を去る。ルダもまた、人間が主君としてこの世界を跋扈するその体制に、怒りと反抗を企てた生き物なのだ。
 飛鳥は白と緑のチョークを片手に、次々と絵を描いていく――。メキシコの熱き砂漠を往くルダの絵だ。色んな高さのサボテンは、凛とした姿で描かれる。飛鳥は無心でチョークを曳いていく。ルダは旅の道中で毒を持った真っ黒いガラガラヘビに出会う。ガラガラヘビは巧みに自身の毒を隠したまま、ルダにこう話しかける。「お前はここの地の者か?」
 ルダ「いいや」
 ガラガラヘビ「ならば、俺のこの鱗を舐めるがよい。疲れを癒すだろう。私は旅をする者に良きガイドを与える者だ」

 ガラガラヘビはこう言ってルダを陥れようとするが、賢いルダは怪しみ、口頭戦を用いてその罠を回避するどころか、ガラガラヘビを改心させ自分の旅の仲間にする。
 自分の想像に惜しみなく浸っているときの飛鳥は、輝いている。そのことに気付くものは、本人も含めてまだ誰も居ない。
 黒板を二つに分ける。左半分は、ルダとガラガラヘビが口頭戦を仕掛けているところだ。台詞の英語を特徴ある字体で著したら、素敵な雑貨店のマグカップに描いてありそうな様子になり、飛鳥は気にいった。右半分は二人が和解した後の絵で、砂漠の地の先頭を行くルダに、ガラガラヘビが真っ直ぐ後をついている。
 そのガラガラヘビを描き終わったところで、ドンと後ろの扉を開ける音がし、思わず飛鳥は振り返る。学級員の、大和さんだ。よく知らないし、挨拶以外に話したこともないが、大和さんはいつも早くに学校に来る。
 「……おはよう」大和さんは鞄と体操着が入ったリュックを肩にかけて、訝しげそうに飛鳥の方を見た。
 「……おはよう」改めて飛鳥は黒板を振り返る。絵は出来た。八時十一分。もう他のクラスメートがそぞろにやってくる頃だ。飛鳥はスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、教室の真ん中のところまで降りてから、黒板に描いた絵をパシャリと二、三枚撮った。
 大和さんはすでに席を立って、教室の外へ出ていた。飛鳥独りしか居ない。飛鳥は自分の席に座り、さきほど撮った黒板に描いた絵を眺めた。獣人ルダは、きりりとした表情で、いずれの絵でもガラガラヘビや旅の進行に対してしっかり立ち向かっている。そう、思えた。小さく吐息を吐いたあと、躊躇してから、黒板の方にゆっくり向かい、黒板消しを持って一気に緑色の画板を消しにかかった。

(了)

自由に書く――主に日本の女優と映画「ちはやふる」について

 ここ二日間くらいで、いつもはぼーとした頭の回転スピードが何故か速くなっているので、幾つかのことを書いていきます笑
頭の回転が速いときは、そうでないときと、全く鈍いときと、そもそも物事の感じ方や考え方、つまり世界や相手を「見る」こっちの視点が相当違う気がします。 文字通り、ギアを入れ替えるというやつなのですかね(苦笑)


 さて僕は、もともと邦画よりも洋画の方が好きで、洋画の派手なアクションや、ロードオブザリングのような広大な世界観の映画、それから海外のホラー作品とか、ベンジャミン・バトンといった人生のスケールといったものを感じさせる映画が好きです。

 邦画は、まぁよく言えば、ふだんテレビやドラマでよく出ている、つまりよく「目にしている」――テレビを目にしている watch ということは、必ずしもタレントその人を直接目で見ているわけではもちろんないのにもかかわらず――タレントが映画にも出てくるので、なんか”見知った俳優”が普通のお芝居をやっているような感覚に観る側として捉えられてしまって、内容もそこまで面白くないしなんだかなぁ…… 特撮にジャンル分けされるゴジラガメラ、それからジブリシリーズのようなアニメの方が面白いなって思ってました。

 最近、映画を一緒に観る人の環境も大きく変わり、邦画を観る機会が多くなっています。そこまでではないですが…… それから、大学時代はワールドカップと年末のM-1の決勝、ガキ使以外はほとんどつけなかったテレビを、現在再び目にする機会が多くなり(それもそこまではありませんし、テレビ1時間見る<<<<音楽1アルバム聴く<<<<<<<<<読書1時関する くらいの優先順位です。

 でも、色々な事情があったせいで、芸能人というものに興味を覚えていく自分がいました。昔は、『僕の生きる道』シリーズの草薙剛くんや、『リング』(ちなみに邦画・海外のホラー映画のなかで僕の1,2位を争うのはこの映画です)の松島菜々子とか、『オレンジデイズ』の柴崎コウとか、『ホタルノヒカリ』の綾瀬はるか(「僕生き」にも出てて気になってた)とか……本当にメジャー中のメジャーどころしか関心が無かった僕は、今リアルタイムで活躍している俳優の人も、ちょっとずつですが分かるようになってきました。

 例えば、しゃべくりセブンというテレビ番組は、毎回芸人が、俳優などをゲストに向かえて楽しくトークを繰り広げるバラエティですが、大好きなチュートリアルも出てるしめっちゃ面白いので、しゃべくりを通してゲスト出演する俳優さんを知っていきました。よし菊地凛子覚えた、『ノルウェイの森』観に行こう、松山ケンイチもよかったし、あの小林緑を演じた水原希子というえげつない程の美人女優は誰やねん! という感じで覚えていきましたね、自然に。

 ここからが本題ですが(笑)、最近好きな芸能人(特に女優……笑)は、

 橋本愛 広瀬すず 水原希子 小松菜奈 能年玲奈 土屋太鳳 神木隆之介 福士蒼汰

 ぐらいです。まぁ有名どころで、面白みもないんですけどね。

能年玲奈橋本愛のコンビは、「あまちゃん」という都市(東京)から離れた地方のアイドルという非常に現代的なトピックを扱った朝ドラは、観る観点がすごく多くて批評の考察対象としてもすごく豊富だし、何より朝ドラリバイバルブームの火つけ役ですよね。 まああまちゃん実のところ4週分くらいしか観てないんですが()

 橋本愛はたくさんの映画に出ているので、橋本愛が出ている作品ということで「Another」(原作はミステリ大御所の綾辻行人)とか、「little forrest 春・夏・秋・冬」などを観たりしました。内容は触れませんがどちらもなかなか面白かったです。

 水原希子は俳優として悪戦苦闘している様子が本人のTwitterやニュース記事などから割と耳に入ってきて、なんとなく水原さんは女優もモデルもバラエティも知識系もできる、マルチタレントになればいいと思っています。彼女は英語と韓国語が得意だそうです。グローバルな視野を持った人ですね。いずれはテレビ業界の裏方とか、他のなんかの社長とかになってもいいし。水原希子や栗山千秋とかにはなんか活躍してほしいです笑

土屋たおちゃんも、朝ドラをちょっと見てこの人の笑顔は素敵だなぁと思いました。たおちゃんはめちゃくちゃ美人とかではないですが、あの人のまとっているオーラはなんか太陽そのもののような気がするくらい、時に圧倒されます。「SiM」のPVで芸術的なフリーダンスをしている姿も世間から注目されましたしね。

 広瀬すずは、とにかく映画「海街daiary」を劇場で見たときから、この子はすごいと思いました。むしろ見た当初は長澤まさみっていい女だなとかわけのわからないことを思っていたのですが笑、海街diaryを撮った是枝監督は、広瀬すずという宝物を見つけたといったような発言をしていたように思います。

 昨日ちょうど観に行った「ちはやふる 下の句」(「上の句」も観に行きました)は、大衆映画の部類だし、観賞作品としての高級感みたいなものこそは無いですが、よくある大衆映画とは割と違った、いい作品だと感じました。

 まず、音楽と色彩構成が非常に良かったこと。音楽は、透き通るようなメロディを何回も何回も場面の中でリフレインさせることによって、たぶん監督が伝えたい「ちはやふる」の中心イメージが効果的に反復され、重層的に伝わってきました。音の動静も素晴らしい。静けさと、例えば往生人物たちが和気あいあいとする時の騒がしさとかとのその心地よいまでのふり幅とか。
 あと、登場人物への光の当て方など、非常に美しい場面も何か所かありました。個々の俳優の演技力と合わさって、印象的なシーンを幾つも作っていたと思います。

 内容も、面白かったです。恋の三角関係は愛の文学の基礎中の基礎だし(笑)
 しかし、一番言いたいのは、この”映画”ちはやふるは、俳優・個人としての「広瀬すず」の存在のイメージとでもいったようなものにかなり統一されて制作されたのではないかということです。
 「広瀬すず」って、ひろせすず、さ行が3文字も続き、すごく言いやすいし、なんか風通しが良さそう。そういえば清涼スプレーのCMにも現在出ていたと思いますが、「広瀬すず」は、風通しのよい、透き通った、瑞々しい、爽やかな、そのような「藍色」のイメージ記号を担っている。 そのように考えてみる。

 すると、映画「ちはやふる」では、百人一首のカルタを奪い合うときの手の俊敏な動きからくる風のシーンが何回も何回も出てきたり、青空があったり、主人公の純粋な内面だったり、秘めているひたむきな闘争心だったり、そのようなものが溢れています。つまり、これはタレントとしての「広瀬すず」に付着=付随した、「藍色」的イメージ Image を基軸、音楽も色彩感覚も配置も、調整されているのではないかと。 もっとよく検証してみないと結論付けられませんが、そんな仮説が観賞してて思い浮かびました。

 そこまで面白くないと思っていた邦画も、るろ剣シリーズだったり、大御所感を感じさせる藤原立也や松田龍平の目覚ましい活躍など、意外に日本の現代テレビ・映画シーンも面白いところもあるものだと思っています。なんせ、親元を離れてから、4,5年はテレビの世界からは遠ざかっていましたから。 『リング』とか、『ガメラ1』とか、『るろ剣』とか、それらをどんどん超えていくような日本映画が見たいものです。できれば、どんどん。いや、ゆっくりでいいか、、、……  終


 

2016上半期読書ベスト15 (最後)

5位 鹿島田真希『ゼロの王国』 同率で笙野頼子『三冠小説』(番外で説明)

ゼロの王国

ゼロの王国

 装丁や本の厚みといった点でもとても素敵な書物。そして、中身は賛否両論らしい(読メ感想を見たところ)

ですが僕はとても好きです。どちらかというとかなり抽象的な(着服している服の詳細などはあまり書かれない)登場人物が、愛や、社会や、様々な事を語り合い、次のチャプターへと物語が進んでいくという、壮大な会話劇です。
 名前を失念しましたが、主人公が最初に出会う、結婚式場で働いていたアルバイトの女性(佐藤ユキだっけ)が、一番好きでした。服の色とか、表情の描写がほとんど無いのに、くっきり浮かび上がってくる、その不思議。固定したメンバーが、愛について大真面目に語り合い、後半は文字通り共産主義社会やユートピアなどについて思想にまで踏み込むこの文章は、圧倒的です。賛否両論が分かれるのは当たり前だと思います。
 これはとにかくフランス文学だと思いました。この本がフランス語に訳し返されて、同じ装丁で発売されたら、反響がどうなるのかとても知りたいところです(そんなことがあるのか分からないけど)

4位 ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』

うたかたの日々 (ハヤカワepi文庫)

うたかたの日々 (ハヤカワepi文庫)

 最高でした。実は、最初の印象はよくありませんでした。只の青年同士のキャッキャウフフした日常か・・・?と思ったら、やっぱりイキな仕掛けが随所に秘められている。突然出てくるヴィアン的な突拍子のつかない事態は、何を隠喩しているのかとつい考えたくなるくらい衝撃的で、素敵です。そして、睡蓮の花が心臓に宿る……これは妊娠の喩えなのではないかというコメントを見て、ははあ、そう考えるとしっくりくるなぁ、でも堕胎したのかなあ、やっぱり違うのかなあ、といろいろ考えてしまいます。哀しい結末。ヴィアンが、一見愉しそうな空間を描いていて、その中で反転とした異常事態や悲劇を織り交ぜるのは、言葉が見つからないのですがただただ美しいなあと思わされました。こんな小説は書けない。

3位 トマスピンチョン『V.』(上下)

V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

V.〈上〉 (Thomas Pynchon Complete Collection)

 ずっと読みたいと思っていたピンチョンの長編をやっと読めました。処女作の『V.』から読んで良かったなぁと自分の選択をほめます() この作品についてこの余白であちこち語り尽くすことはできないのですが、ピンチョンは絶対メルヴィルが好きですよね。それは他の作品を読んでた時も感じました(要するに船のシーンが多い)。
 個人的に特に印象に残ったのは、上巻の、登場人物に整形手術を施すシーン。医学の細かい知識がないとぜったいに書けないし、とにかくすごい描写でした。普通、手術の体験って、医者側の視点から見た体験って医者以外にはできませんからね(笑) 追体験させてもらった感じです。読書は体験に満ちていると思います。
 それから、下巻の、「V.」にまつわる一人のロボット的な人物を子どもたちが無茶苦茶に破壊するシーン……。映像が映画のように、ありありと浮かんでくるようで、悲哀に満ち、怒りと無秩序で溢れ、強烈な場面でした。
 ピンチョンははちゃめちゃ。そのはちゃめちゃさは、後から後からどんどんクセになってくるタイプのものかもしれません。

2位 セリーヌ『なしくずしの死』(文庫上下)

なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)

なしくずしの死〈上〉 (河出文庫)

 セリーヌについては僕が今一番敬愛している作家なので、安易には語れません。ただし、簡単なことを書いておきます。
セリーヌ自身は、実際はたとえば主人公のこんな悲惨な幼少時代のような生活は、味わってないそうです。つまり、自伝的に書いたにせよ、いくばか(というかものすごい)誇張がある。しかし例えばその誇張は、セリーヌの思考と想像=創造のなかで、どんどん膨れ上がり、奇形となって、このような形で現れたということである。セリーヌの幼少時代は気になりますが(知人からセリーヌの分厚い伝記をお勧めして頂きました)、やはり作品とそれとはまったく別のものだと思いました。
 文体ですよね、文体。 ……! …… 短文の凄まじいまでの畳みかけ。 『夜の果てへの旅』よりもさらに激しく、支離滅裂といえる(それは否定的な意味合いでなく)ところまでつきつめた、そんなすごい実験作とでも言えるでしょうか。

1位 マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』

世界終末戦争

世界終末戦争

 あまり言葉が出てきません。とりあえずこれは、史実にもいちおうあった、ブラジルにおける19世紀くらいの市民からの革命運動と、それを制圧しようとする政府軍との激しい闘い、それにまつわる人々、色んな登場人物、等など。 技法的な見地からも面白い箇所もたくさんありました。けどやっぱりスケールがすごい・・・! 友人から、「たぶんそれはマジックリアリズムの手法も使っているんだよ」と教えてもらいました。年代や有名な場所などの名前を極力隠しているから、いったいどこで何年に設定された世界の話の事なのか、よく分からないんですね。だけど、圧倒的な闘いがそこにある。すごかったです。好きな人物は、「人類の母」マリア・クラドラードと、カナブラーヴァ男爵かな。最高級の読書体験、本当御馳走様でした。これを2月までには読み終えてから、今6月下旬、すでにリョサの他の二作品を読みました(リョサ著作多い……)


番外編の笙野頼子さんなどについては、また別の機会に。

2016年上半期読書ベスト(中篇)

10位 ジャック・デリダ『獣と主権者Ⅰ』

獣と主権者I (ジャック・デリダ講義録)

獣と主権者I (ジャック・デリダ講義録)

 最近『Ⅱ』が発売されましたが、これは講義録です。デリダが死ぬ前の、けっこう直前の(2~3年前)講義。デリダ著作がとにかくとにかくとにかく(苦笑)難しいので、この講義録はありがたい。しかし講義録でもけっこうむずかしいところはある(笑)
 けど、すごく刺激的な講義です。これは面白い。獣、つまり動物などと、「主権者」、これは関係がある、ということ……幾つかの印象的なパッセージを執拗に繰り返しながら、この講義は魔法にかけられたかのようにどんどん進んでいきます。参照されるテクストはマキャヴェリホッブズ、ルソー、ドゥルーズ、詩、小説など様々。後期デリダのテーマの一つは「動物(という存在をどう考えるか)」でした。そしてそれが主権論にもつながっているということで、とても野心的でかつそれが講義風だから著作ほどむずかしくない、というのがミソだと思います。
 今年中には『Ⅱ』を買います・・・

9位 スベトラーナ・アレクシェービッチ『チェルノブイリの祈り』

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

 2015年のノーベル文学賞受賞者。ルポルタージュ、ノンフィクションという読み物を普段全く読まなかったから、そういう観点でも、翻訳があるのが嬉しいと思って買って読みました。これは3.11と福島原発事故のいまだ余韻に浸らざるを得ない私たち日本人にもすごく関係がある本だと思っています。スベトラーナは、人々の「声」を写し取ります。チェルノブイリ事故で無残な死を遂げた夫を回想する若き妻、地方に住み続けることをただただ選ぶ老婦人。子供たち。ルポルタージュのすさまじさが伝わってきました。こういう作品が、岩波現代文庫で残り、読み継がれていくことが何より大切なのかなと思っています。

8位 ル・クレジオ『隔離の島』

隔離の島 (単行本)

隔離の島 (単行本)

 4月に読みました。三週間くらいはかかった。しんどい読書だったけど、とても濃密で、素敵な時間でした。主人公たちが感染症の伝播防止のためにある島に隔離されるのですが、植物学者の日記が挟まれていたりとか、あと主人公のフィアンセとなる少女は、その存在感が圧倒的でした。この二人の世界はすごい。そこにだけ圧倒的な希望が描かれている。主人公は家族と伝統と温かい場所を捨て、まったく別の人生に飛びこむ決意をした……この隔離された、隔絶された、一カ月と半月ほどの時間の中で。傑作だと思います。

7位 大江健三郎『個人的な体験』

個人的な体験(新潮文庫)

個人的な体験(新潮文庫)


これは割と最近というか、5月に読んだのかな。1週間もあったら読めました。冒頭のヤンキーとの闘いの場面が凄まじい。アメリカの映画を見ているようでした。カッコよすぎる。「バード」とか「火見子」とかのネーミングセンスもすごすぎる(笑) 妻がほとんど書かれてないことは、『万延元年』を読んだ時もそうでしたが、とても気になりました(気にしてくださいとしか言いようがないのだから)。 アルバイトの塾の教壇上でゲロをぶちまけるシーン(笑)

 実際、子供を手放して、火見子とともに希望の新しい地・アフリカに何故行かなかったのか? これは疑問でもあります。大江はわざと書いていない。「なぜ子供を見放さなかったのか」ということを。おそらく、***の場面で省略された部分は、そこを書くにはどうしても事実的な感情が必要になり、しかしそれでは物語として陰りをみせるから、とかじゃないのかなぁ。
 アフリカを夢見ることを捨て、障害児を選んだ主人公は、今後どうするんだろう、妻は、火見子は、と不安定な主人公だから気になりました笑

6位 ニーチェツァラトゥストラ』(佐々木中訳)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

ツァラトゥストラかく語りき (河出文庫)

 ニーチェの最も代表的だろうと言われる主著をやっと読めました! 岩波文庫だと、二分冊になっているのですが、それはずっと昔から使っている書棚に積読されてありました。そこでこの佐々木さんの訳。最高だとしか言いようがありません。佐々木さんは間違いなく言葉の(才の)人だ、それは翻訳でも活かされるのだと思いました。正直、この作品の思想的なところはよく分からなくて、ストーリーを追っていました。天才で孤独のツァラトゥストラが、世間の人に近付いたり、失望したり、怒ったりを繰り返している(笑) その姿は、ニーチェの転身のようでもあるな、と思いました。「神は死んだ」というのは、おそらく、絶対的な権威、神や永遠や幸福への確証といったものが墜落した今、世界は平板な荒れ地のようになっている、みたいな感覚なのではないかと個人的には思っています。ポスト近代への予感ですね。 むしろ、近代そのものの揺れ動きだと思いますが、実際いま近代は揺れ動いています。だとしたら、僕たちは、ニーチェの声をたまにでもいいから聞き続ける必要があるのでしょう。ヒトラーが生まれ、ハイデガーが生まれたその翌年に、ニーチェは自殺をしたのでした・・・。