書も積もりし

小説、哲学、雑感など。誤字・脱字が多いのが哀しい

晩年の晦渋さ――大江健三郎『晩年様式集』

晩年様式集 (講談社文庫)

晩年様式集 (講談社文庫)

 大江健三郎が2013年に発表した今のところの最新作『晩年様式集』がどんな小説であるか。冒頭部分の一節と、この小説の目次を引用してみよう。


 

 私は東京でも相当のものだった揺れに崩壊した書庫をノロノロ整頓しながら見つけていた、数年前店頭に積んであるのをひとまとめに購入した「丸善のダックノート」の残り一冊を膝に乗せて(それはダックという呼び名どおり無地のズック地で堅固に作られていて、いかにも老年の手仕事にふさわしい)、どうにも切実な徒然なるひまに、思い立つことを書き始めた。友人の遺書は"On Late Style"つまり「晩年の様式について」だが、私の方は「晩年の様式を生きるなかで」書き記す文章となるので、"In Late Stale"それもゆっくり方針を立ててではないから、幾つものスタイルの間を動いてのものになるだろう。そこで、「晩年様式集」として、ルビをふることにした。
――大江健三郎『晩年様式集』「前口上として」 文庫版(講談社、2017)pp.10


『晩年様式集』目次

前口上として
余震の続くなかで
三人の女たちによる別の話(一)
空の怪物が降りて来る
三人の女たちによる別の話(二)
アサが動き始める
三人の女たちによる別の話(三)
サンチョ・パンサの灰毛驢馬
三人の女たちによる別の話(四)
カタストロフィー委員会
死んだ者らの影が色濃くなる
「三人の女たち」がもう時はないと言い始める
溺死者を出したプレイ・チキン
魂たちの集まりに自殺者は加われるか?
五十年ぶりの「森のフシギ」の音楽
私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。


 さて、大江健三郎は1994年にノーベル文学賞を受賞してから自身の文芸活動をいったん休止した後に復活し、それらの仕事をレイト・ワークすなわち晩年の仕事として自ら位置づけた。『晩年様式集』はそんな「レイト・ワーク」の総決算的な作品だとも言える。引用で示した冒頭部分に『晩年様式集』と銘うった作品がどのような経緯で書かれていったかがいきなり明らかにされ、その名前の付け方を見るにしてもいちいちカッコいいというか、大江健三郎は作品の名前を付けるのが異様にカッコよい。それは哲学者が自分の著作の中で独自の概念を命名しゆっくり練り上げていく過程とそっくりなのである。
 僕は、大江健三郎氏がある種の言葉づくりにこだわるのは、そういった哲学者による哲学概念の創出と同じであると思う。大江氏はしばしば自身の小説の中でまったく新しい世界や新しい視点を提示する。『晩年様式集』自体がそんなこれまでとは異なった視点や世界観の提示への挑戦だと言ってもよいのだ。

 さて、まずは冒頭の引用文章である。

「私は東京でも相当のものだった揺れに崩壊した書庫をノロノロ整頓しながら見つけていた、……」

 この「相当なものだった揺れ」というのは2011年に起こった東日本大震災であり、まさにこの地震原発被災に他の文芸人と同じくしてか独自にか、大江氏が非常に影響を受けたことが窺い知れる。ちなみに、『晩年様式集』での主人公は「長江古義人(チョウコウ・コギト)」という非常に面白い名前で、大江の「江」と長江の「江」がリンクしていることからも推測できるように、作家としての大江健三郎自身に非常に良く似た人物が語っているという程になる。

 実際、物語は自分自身を諧謔するというか、大江氏自身の人生を自らパロディ化して、現実と仮想をめちゃくちゃに融合させるといった非常に難解なものになっている。目次の「三人の女たちによる話」というのは長江古義人の妻や近親者(オセッチャン、アサチャン等という、大江文学に馴染みのある人なら分かるあの人たちである)が長江に向けて直接非難や批判をする文章をそのまま載せるという、一見意味の分からないパートだ。三人の女たちによる厳しい批判・非難は作品上の長江を超えて、現実の大江氏自身を厳しく揶揄したものだとも受け取れる。

 先ほども言ったように長江古義人の人生は大江健三郎の人生に酷似しており、「空の怪物アグイー」や「万延元年のフットボール」といった大江健三郎が現実に出した小説をそっくりそのまま過去に出しているのだ。 そして、「空の怪物が降りて来る」という章はそのまま小説「空の怪物アグイー」をめぐって長江と長江の長男の光が対立をする話である。「三人の女」のパートも、長江が過去に発表してきた私小説群をめぐって、「あの小説では私を揶揄してこんな登場人物を出しましたけれども……」といった、身内の喧嘩話みたいなものを延々と聞かされる。

 実際、晦渋に晦渋を極めた構成ともなっており、いったい大江は何がしたいんだととてもイライラする小説でもある(笑) それくらい話は込み合っており、大江健三郎の小説を読んだことのない人には絶対にオススメできない。少なくとも彼の代表作を一つか二つか読まないとついていくことすら辛い、まさに『晩年様式集』なのである。

と、ストーリーを追いかけているうちは非常に辛いものもあるのだが、たとえば「空の怪物アグイー」を読んだことのある人はこの短編集の裏話を知れる、もしくはあの世界観の延長戦を見ているようで非常に面白いところもある。大江のファンならではの楽しみ方といったところだろうか。

そして、『晩年様式集』はなんといっても文体=styleが新しい。

「……数年前店頭に積んであるのをひとまとめに購入した「丸善のダックノート」の残り一冊を膝に乗せて(それはダックという呼び名どおり無地のズック地で堅固に作られていて、いかにも老年の手仕事にふさわしい)、どうにも切実な徒然なるひまに、思い立つことを書き始めた。友人の遺書は"On Late Style"つまり「晩年の様式について」だが、私の方は「晩年の様式を生きるなかで」書き記す文章となるので、"In Late Stale"それもゆっくり方針を立ててではないから、幾つものスタイルの間を動いてのものになるだろう。そこで、「晩年様式集」として、ルビをふることにした。」

 カッコ付け、英語やラテン語、ルビ降り、引用など様々な文学上の手法を総集めにしたもの、「言葉そのもの」を大江氏の手際によって味わっているかのような感覚に陥る。 ここで、ストーリー上の晦渋さと文体上の晦渋さがリンクし、いったい何が本の中で起こってるのか容易には把握できない、というか大江さん自身も把握していないんじゃないかという位の現象が起こっているのだ。

 書店で見かけたら一度手に取ってパラパラめくってみてほしい。「何か惹かれるものがある」と感じた人は、彼の晦渋さの極みに挑戦意欲を覚える野心溢れる読者に違いない。

P.S. 最終章の「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」 という章。この文章だけで感動を覚えないだろうか。実際物語は感動的に締めくくられる。私は再開できない。しかし、「私ら」ならば……。 この章の意味を読み解くことが、大江が大震災以降にたどり着いた答えの一つである。こういう所にも僕は拍手を送りたい。

法学から見た世界#1 憲法1

今回は僕が大学のとき法律学をかじっていたにも関わらず当時買っていた教科書はいまや散乱し、勿体ないままだと思ったのでもう一度教科書を読みながら復習したり法学を通して論理的な思考を鍛え、他の学問知識からのアプローチも少しできたらいいなと思ってはじめます。
 といっても気ままやっていきたいので学問的な厳密さにはキビしいところがあると思いますがもしひどいことを言っていたら忌憚なくコメントなどで指摘をくださればありがたいです。

 二日前から実家に散乱していた教科書群を整理し(笑)、とりあえず憲法民事訴訟法の教科書最初から最後までいちおう読み直してみようかなあと思っているところです。

#1は憲法学。
テキストは

 長谷部恭男憲法』(第四版)
憲法 (新法学ライブラリ)

 これは今現在第六版まで出ているのですね。さすがに研究者に近しい大学の関係者とかじゃないと、今回はこの部分の記述が大幅に追加されたからとかいう情報は全然分からないですが、基本的に版がたしょう古くても憲法の本質をきっちり掴んでおきたい程度なので、第四版だろうがきちんと勉強させて頂きます。

 憲法の教科書と呼ばれる書籍はそれこそ何冊もあり、学生としては何を選んだらよいかというのが一つの悩ましいところ。僕は憲法講義では3つか4つくらいの教科書の中から選ぶとよいと先生に言われたのが、まぁまずは芦部本、それから二冊のガッツリしたものとしての四人本(以下参照)、

憲法1 第5版

憲法1 第5版

それから樋口陽一先生の本でした。
憲法

 講義の先生(の名前は伏せさせてもらいますが)の説明いわく樋口先生の教科書はとてもいい意味でクラシカルであり、読みごたえがある。決して詳しくないかもしれないが本質的なことが随所に書いてあるみたいな紹介のされ方で直感でこの人の教科書が良さそうだなと思って選んでました。もう今はボロボロとなっていますがまたいつでも読み直したいなぁ。


 さて長谷部本、今日は序盤の序盤、「憲法とは何か」的なところ(pp.22、章立てだと1-1-4)くらいまでのところしか読んでいません。

しかしのっけのところから長谷部節が全開、他の教科書では見られないような論理付けが視点があると思いました。それは憲法のいちおうの正統性の記述です。

 通常の理解、あるいは定説とされてきた芦部先生の本では、憲法が政府を縛り国民の権利と義務の基本を制定するというのは自由民主主義政治との関連から理論づけていたと思います。しかし長谷部先生はその民主主義うんぬんは使わない。
 自由民主主義は第二次世界大戦を経て日本のみならずアメリカや西洋など広範にわたる諸国の基本原理となったきらいがありますが、やはりそれでも政治体制としては一つの立場というところがあり、もし今後日本が違う原理にもとづく政治体制にすすんでいった場合、芦部先生の理論づけでは対応ができません。実際に現在の安倍政権は自由民主主義からみると甚だしく逸脱している動きがあるので、それもあって憲法改正がこれまでになく国政の大きな争点になっているのでしょうが。

 長谷部先生は、憲法憲法であるためのポイントを3つに分けて説明していました。

(1) 公共財のサービス&徴収  

 つまるところ政府は国民に電気や社会保障、その他もろもろのライフラインを最低限確保しなければならない。これは基本的人権の尊重という条文からも内在的に強く論理づけられていますが…… そのライフラインを支給するために、税金という形で必要経費を国民から平等に徴収する必要がある、というものです。
 もし政府という存在がなくても日本の社会状態を想定することはできますが、そのような社会契約(ホッブズ、ルソー、カント、ヒュームなど)以前の状態ではひとりひとりの経済状態や生命の危機などにおいて的確に守ることは不可能であろう。 よって社会契約をなして、最低限のライフラインを国民全員に支給し、そのためのお金を国民から徴収してサイクルを回す、といった感じでしょうか。この説明だと、ルソーの社会契約の概念に依拠しているのかなとおもいます。

(2) 公共財のサービス以外にも政府がやることがある、それは調整問題だ、というものです。道路は左側通行にするか、右側通行にするか、それ自体はどっちでもよいのだがどっちか一つに決めておかないと道路状況がむちゃくちゃになるから、あえて政府がこれ!と決めておいて、あとはみんなに守ってもらえれば社会が回る、というものです。そのために道路交通法という法律を制定しなければならず、それには政府の授権、法律を制定するパワーが与えられる/認めてもよい、という考え方になると思います。

そして
(3) 政府の力の限界、個人の尊厳

 (1)(2)の仕事のために政府はその力量を発揮するわけですが、それが無制限だといけない。なぜいけないかというと、われわれ個人には何人たりにも侵害されてはならない自由で不可侵な、つまり大切な領域があるからです。 いくら政府が国政管理のために土地を収用するからといってその土地に住んでいた人たちのその後の生活はぜったいに侵害されてはなりません。そのようなことが簡単にできないようにしておくことと、仮にやむをえない理由で政府が土地収用に踏み切ったとしても、たとえばその土地を立ち退かなければならない人は損失補償という形で直接政府に請求できる(国家賠償法、損失補償)という制度にしておけばいちおう安心だろう。

 ということで政府の力には限界があり、それは歴史の流れが到達した立憲自由主義的な思想、すなわち個人の尊厳という最大の原理があるからだ、といえます。(3)が大事です。

 まとめると、政府は(2)調整問題や(1)公共財のサービスのために費用を国民から徴収したり権威的に法律を制定したりすることがあるけれども、(3)しかしそれは個人の尊厳を決して損なわない限りにおいてなされなければならない、ということです。このことを長谷部先生は憲法の本質とみています。

 憲法憲法たるゆえん、つまり「憲法の本質」という問題でしたが、民主主義制度の理論を見事に回避し、すごくスッキリした説明で見事だな~と思いました。長谷部先生の調整問題の話はいつも好きです(笑)

#1はここまで。

繰り返し読んだり観たりすること

 昔は、一度読んだ本はあまり読みかえさない、なぜならもっともっと色んな本を読まないといけないからだ! などと僕は意気込んでいました。

 今になっても繰り返し読む本は限られるのですが、それでも自分にとってとても大切な作品は手元に置いて少しでも味わえるだけで幸せだったりすることがあります。

 個人的な話が続いて申し訳ないのですが、僕が書物で衝撃を受けたのは大学三年生の時に読んだドゥルーズの『差異と反復』でした。一行目からぜんっぜん分からない。 「反復とは一般性ではない。」 はぁ?(笑) 反復というのが具体的にどういうことなのかも分からないし、一般性と突然言われても全然ピンとこない。でも、なぜかとても美しいと思いました。まさに『差異と反復』はドゥルーズの主著にして大著、十年以上にわたって行われてきた「ドゥルーズによる哲学史研究」の総まとめになっているこの書物は、輝かしかった。

 今まで通して読んだのは3回、あとは部分的に拾い読んで「うーん分かるような分からないような」と呻くだけなのですが(笑)、それでも大切な一冊です。

 他に好んでパラパラめくったりするのは、セリーヌ『夜の果てへの旅』『なしくずしの死』、ヘンリー・ミラー『北回帰線』、川端康成『雪国』『伊豆の踊子』『眠れる美女』、大江健三郎『死者の奢り』『万延元年のフットボール』『懐かしい年への手紙』、カルロス・フエンテス『テラ・ノストラ』などがあります。バルガス・リョサももっと手元に置きたいなぁ。


 さて、なんでこんなことを話したかというと、いい映画って繰り返し繰り返しみても全然飽きないなっていうことに今改めて気付いたんです。
 ジブリの映画ってよく金曜ロードショーで繰り返し放送されますよね。
 僕は「隣のトトロ」や「魔女の宅急便」が大好きなのですが、繰り返し見るからほとんどシーンが思い出される。あ、次こうなって、こういうセリフがあって……みたいな。
 それで、こないだ「耳をすませば」を借りて見ていたのですが、やっぱり見落としていたと言うか、あまり意識して見てこなかったところがちょくちょくありました。

 一つ出すと、しずくのお父さんは図書館の館長なんですね。それで、しずくがお父さんにお昼弁当を届けに行くシーンで、お父さんが「ほら、うちの図書館でもようやくバーコード処理の体制が整ってね」みたいな台詞があるんですね。

 しずくは、天沢聖司の名前を図書の裏にある貸出カードで確認したんですよね。あれは本当に懐かしい! 僕も小学校の図書館やその時代は貸出カードでした。
 
でも、手続きの煩雑さに対処するのと、コンピュータで効率的に図書を整理するためにバーコード制度になった。それを、お父さんはいいとも言わず悪いとも言わず、とても感慨深くしずくに漏らすんですね。 素敵だなーと思いました。

 ジブリの作品には日本の時代が細かく刻まれています。「耳をすませば」はなんとなく80年代くらいの東京なのかなって感じですが、都市の喧騒の中で猫に導かれてあのアトリエのある景色のいい丘にたどりつくところも全て素敵です。

 宮崎駿はまちがいなくノスタルジアの天才です。ノスタルジー的な哀愁をとても肯定的なものに仕上げている。だから作品は凛々しく、美しさが増すんだと思います。

 素晴らしい小説は何度読んでも違う発見がある。同じように素晴らしい映画は何回見ても新鮮だ。
そういう素敵な作品たちにゆっくり出会って行きたいものです。

マリオ・バルガス=リョサとお知らせ

ペルーのノーベル賞作家リョサの作品はほぼ全て日本にも翻訳されている。その中で僕が完読したのは『世界終末戦争』『密林の語り部』『悪い娘の悪戯』『水を得た魚』、途中読みが『フリアとシナリオライター』と『緑の家』です。

 実に作品の多様性が満ちていて、いろんな作品をいろんな方法で書いている。が実に面白い。そして今のところ圧倒的に面白いのが『世界終末戦争』と『水を得た魚』でした。

『世界終末戦争』は長大な作品ですが、一番初めにこれを選んでそしてそれが衝撃的でした。図書館で借りて二カ月かかって読み終えましたが、これは所有しておきたいですね。
世界終末戦争

 タイトルのようにファンタジーな作品というより、かなり「一国の進退を真っ向から争う戦争の重さと凄まじさ、激烈さ」を描いているといえます。ただ、描き方が巧く、純粋なリアリズムでもないのがさらにまた魅力。

そういえば、河出から『楽園の道』の文庫も出たのだった。『楽園の道』のペーパーバックを持っているのですが、単語レベルで全く話が分からず10Pくらいでダウンしました。次は『楽園の道』か『チボの狂宴』を読みたいところ。


さて、僕は1週間以内に初めて自分一人でキャスをやろうかなと考えています。
1~2時間くらいしゃべろかな、しゃべりたいなと思っているのですが、何せ初めてだし一人で話すのはなかなか苦手な気がするので笑、ちゃんと内容を練っておかないとですね。

 はじめの方は僕の読書傾向、好きな作家とかをしゃべって自己紹介にして、後半はジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』の紹介をまったりやりたいと思います。『ユリシーズ』が気になっているけどまだ読んでいない方、若しくはもう読んでいてこの中途半端な読み手に色々教えてくれる方など、自由に聞きにきてくれたらいいなと思っています。曜日はちょっとまだ分からない。うまくいくといいな。

それでは。

読書日記

ヴィクトル・ユゴーレ・ミゼラブル

まだ100Pほどでジャン・ヴァルジャンの過去の話の途中だけどのっけからずっと面白い。ユゴー作品は以前に『ノートル・ダム・ド・パリ』を途中まで読んでいて、話しの進め方の面白さ、登場人物の魅力がすごいことなど、素晴らしさは分かっていたが、『レ・ミゼラブル』はすでに想像以上に楽しい。

 僕は、改めて文学の知識というものがない。先日、とてもいいきっかけがあって、それから「文学に対する教養や前提知識を持っておくことは、古典の読書そのものをさらに奥深く面白くすることにつながる」ことに今になって気付きました(笑)

 今までほんと自由奔放に手当たり次第に古典やら現代小説やら読んでいたけど、ここにきて文学入門本を何冊かおさえておきたいとやと思いました。まずは僕の好きなフランス文学史からかな。

羽田圭介「コンテクスト・オブ・ザ・デッド」
これは発売された当初から表紙ですごーく気になっていたし実際お金があったらとても買いたかった(図書館で借りて読んでいます)。羽田作品は「メタモルフォシス」を読んだのだけれど、このダーティな味わいは本作でも非常にいい方向に働いていると思う。

まだ全部読み終わってないのだが、ゾンビが街を浸食していくなかで日常を送っていく(いかざるをえない)たくさんの登場人物、という構造になっていて、日常と非日常の重なり具合がたまらない。
これはとても羽田さんに失礼かもしれないけど、文章が本当にきっちりきっちりしていて、完璧に計算の狂いなく構成されていて、僕にはとてもこういう書き方はできないと思った。素直にすげえって思わされた。

きっちり最後まで読みたく思います。

ヴァージニア・ウルフ灯台へ
 文章が綺麗。しかし、読みにくい。主人公のモノローグ。意識的に簡単には読めないようにしている(と思われる)。だが甘美。これはかなり特異な作品だなと思いました。同じ英文学のジョイスの『ユリシーズ』のことを考えました。ラムジイ夫人、ディーダラスといった英国風の登場人物の名前だけが類似点じゃない。 意識の流れ、読みにくさ、そういったものはこの両者に非常に共通しているなと素人は思います。 しっかし思ったよりもすっごく変わった作品だ。びっくりする。

哲学書はデリダの『哲学への権利2』などを読んでいます。けっこう読みやすいです。私見ですが、デリダの本にはアタリハズレがあるのでね……これは僕にとって当たりでした。 デリダブームが去年あたりからずっと続いていますが、ほんとこの人本書きすぎ。

闇は僕の袖口をひっぱって

闇は僕の袖口をひっぱって

自分への自信のなさというものはそら恐ろしい。僕はまたその景色を見ることになった。昨日。自信というものが消失していく。体という抜け殻は残るが、活力を送りこむための〈魂〉は荒廃している。
僕は昨日、静かに、狂おしいほど静かに流れる夜の闇の中で、低く、低く堕ちていった。底なし沼かどうかは分からなかった。僕からあらゆる自信が抜き取られていた。その結果どうなったか。僕は自分を殺してしまいたいと思った。「自殺したい……」というよりも、この憎むべき自己を抹殺したい、一部であれ、丸ごとであれ――そんな風に。
 ともあれ、自殺したいという気持ちほど辛く哀しいものはない。昨日はずっと眠れなかった。仮に眠ったとしても、諦めて眠ったとしても、問題は一つも解決しないと感じていた。寝て、朝起きて、御飯を食べて、図書館に行って、DVDを借りて、家に帰ってDVDを見て、寝て、という生活を過ごしている内に、またあのぐらつき、眩暈、それまで自分が立っていた場所が根本からえぐり取られる・えぐり取られてしまうといったような衝撃が襲ってくるだろう。そうに違いない。僕は何とか解決の糸口を見つけ出したかった。
 最初に思いついたのは、宗教への信仰だった。僕は仏教キリスト教に関心がある。とりわけヨーロッパ的な世界観のキリスト教は、やり方とお金の問題さえ無視すれば入信してもよいなどとも思い始めた。懺悔、告解というものをしてしまいたかった。これまで僕が為したありとあらゆる悪事、罪。憂鬱な僕は罪と罰の意識に強く拘束されていたのだ。僕はしかしこうも思った。懺悔をする。しかしそれで僕の罪は赦されるのだろうか? そして、僕の荒廃した魂は浄化されるのだろうか、と。そこが大いに疑問だった。最近の僕は哲学的な観点から神の存在(存在、もちろん実在ではない)を肯定しようと思いなしていたところだったが、その神様が僕を赦してくれるのか? そしてそのことで僕の魂が少しでも楽になったりするのか? そうはとても思えなかった。
 時刻は過ぎていった。Googleで近くの教会を幾つか調べたりもしたが、得たい情報は見つからなかった。やがてこの宗教入信という思いつきの発想もどうでもよくなった。依然として夜は深い。すると〈夜の闇〉が僕の服の袖を引っ張った。
「……お前は死んだほうがいいかもしれない……」 大きな口を横に広げたその〈夜の闇〉は僕にそう言っているように聞こえた。
「……そしたら楽になる。お前が死んだということで、少なからず人々がお前の死を悲しんでくれる……」

……そうなのか?

「……もしおまえが死んだら、私が死後に建てられるお前の墓まで連れて行ってやろう。お前の好きな花だって備えられているさ……」
〈夜の闇〉はひひひと低く笑った後、ようやく僕の服の袖口を放した。

「助けて!」とか、「救ってくれ!」とか、ミスチルの歌を聴きながら本当によく感じていた。痛みがあった。しかしもう忘れていた。高校生の頃だ。高校生の僕は、「助けてよ、この辛い気持を癒してよ!」とばかりにミスチルバンプの曲をずっと聴いていた。僕はあの頃の弱くてどうしようもなかった自分のことを懐かしく感じた。と同時に、今の状況はあの頃に非常に近くなっているということにも気付いていた。
 事実、僕は所在のない不安まるだしの高校生の頃の自分にほとんど戻っていた。僕は人前では明るく振舞っていたけど、弱さや痛みを日々抱え、結局それもあふれだしてしまった。そこから僕の精神病との闘いは始まった(まだ終わってもない)。
 自分に自信がないということ。それは、頼りになる筈の自分の能力やイメージが未だ確立されていないか、非常に曖昧なものになっているということだ。アイデンティティ不安。
一体どれくらいぶりだろう、こんなに何もかもに自信をなくしてしまったのは。
自信をなくしてしまった今の自分の無力さはもうどうにかするという類のものですらなかった。
怖ろしい夜よ。(続く)

花の美しさ――川端康成、THE NOVEMBERS

昨日書店で川端康成の『美しい日本の私』の冒頭を読んだら、

花は眠らないことに思い至って、驚いた。

というようなことが最初に書かれてあってものすごく惹かれた。
川端は、旅行の際などに部屋の窓から見える景色や活けてある花などを愛でるが、その花が人間や動物と違って眠らず昼夜咲きっぱなしであるということを思い、花の美しさがまた際立って見えたという。

この『美しい日本の私』は川端康成が日本人で初めてノーベル文学賞を受賞することになった際の国際スピーチを元にしていて、今回の事でやっと買えたのだが、それと同時に僕は日本のTHE NOVEMBERSというバンドのことを連想した。

ノーベンバーズは非常に花を重要視している。代表曲でありそれまでの思想的な総決算といってもいい「今日も生きたね」の中にも具体的に出てくるし、バンドのキーパーソンである小林佑介も普段の私生活から花に対する想いを口にしている。

 僕(筆者)はふだん花に対する美意識が低いので、川端の文章を読んだ時もそうだったが、かえって「花を美しいと感じることとはどういうことか?」という哲学的=根本的な問いの意識にも立ちかえることになった。

 ノーベンバーズは、小林祐介は「美しい」とストレートに口にするが、「美しい」という言葉は日常ではあまり出てくるものではない。反対に、それらが「綺麗」とか「可愛い」とか「形がスッキリしている」とか「均整のとれた」などと、様々な言葉に代わって出てくるというのが本当のところではないだろうか。 つまり、「美」とはまず概念であるように思われる。

 近年のノーベンバーズはますます自らの音楽の核となるワードを「美」や「美しい」というタームに集中させている感がある。僕はこれまで「美しい」を言葉として捉えていて、概念としてうまく捉えられていなかったので、時に荒れ狂う轟音を奏でたり、シャウトしたり、静かな佇まいであったりと姿を変えるノーベンバーズの音楽と「美」を微妙にひきつけて感じられなかった。

 しかし、概念としての「美」は、カントによると人間が持つ認識作用のうちの「判断力」の範囲にあたる。

カントは、哲学史上もっとも重要な書物の中において、人間の認識作用を大きく三つにわけて、さらにそれぞれを三つの書物として実際に刊行した。

1、理性 
2、実践理性
3、判断力

 1の「理性」は「知性」も含んでいる。つまり、物事が正しいか・間違っているかを判断し、導かれるべき方向に導くことのできる人間の人間たる力能である。

  ノーベンバーズの歌には、この「正しいか、間違っているか」という正・不正意識を反映した歌詞がたくさん出てくる。このことは注意しておいてよい。

2の実践理性は、(私見によれば)ほとんど道徳力のことである。人間社会の生活の中で、何がよくて、何が悪いかという、善悪を判別することのできる能力である。 この善悪意識についてもノーベンバーズが絶えずそれに触れていることもリスナーなら頷けるところだと思う。

 そして、2の「判断力」が趣味の範囲にあたり、美や快(同時に醜悪と不快)を判断する力能のことである。

 なぜノーベンバーズが「美」を自分たちの一番最重要のモチーフにあげるか。それはとりもなおさず、1の正・不正判断よりも、2の善悪判断よりも、何よりもこの美しい・美しくない、楽しい・楽しくない、快い、快くないという趣味判断を一番に掲げようではないかという決意表明のように僕には感じられるのだ。それが音楽の世界には出来るのである。いや、音楽を始めとしてそれが可能なのである。音楽を始めとすることによってのみ可能なのだといってもよい。

 何が正しくて、何が間違っているか、若しくは何が良くて、何が悪いか、現代社会では極めて分かりにくい。そのとき、自分の心を信じて、自分の心が100%楽しいと思えたり、綺麗だと思えるものを、何より大切にしていこうという大きなメッセージが僕はノーベンバーズの曲やライフスタイルを通して聴こえてくる。だからノーベンバーズは「美」を、美における狂気の中心を生きる愉しみを宣言するのだ。

 僕はまだ川端の『美しい日本の私』を読んでいない。「美しい日本」と川端が言う美しいがノーベンバーズの「美」とどこまで共鳴するかどうかは分からないが、彼らは決してそう遠くない処で自身の仕事を感じているのだ、と僕は思っている。