書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

何度目かの大原美術館を訪れて

 
大原美術館 
www.ohara.or.jp

岡山の南、倉敷市の観光地美観地区内にある大原美術館です。

 授業の絵を描くというのが苦手で、特に水彩がものすごく苦手でした。筆で塗るのがニガテ。だから美術の成績は悪かった。
でも絵は好きでした。けっこう好きだった。特に、中学・高校の美術の教科書は、授業の時も、それ以外でも、割と眺めて、お気に入りの絵を探していた。

 その頃好きだったのは、モネの「夕暮れ」(だっけか?)と、レンブラントの「夜警」。 モネの絵はとても甘美で、そのときは印象主義という用語を正確に知らなかった(僕は音楽を選択していたので勉強する必要もなかった)けど、とてもいいなと思っていました。レンブラントの絵はとにかくすごい!中心の少女が光ってる!!光の感じがすげぇ!! と小学生並みの心的盛り上がり。

 大学生になって、美術館が幾つかあることに気付いて、けっこう果敢にも一人で行ったりした。
そしたら見つけてしまった。美術館の愉しみを。

 それからも、友人の女性を誘ったりとか、断られたりとか、デートも兼ねてとか←、いろいろあったけど、美術館に通うということは何重にも素晴らしい「行為」なのです。

 美術館の愉しみ方を覚えれば、それはもう反復的に行ってもいいし、安い常設展で、大好きな絵をずっと眺めてもいい。
僕は絵の知識が浅いので、「ここの筆はなんでこんなところで曲がっているんだろう。この女性の表情はどういうのだろう」とか,余計なことをあれこれ考えては、じゃあ、次行こうか、という感じで廻るだけなので、本当にマイペース。
 でも僕の友人たちで、美術館に通う人も、けっこうそういうタイプが多かった。そういう人に限って、全然自分の専攻と美術が結びついていなかったことが、また面白い。

 その頃美術検定というのが流行りはじめて、ぼくもゲーム感覚でテキストや問題集を買ったりしたけど、実際には半分くらいまで折角やったのに、当時の勉強やそれなりに忙しかった(慌ただしかった?)生活に流され、放置。


 この夏、2016年の夏、東京に行ったんですが、ふとしたキッカケで、国立新美術館を訪れた。
大学四年生のときも、東京に行って、これがまたふとしたキッカケで、東京国立新美術館に訪れたんです。そのときは、他の博物館の展覧を見て、表参道とか歩き回ってたら、なんか乃木坂駅に着いて、え、ここ美術館なのか、みたいな。

 着いたのが、午後4時。とにかく素敵な建物、雰囲気だったから、急いで室内に入る。全然時間が足りない。
このようにして、あっという間に出会って、あっという間にお別れになったのが、国立新美術館でした。

 だから、今回は意図的ではないにせよ、そうだ、乃木坂駅に行けば、そこから美術館に直結じゃないか、と前の記憶が蘇ったわけです。今度は昼2時。十分な余裕もある。
 建物のテラスで休憩も取ったり、企画展も素晴らしく、やっと「ホントに国立美術館を堪能できた」

って感じでした。

 話が長くて申し訳ないのですが、そのときぼくは、偉大な絵を見ると、自分が信じられないくらい「恍惚」とした気持ちに浸っていることに気付きました。「恍惚」とはたまに文学作品なんかにも出てきますが、まさにあのときの僕の心理状況が、「恍惚」なのだと。至福の時なのだと。  ……神秘体験?笑

 分からないのですが、とにかく嬉しくなり、その絵をずっと見る。ずっと発見がある。溜め息をつく。そして、次の絵に写る。
大学時代と、ちょっと変わったなと。絵の事が、本当に好きになっていると、気付きました。
 それから、ちょっと駆け足で、自分なりに勉強を始めています。
もっと知りたいシャガール 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)


 勉強すると言っても、シャガールの紹介本を精読するだけでもものすごく得られたものが多い。シャガールの生まれた環境、故郷への思い、奇妙な作風にのせた愛の表現、パリと地元と世界戦争と…… テキストは入念に選べば、いつでも素晴らしいのを読めるし、勉強できる。 
 そうしてからセザンヌミュシャなどのガイドブックを読んでるのがまた楽しくなり、そうして昨日、大原美術館に行って気付いたことは、ついた知識は確実に絵を見るときの参考になるということです。
ミュシャART BOX 波乱の生涯と芸術 (講談社ARTピース)


 モネって有名だからすげー、確かにこの絵すげー、となるのも全然いい。し、勉強したうえで、さらに味わうのもよし。

アートと勉強はとても相性がいいと思います。僕の感想ですが。

大原美術館はアクセスもいいのに、こんなところに名画が集まりすぎだろ!とツッコミを入れたくなるほどの素晴らしい美術館だと、地元民としても思います(笑) あと、絵や骨董を各国から集めてきた児島虎ジロウの絵。もうこれが素晴らしいんですよ! 
 大原美術館に来たかたは、是非、大原孫三郎と児島虎次郎の名前もチェックしてくださいね。児島さんはびっくりするくらい爽やかで実に美しい絵を描かれています。大好きです。

結局、アートが大好きなのだ! になっちまった…… それでは。  みすてぃ

性と社会――AV女優について

■性と社会――AV女優について

 最近、AV女優が「強制を迫られ企画に参加させられた」等と告発し、業界を震撼させている風潮がある。AV女優ほど男権社会――この用語の取り扱いには説明を要するが今は省く――において知られている存在もないが、もしそのような彼女らの発言が強制わいせつ罪などを構成し、ビデオ制作などに関わった人々に慰謝料を請求できることにでもなったら、それこそ社会は一変する。性と社会は明らかな形でも結びついている。
 しかし、AV女優こそ秘匿された存在もない。それは男権社会の中で、性に奉仕する従属者として、男からは性的相手、そして女性からは隠ぺいされた存在として、確立されてしまうだろう。もちろん、AV女優は仕事的側面=消費の対象となる商品でもあるから、そのような商品である時間を外せば、彼女たちは一個人なのである。しかし、AVはイメージを付与させる/させられる世界でもあるため、ビデオやDVDは長らく市場に出続け、彼女たちには「AV女優であった」という根深い過去がつきまとうことになる。そこで彼女たちは自分たち自身をも隠匿、忘却しようとするだろう――二重の隠ぺい。すなわち、周りの男/女から違った論理/見方で隠ぺいされ、そのことで自分の主体性も失ってしまう。AV女優の周りには、いつも悲劇的だったり否定的な噂、実存が転がっている。

 だからこそ、近年見られる、AV女優であることを主体的に/肯定的に捉えて活動しようという新しい面は、狂おしいほど美しく見えるのである。例えば私はそれを、割と著名なテレビ番組「徳井義実のチャックおろさせて〜や」で知った。もともと、暗い影や、「生活の為に仕方なく性奉仕をしている」――そういう苦役性が男性の精神的優越による悦楽(サディズム)に限りなく貢献している――側面を持つのが、AV女優という職業の特徴であった。しかし近年は少しだけ違う気もする。それは彼女たちの内面だ。
 同番組の、スカパー!アダルト放送大賞密着ドキュメントという企画では、芸人のレイザーラモンRGが毎回スカパーで行われるその年のAV新人賞や、大賞グランプリを選出し栄誉を授かる一日に潜入取材して、ノミネートに入っている女優におもしろおかしく取材している。そこで映し出されるのは、彼女たちがグランプリ受賞に涙したり、感動したり、感謝の辞をまじまじと述べたりする、本気の姿だ。私が本当に驚いたのは、そのような彼女たちの真摯さでもあったが、それを我が事のように共鳴し、好きな女優が賞を取ったら大喜びし、逃したら女優と同じようにガッカリする、RGの姿なのだ。AV女優を本心から応援する弱き男性――これは間違いなく新しい兆候、斬新な概念であると私は思う。

 自身が性的奉仕を演ずることを肯定的に捉える、だからこそ最近のAV女優がより美しく見える、という男性である私のこの目線は、まちがいなく批判されるべきだ。何故ならそのロジックには、性的奉仕を演ずることは否定性に結びついているという前提を取りはらえておらず、その否定と内面の肯定性(つまり、否定の否定、否定的であることをありのままに受け止める)の逆説が含まれているからだ。つまり私は、彼女たちの性的奉仕はやはりどこかで苦しいものがあると思っているからである。
 世の中の、AV女優を応援する弱き男性たちはどうなのだろうか? 彼女たちが画面の中でAV男性と交わったり辱められたりしているとき、苦しさを感じているのだろうか? それとも何か性的悦楽以外の違う感性を抱いているのだろうか?

 昨今のAV女優は、DVDリリースイベントを各地で行い、その弱き男性=ファン(別に男性だけとは限らないだろうが、圧倒的に男性ばかりである)と握手をしたりする。実に活動的である。その意味では、冒頭に述べた、彼女たちの隠ぺい性、社会から隠されてしまっているという側面は、跳ね返されていきつつあると言ってもいいかもしれない。何より彼女たちがより前向きになっている。しかし結果としての現実はどうだろうか。AV女優はあくまで否定的なものとして、つまり暗いものや、男性に従属するもの、つまり未だ隠ぺいされ続けているのではなかろうか。AV女優という職業が無くならない限り、そのことは常に問いとして提出されるべきなのである。

僕のドラマ遍歴(1)

 今日、NHK夜ドラマの「運命に、似た恋」というドラマを久々に見ました。
ドラマにハマるのは本当に一年に一つくらいで、これ見ようかなって思っても自宅に録画機能が無いので、だいたい何曜日の何時からかを忘れて、やる気がなくなってくるパティーン。

 「運命に」は原田知世さんと斎藤工さんが主演で、めちゃくちゃいい世界観をつくってました。細かい表現や色使いやセリフ構成が、僕の趣味に合っているみたいです。脚本家で選ぶべきなんだろうな。

主題歌のCoccoの「樹海の糸」をリピートしながら書いています(笑)


 僕は、ドラマを見たいと思いつつ、本当に一年に一本、下手したら2年に一本のペースで見るのですが、その分ハマると想いは強いです。

 はやくは小学生のときからSMAPのメンバーが出ていたドラマを見たりしていたけど、想い出を整理しつつ、僕の記憶に残るドラマをつれづれと語っていきます苦笑


・「昼顔」 
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 Wikipedeiaを参照しながら書いていますが、ドラマが放映されたのは2014年の夏クール。

主な出演者:上戸彩吉瀬美智子斎藤工北村一輝、木下ほうか 脚本:井上由美子

 まぁこれは面白かった。おかんと一緒に毎週盛り上がってました(笑) 当時、ドラマながらブログに感想書いたりしてました笑

 第三話めあたりの、木の下で抱擁とキスを交わしてしまうシーンなどは、音楽と共に、ドラマ史に残るものだと思います。まじで鳥肌立ってました。

 僕は、この作品で、不倫というテーマを、力強く描いたのだと思います。単なる肯定とか、単なる否定ではなく、不倫という恋愛にまつわる永遠のテーマを、それに翻弄される登場人物たちの関係図を繊細に描いた傑作だと思います。
 物語自体は、不倫は成就せず、というちょっとカックシな終わり方で、それもいいのですが、なんと2017年に映画で、あれから3年後の世界が描かれるみたいですね。

 これは素晴らしいです。あの話がドラマで終わらかなったことは、制作者たちの真摯さが伺えます。
 木下ほうかは定番のようなイヤミ課長だったな、、、

斎藤工が好きになったドラマでした。

・「最高の離婚
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放映時期:2013年冬クール
主な出演者:瑛太尾野真千子真木よう子綾野剛  脚本家:坂元裕二

 これはもう最高でしたね。 ベスト1かな。
とにかく四人の演技が素晴らしかった。協奏曲だと思った(笑) これも当時、短い評論文章書きました笑

瑛太がとにかくものすごい良かったです、、、 この中で今との関連で一番ブレイクしたのは綾野剛ですかね。尾野真千子の演技も好きでした。 二つの異なるようなカップルが合わさると、もの見事な「drama」がはじまるのだな、と思わず納得。

 スペシャルも見たいな。。


・「オレンジデイズ
オレンジデイズ DVD-BOX

放映時期:2004年春クール
主な出演者:妻夫木聡柴咲コウ成宮寛貴白石美帆瑛太小西真奈美 脚本家:北川悦吏子

高校生の頃大好きだったMr.Childrenの新曲、「Sign」が主題歌になる、そして柴咲コウちゃんも出る、てことでみはじめたのですが、ミスチル好きな友人はみんな見てました。 ザ・大学・キャンパス・青春・ライフ? 笑  そんなイメージです。

 話はあまり覚えてなくて、聴覚障害を抱える柴咲コウ演じる人物と、妻夫木くんの距離が縮まって、最後らへんのベッドシーンは脳裏にあるんだよな、、、。

柴咲コウは前から木村拓哉との「グッドラック!」とかで見てましたが、ほんと今でも大好きです。可愛すぎる。

そしてWikipedeiaを見ると、他のキャストに山田優上野樹里沢村一樹佐藤江梨子となかなかですね。日本ドラマの中心になっている人が集まっている感じ。 偉大なドラマだったのですな。


 他にもいろいろ紹介したいのですが、項目的には、「僕の生きる道シリーズ」、「ホタルノヒカリ1・2」、「トリックシリーズ」、「フードファイト」、「太陽の季節」、とかですかね。 思い出をネット情報で補って再現させるのはおもしろいですね・・・(笑)  また次回に! 

 矛盾律の前提的感得――アウフヘーベンの更新


 世の中には、矛盾律(カント)に陥る命題をもっている概念や事物がたくさん存在する。

 たとえば、愛。

愛は、人を救済する。  あまりに自明すぎて、これを出発点(原因)とするのは馬鹿げているようにすら見える。

そして同じように、愛は人を傷つける。これも自明すぎる。

 これを論理レベルに持ち込むと、愛は人を救済するのか破壊させるのか分からなくなり、曖昧なものとなってしまう。

 アウフヘーベン止揚)というのはカント―ヘーゲルの哲学の概念だが、このアウフヘーベンを少し考えてみよう。

 愛は、人を救済する。 反対に、愛は人を破壊する。 論理レベルでは解決できない。

 しかし、これらはいずれも真であることを、私たちは知っている。 愛は人の最大の慰めにもなれば、たった一つの愛の過ちが人の死を招くことすらありうることを、小説を通して、実経験を通して、知っている。

 ここから帰結できるのは、愛は異常なものである、ということである。愛は法外なものである。愛はとんでもないものである。分かるようで、分からない。

 しかし、これを私は、結論のまま放置しない。 愛が法外である、ということを、前提にして、さらに思考を続けてみたいのである。
論理レベルでは矛盾に陥ったが、感得レベルで、別の角度の帰結を引き出し、そしてそれをさらに再出発点とおく。

 これらの操作を、私は矛盾律の前提的感得として、アウフヘーベンの一種類として概念規定しておきたい。
もっとも、こんなことはすでに別の用語で考えられていそうだが(笑)

 愛が法外なものであるから、愛は確かに論理学や論理を応用した学問の考察対象には向かなそうである。しかし、愛が法外なものである、という強い認識を出発点(原因)として、そこから様々なことがまた新たに帰結できるに違いない。

 もうひとつ、例に出したいのは、いわゆる(日本の)お笑いである。

 お笑い。笑い。

まず、矛盾となるような論理レベルで記述する。

(1)お笑いは、人を感動させる。

(2)お笑いは、人を異常に傷つけ、その差別構造を温存し、ツッコミがボケを叩いたり、あるいは空気を作っては「和の強制力」とでもいうようなものを規範化したり、あるいは笑いとは嘲笑や嘲りをどうしても保持している、などなど、人を破壊する。

 (3)矛盾律が導かれる。

 ここから感得レベル(感覚レベル)にスライドすると、笑いもまた、人の生にとって何かとてつもなく尋常でないもの、法外なものなのである。  お笑いは爆発だ。革命だ。地獄だ。そして、神だ。

 これを強い再認識として措呈し、笑いについて新たな角度でまた思考したり体験したりする。これで、「笑いとは何か」と考え出して結局陥ってしまう以上の矛盾を止揚して、「お笑いは何か法外である」ということからお笑いをさらに人の生と結びつけて思考したりパフォーマンスしたりすることができると思うのである。

 非常に雑記。

ジョイス「ユリシーズⅠ」を読んで

ユリシーズ〈1〉

犬の吠え声が彼に駆け寄り、立ち止まり、駆け戻った。わが敵の犬。ぼくはなすすべもなく立っていた。青ざめて、黙って、追いつめられて。《恐ロシキ物ヲ思イナガラ》。薄黄いろのチョッキが、運命に使える従僕が、ぼくの恐れるさまを見てにやりと笑った。おまえはあれで欲しくてたまらないんだろ、みんなの喝采という吠え声が? 王位をねらう者よ、生きたいように生きるがいいさ。ブルースの弟。トマス・フィツジェラルド、絹の騎士。パーキン・ウォーペック、白薔薇象牙いろの絹のズボンをはいたヨーク家の偽世継ぎ、たった一日だけの脅威。ランバート・シムネル、女中や下僕をぞろぞろ引きつれて王位についた皿洗い。みんなが王たちの子さ。むかしもいまも王位をねらうやつらの天国だよ。やつは溺れて死にかけた簾中を助けたけれど、おまえは駄犬に吠えつかれてふるえている。でも、オル・サン・ミゲーレでグイドをからかった宮廷人どもは自分たちの家にいたんだぜ。その家ってのは……。おまえの中世ふう難解考証癖はもううんざりだよ。やつがやったことをやる気があるのかい? ボートは近くにあると思うぜ、救命ブイも。《もちろん》、おまえのために置いてあるのさ。やるの、やらないの? 九日前にメイドン岩の沖で溺れた男。みんなはその死体があがるのを待ってるんだ。本音を吐けよ。やりたい。クロンゴーズの学校で、洗面器の水に顔をひたしたときのこと。見えないよ! 後ろにいるのは誰? 早く出してくれよう、早く! 見えるだろう、四方から潮がすみやかに流れこみ、すみやかに砂地の窪みを覆い隠し、殻まじりココアの色にかえていくのが? 足が地についていればなあ。彼には長生きしてほしいけど、ぼくだって命は惜しい。溺れかけた男。その人間の目が恐怖のなかから、ぼくに向かって金切り声をあげる。ぼくは……いっしょに沈むのは……母を救うこともできなかったし。水、苦い死、消えた。

 ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズⅠ』を読みました。これから『Ⅱ』『Ⅲ』も読むつもりですが、全体で感想を述べようとするときっとうまくいかないに違いない、それほど複雑で広大だし、ちょうど『Ⅰ』を読む中で考えたことを吐きだすのが区切りが良いだろうと思ったので、書いておきます。

 引用文のように、捉えどころのない文、だれがだれに対して喋ってるのか明瞭でない会話文(方言つきの)、ダブリンの細かい地理、登場人物の自由な回想(これを「意識の流れ」と言うのだと知りました)など、かなりの部分で破格的な作品だと思います。

 だから、はっきり言ってこの登場人物がどういう特徴の持ち主だったか分からなくなるし、地の文と心の声と音声もいっしょくだになるし、「どういう風に進行しているのか分からないから読むのに大変」だったこともあります。それは、一生懸命全体を理解しようと努めようとするから疲れるのではなく、全体のまとまりはない、しかしジョイスは確かに「何か斬新なものを書いている」から疲れたのだと思いました。

 例えば、ジョイスはびっくりするような登場人物の内心の声を細々と書き連ねます。しかしこれは普通のことではありません。例えば、現実的な会話で、

 「なあ、A子、マックでも食べに行かない? え? ごっほん(咳) 分かったよ、とりあえずドライブにでも行こう」

このようなのがあったとします。途中で咳をしたんですね。この咳、僕が自分の小説を書いていて、本筋に関わりがない限り(たとえば、その人物が風邪を引いていることを強調したい場合だったり、ということです)、省くと思います。

 「なあ、A子、マックでも食べに行かない? とりあえずドライヴにでも行こう」

このように訂正、処理すると思います。それは文学上の自働処理と呼んでもいいのかもしれません。
しかし、ジョイスの小説は、「ウアー!とあくびした。ウアアアアアアアアアムム」などと、ことごとく事細かく、仔細に、自分の音声を聞きわけ、そしてそれを書くのです。  さきほどの文学上の自働処理では、心や口にされた音声を、一部編集して、別の形に(咳を消去するなどして)変換するわけですが、ジョイスは積極的にあくびや咳、わけのわからない考え、意識の流れを拾おうとするのです。

 人間、頭の中で考えていることは常に流動的です。失恋の事で悩んでいたか思えば、あ、お腹減った、もう六時か……と思い、それからお母さんに昨日ひどい事言っちゃったな……と思う次には、また失恋に関心が移る。 文学は登場人物の心理や会話のやり取りを表しますが、それもまた一つの「文学上の(何らかの形での)自働処理」なんですね。ジョイスらの「意識の流れ」の手法は、そういう暗黙のルールに対して違う切り口を提示していると言えると思います。

 あと、わけがわからないけど、文章が美しい。体言止めやリズム感覚などにも秀でています。
だからといって、『ユリシーズⅠ』が面白かったかと言われれば、「うーん? あんまり面白くなかった」というのが正直な感想です(苦笑)。 だって、途中で考えさせられましたもん。こんな無意味に思える記述をずっと続けて、それを読まされることの心痛といったら。

 あと、ところどころでギリシャ神話などの対応関係や、文学世界のワードも散りばめられているみたいですが、それは僕にとってはどうでもいいことでした。 ギリシャ神話と対応しているから教養小説だ、分かるのは楽しい、というのは理解できるんですけれども、ギリシャ神話に匹敵するような世界の始まりの物語を日本人である僕は知ってますし、他にも世界各地にたくさんころがってます。西洋文化だけを特別視することはできません。だからジョイスの「ユリシーズ」は決して教養小説でも普遍小説でもない。それはジョイスの地元アイルランドに根差した文学だと僕は思いました。

 これから『Ⅱ』『Ⅲ』を読むのが楽しみです。

〈平等〉の考察

 「平等」にまつわる考察として、ある具体例をとりたい。僕自身の経験(体験)した範囲である。
僕の小学校では、一学年上にあたる人に、女性で、頭髪が全くない人がいた。そして、全校集会などで、当人を指すものとして、彼女を見た目や身体的な特徴で差別してはならない、うちの立派な生徒で、その人を侮蔑するようなことはあってはならないと、教頭にあたる熱血先生がしきりに叫んでいたのである。

 もしかしたら、ここに、「教養をわきまえていない」子供/分別を有する大人、という一方から一方への移り変わりを図式としてみてもよいのかもしれない。それが「成長」とまことしやかに(大多数の人々に)信じられている事柄である。すなわち、人が成長するのは、子供から大人になるといった字義的な意味だけではなく、分別を有さないものから分別を有するものとしての、「理性の獲得」を、そのメルクマークとみなす、といった、理念的な〈成長〉である。

 分別を有さない子供は、時に(というか僕の目からしたら常に)容赦ない。僕自身、その頭髪が全くない女子生徒が「ハゲ」とか色々言われていることは知っていた。
 しかし、僕は、熱血先生が全校集会でそのような理念めいたことを熱をもってまくしたてる、そのことに何故か異様なものを見る気がする。

 分別をもっていたら、その人をハゲとは呼ばないのだろうか?(このような暴力的な言い方になることを敢えて書かせて頂くことをお断りする)

 もちろん、そうは呼ばないだろう。もっと配慮する。彼女がどう傷つき、どのような感性で、生活や社会の中で立ちまわっていくかに、知らなくても想像力を及ばせることができるだろう。
 
 しかし、立派な〈子供〉の代弁者たる小学生はどうなのだろうか?? そうやって、頭ごなしに「女子生徒にハゲと呼ぶのは差別的なことで、差別はダメだ、だからハゲと呼ぶのはけしからんことなのだ」という三段論法は、伝わるべきなのだろうか?

 どうして彼女をそう揶揄することが差別的な事柄なのだろうか。それは、本人たちが一人一人で考えてみないと、理解しえないことなのではなかろうか。
 その全校集会はおそらく緊急的な意味合いで開かれたものであったのだろう。彼女が実際的に困っているケースに鑑み、学校側としても対策をしたと、むしろ褒められるべき、いい学校であったと思う。

 僕は差別主義者ではない。しかし、差別がいかなる根拠に寄るのか、どうしてそれをしたら差別になるのか、ひるがえって差別とは何なのか、こういった事柄を、自分の頭の中でしっかり考え、思いを馳せないことには、およそ差別は遠ざけられないことは、今の日本社会を見たら明らかなのではなかろうか。

 子供は簡単に、身体的特徴を例えばその人のあだ名にしたりする(ブタ、眼鏡、デブ……)。それはもちろん分別を大人程度には有していないからである。しかし、その子供たちに、頭ごなしに「あの人をそういった言い方で差別するのはダメだ!分かったね!」と叱りつけることは、有効なのだろうか。

 一方で、子供たちが容易な言い方で自分たちのコミュニケーションを図る、図ろうとする、時には暴力的・差別的な言説をもってして、ということをもう少し広く考える。なぜなら、「デブ」や「メガネ」といった言い方もまた社会の常識に照らせば「差別」ではあり、しかもそうした言いようを大人自身が(例えばお笑い芸人と呼ばれる人々はむしろ率先して)広めているのである。
 被害を浴びせられた人が、「これは立派な暴力だ」と訴えるのは、もう立派な差別が行われている。

 僕は、熱血先生の背後に在るのは、表――透明で明るい空間、裏――汚い空間、という表裏の二つの領域による秩序形成であって、表空間が裏空間をそれこそ強制的(暴力的)な仕方で隠ぺい、抑圧してしまう社会のシステムを見た気がした。表の空間では一方的に差別が廃止され、しかしその代わりに抑圧された人々の暗い欲望は、もっと大きな代償として社会の間隙を突くのである。オモテの理念性に固執すると、それがかえってウラの方で暴力が肥大化し止まない、というもっとひどい有様に気付けないだろう。

 だが多くの日本人は、こうしたオモテのクリーンで明るい社会作りのみに目を向けようとし、その代わりに押し殺された欲望や無意識がもっとひどい形で回帰されるということに思いを致さないのが、普通なのである。

 平等は遥かなる〈理念〉であり、この影はあまりに揺らぎすぎている――。

(掌小説)虹を描く

 これだけでも掌篇として成立しているかな、と思い、載せました(続きを書いています)。

虹を描く 光枝初郎

 飛鳥は黒板に夢を描く。
 早朝。誰も居ない。このひと時、本当の朝一番に忍びこむようにして学校に入り、自分のクラスの教室に入ったとき、奥に座っている体格のいい寺尾くんや、目の細い西田さんも居ない、勿論担任だって先生だって居ない、零度の空気に包まれた椅子やゴミ箱が好きだ。教室に入りしな、よく目を閉じる。透明さが澄み渡っている気がする。これからの行為にもっと集中して取り組める、という気がする。飛鳥は自分の席につき、鞄を置くと、もう黒板の前に向かっている。今日は何を描こうか。
 獣人ルダの物語のつづきだ。
飛鳥が幼少の頃にほとんど何の理由もなく誕生し、ノートや教科書の端、プリントの裏、スケッチブック、広告、カレンダー紙などにその都度描かれてきた、半分が人間で半分が獣の獣人ルダは、ウシ科のバイソンをモチーフにしている。頭は左半分が逞しい角を持ったバイソンで、右半分がアメリカのインディアンをモデルにした優しい男性だ。男性の目は透明で、澄んだ輝きを持っている。上半身が人間で、尻尾も備えた下半身がバイソン。何故バイソンと人間が融合するに至ったかは、飛鳥の気ままで緻密な妄想力が後に伝えることだろう。
 獣人ルダは、自然と人間が織りなす――といってもほとんど暴力をけしかけるのは人間の方だが――悲劇の中、アメリカの森に生まれた。ルダは自身の出生に懸けられた役割を実行し、後にアメリカを離れてラテンアメリカの方まで旅をすることになっている。その完成図は飛鳥の頭の中にだけある。ルダは悲しい生き物だ。晩年に彼を待ち受けているのは、アメリカに帰ったとき、同族のバイソンたちが彼の故郷でほぼ絶滅しかかっているという現状だ。バイソンは昔から人間の食料や嗜好品として利用されてきたが、アメリカが国家として発展するに従い、乱獲や大量虐殺の数が膨れ上がったのである。獣人ルダはそんな世界を憂い、失意のままにこの世を去る。ルダもまた、人間が主君としてこの世界を跋扈するその体制に、怒りと反抗を企てた生き物なのだ。
 飛鳥は白と緑のチョークを片手に、次々と絵を描いていく――。メキシコの熱き砂漠を往くルダの絵だ。色んな高さのサボテンは、凛とした姿で描かれる。飛鳥は無心でチョークを曳いていく。ルダは旅の道中で毒を持った真っ黒いガラガラヘビに出会う。ガラガラヘビは巧みに自身の毒を隠したまま、ルダにこう話しかける。「お前はここの地の者か?」
 ルダ「いいや」
 ガラガラヘビ「ならば、俺のこの鱗を舐めるがよい。疲れを癒すだろう。私は旅をする者に良きガイドを与える者だ」

 ガラガラヘビはこう言ってルダを陥れようとするが、賢いルダは怪しみ、口頭戦を用いてその罠を回避するどころか、ガラガラヘビを改心させ自分の旅の仲間にする。
 自分の想像に惜しみなく浸っているときの飛鳥は、輝いている。そのことに気付くものは、本人も含めてまだ誰も居ない。
 黒板を二つに分ける。左半分は、ルダとガラガラヘビが口頭戦を仕掛けているところだ。台詞の英語を特徴ある字体で著したら、素敵な雑貨店のマグカップに描いてありそうな様子になり、飛鳥は気にいった。右半分は二人が和解した後の絵で、砂漠の地の先頭を行くルダに、ガラガラヘビが真っ直ぐ後をついている。
 そのガラガラヘビを描き終わったところで、ドンと後ろの扉を開ける音がし、思わず飛鳥は振り返る。学級員の、大和さんだ。よく知らないし、挨拶以外に話したこともないが、大和さんはいつも早くに学校に来る。
 「……おはよう」大和さんは鞄と体操着が入ったリュックを肩にかけて、訝しげそうに飛鳥の方を見た。
 「……おはよう」改めて飛鳥は黒板を振り返る。絵は出来た。八時十一分。もう他のクラスメートがそぞろにやってくる頃だ。飛鳥はスカートのポケットからスマートフォンを取り出し、教室の真ん中のところまで降りてから、黒板に描いた絵をパシャリと二、三枚撮った。
 大和さんはすでに席を立って、教室の外へ出ていた。飛鳥独りしか居ない。飛鳥は自分の席に座り、さきほど撮った黒板に描いた絵を眺めた。獣人ルダは、きりりとした表情で、いずれの絵でもガラガラヘビや旅の進行に対してしっかり立ち向かっている。そう、思えた。小さく吐息を吐いたあと、躊躇してから、黒板の方にゆっくり向かい、黒板消しを持って一気に緑色の画板を消しにかかった。

(了)