書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

「死ね」という言葉の新しい時代性

 若い人が簡単に発する「死ね」という言葉の肯定性を私は見ている。「死ね」という言葉は普通は否定的に捉えられるからだ。しかし、現実に「死ね」という言葉やセリフはこの世界にありとあらゆるほど表象している。これは、否定的な死ねだけではないということだ。肯定的な「死ね」があるわけではないが、これほどスムーズな死ねが出る文化背景があるのである。

 まったく違う方向から話を進めていく。「もったいない」という世界にも伝わっている言葉がある。もったいないという言葉ないし概念をより大切に使いそうなのは年齢が上の世代であろう。実際そう思う。この「もったいない」というのは、明らかにある時代に結びついている。すなわち、第二次世界大戦前後の頃である。日本は戦争に敗れ物質的に貧しいところからスタートしなければならなかった。モノは非常に大切だった。かようなところで、茶碗にご飯一粒でも残っていたら「もったいない」と言って大事にその一粒を食べる、おてんとうさまのお恵みなのだから、というのは非常に分かる話である。

 ところで、現代ではモノが溢れかえっている。溢れかえっているのはモノだけではない。ヒトも、モノも、それから情報もである。現代は「過剰の時代」である。接続過剰であるという時代診断を下した哲学者の千葉雅也がいるが、現代は端的に「過剰の時代」なのだ。

 あらゆるところにモノや情報が溢れかえっている(それこそ無限に近い)。 しかし、人間の処理能力は限られている。そんなにモノが買えない。そんなに情報が把握できない。そもそも、何を買えばいいのかわからない。何を信じていいのかわからない。何が大事で何が大事でないか分からない。

 おそらく、「死ね」という端的な言葉は、こういった過剰な時代に対する一つの「NO!」なのである。情報入らない、モノもいらない、というより勘弁してくれ、過剰が過剰になっていることに対する警告。危機感。ヒトが増えすぎている。モノが増えすぎている。情報が錯綜している。そういったものに対する、過剰への警告が「死ね」の文化的な背景なのだ。

 僕は、2010年代にあった映画「悪の教典」で、人をあんなにスムーズに楽しそうに殺すシーンを見て、非常に衝撃を受けた。あれも時代なのだ。ショックだったというわけではない。確かに少しショッキングな演出ではあるが、あれも、「過剰の時代」、特に人の過剰、精神病の過剰、障害の過剰、政治的問題の過剰に対する「いらない!死ね!」という心理・精神が多かれ少なかれ働いていると思えないだろうか?

 「死ね!」は、ある意味「もったいない」の反義語である。 物質的に貧しかった時代には、「もったいない」ということがいえた。今や物質のみならず、ありとあらゆるものが豊富どころか過剰に存在する時代に、その存在を消去していく方向は必ずや叫ばれるのだ。端的に「死ね!」と。お前ら、この時代に対して、何も言えねぇのか?と。

 僕はそういったものをとても力強く感じる。言葉の表面上の綺麗さなどは僕からすればどうでもいいのだ。